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パニック障害の経緯と現在

私は複数の障害を持っているので重なる部分はあるのですが、
今回はパニック障害に特にフォーカスして書いてみたいと思います。

初めて大きな発作が起きたのは小学校4年生の時でした。
当時、私は会食恐怖症が酷く、
給食がまったく食べられなかったのですが、
給食を食べないことをずるい、と言い出したあるクラスメイトから、
クラス内での無視が始まり、
さらに同時期に部活動内のチームでも無視される、という状況が重なって、
大きなストレスを抱えていたんですね。
その部活で、親が見学に来るという行事があったのですが、
その最中にパニック発作が起きました。
親が見に来ている中でも無視されるという状況と、
親たちが差し入れとしてアイスを子供たちに配ったんですが、
会食恐怖症の私は当然、アイスが食べられず、
かといって食べないという選択肢は無い、という状況で、
今思うと、かなり追い込まれていたんですね。
手に持ったアイスがどんどん溶けていき、
食べなきゃ、でも食べられない、どうしようどうしよう…と、
頭がパニック状態になり、
冷や汗と血の気がひく感じや、
動悸、息切れ、強い吐き気という症状が出ました。
そしてついに我慢しきれず具合が悪いです、と、
部活のコーチに申し出たんですね。
すると、親に「なにやってんの、せっかく見に来たのに」と言われ、
さらに追い打ちをかけられながら体育館の隅で倒れこみました。
とにかくこのままどうなってしまうのだろう、
というぐらい具合が悪かったんですね。
今思えばパニック発作なんですが、
当時は何が起きたのかわからないのです。
しばらくして、部活が終わるとともに体調も回復し、
親にも「来た甲斐がない」と怒られながら家に帰りました。
この部活の最中の発作をきっかけに、
小さな発作を繰り返すようになります。
会食恐怖があるためか、食事(給食)中などに発作が出やすく、
外出先でも発作が起きますし、人前に出ると発作が起きます。
そうやって徐々に生活全般に影響を及ぼすようになりました。
そんな時、親から無理やり習わされていた音楽教室の発表会がありました。
本番が迫り、舞台袖に行くと、
あの嫌な冷や汗と共に、倒れて死んでしまうのではないか?
と、思うほどの動悸と吐き気が襲ってきました。
どうしようどうしよう…と頭の中はパニックなのですが、
だれにも言えず本番を迎え、ステージへと上がりました。
もう今にも倒れそうなのに、鍵盤を震える手で弾き、
必死で我慢して、どうにかステージを降りました。
すると、さっきまでの具合の悪さは収まったのです。
これは何かおかしい、私の体に何か異常が起きている、
とは思っているのですが、
当時はパニック障害という言葉も無かったので、
何もわからないまま、出来ない事が増えていき、
部活も音楽教室も辞めることになりました。
親からは「途中で辞めるなんて根性無し」と罵られました。
内科にも行きましたが、異常が無かったことで、
親からは仮病だ、と罵られました。
発作はどんどん酷くなっていき、
ある日、用事があって自転車で走っている最中に、発作が起きました。
自転車を漕いでいられなくなりそのまま転倒してしまいます。
それをきっかけに、
朝、家のドアを開けると発作が起きるようになったのです。
親に具合が悪いと訴えても「仮病だろ」と言われ、一蹴されます。
しかし、次の日もその次の日も、朝になると具合が悪くなり、
ついに布団から起きあがれなくなってしまいました。
学校に行きたくても行けない状況なのに、
学校に行けと親から責められる毎日で、
親からは「学校にも行かず寝ていていいご身分だな」と言われました。
そして、小学6年生の時にほぼ寝たきりの状態になりました。
親はその状況を、怠けと捉えていたので、
病院に繋がることも診断されることもなかったのでわかりませんが、
おそらく今ならうつ病と診断されたかもしれません。
寝たきり状態の私を心配して、
祖父がときどき様子を見に来てくれるようになりました。
祖父は学校にいけない私を責めることは無く、
いつも優しく声をかけてくれて、
寝たきりだった状態から少しずつ動けるようになりました。
すると、祖父が気晴らしにドライブに行こうか?と言ってくれて、
連れて行ってくれたり、
釣りに行こう!と言っては川釣りに連れて行ってくれたりしました。
そんな交流がしばらく続いていた時でした。
祖父が大腸がんになって入院することになったのです。
どうしても祖父のお見舞いに行きたかった私は、
決心して外へと一人で出たのでした。
発作はありましたが、目標が出来ると不思議と頑張れるものですね。
なんとか病院までたどり着くことができました。
このころは少し症状が軽くなっていたのかもしれません。
その後は症状に波があり、良くなったり悪くなったりしながら、
中学はほとんど通えず、不登校状態で卒業。
予備校に通うものの、会食恐怖症とパニック障害が酷くなり退学。
ひきこもり状態になりました。
社会から取り残されてしまったという焦燥感、絶望感から、
気づくとまたうつ状態になっていました。
そんな中、たまたまテレビで映画「学校」を見て、
こんな自由な学校ならいけるかもしれないと思っていたところ、
親から当時の大検(高認)の学校へ行くように言われます。
大検の学校はフリースクールのようなスタイルの学校だったので、
私でもなんとか通えるようになりました。
2年かけて大検を取得。短大へと進学します。19歳の時です。
パニック障害があり、会食恐怖症もあったので人との交流が難しく、
短大ではいつも独りぼっちでした。
結局、友人もできず、就職活動を迎えます。
しかし、発達障害のためか就職活動の仕方がわからず、
友人もいなかったため、聞くこともできず、就活に失敗します。
このころは少しですが、パニック症状が和らいでいたため、
アルバイトをしてお金を貯めます。
親と折り合いが悪かったため一人暮らしをするためでした。
しかし、働けなかったのでどこに行ってもクビになります。
それでも必死で20万を貯め上京します。
上京したものの、パニック障害と会食恐怖、
そして、おそらく発達障害による仕事の出来なさで、
就職先をクビになります。
家賃すら払えないほど生活が困窮してしまいました。
ギリギリの生活をしていたところを姉に助けてもらい、
姉の勤める会社にアルバイトで雇って貰えることとなりました。
どうにか姉に助けてもらいながら勤めていたものの、
27歳の時に再びパニック障害が悪化します。
生活がまったくできなくなるほどの大きな発作でした。
部屋から出ようとすると強い吐き気と動悸がするようになります。
外出がままならなくなりました。
会社にも行けないので、
姉に家まで迎えにきてもらい、一緒に会社に向かいます。
そうすることでなんとか会社にはいけるのですが、
今度は自分の席から離れると発作が起きるようになります。
そのうえ、会社から帰るにも発作が起きるようになり、
自転車で数分のところを2時間かけて帰る、なんてこともありました。
結局そんな状態が1年近く続きます。
とにかく生活全般が出来ない状態なんですね。
外出も買い物も何もできないのでどうにもならないのです。
そこで、もうどこでもいいから病院に行こうとなりました。
そして、一番近くの何科かもわからない小さな病院へと行きます。
今思うと、その病院が転機となりました。
強い吐き気と動悸で怖くて生活全般ままならない話をすると、
「それは心の病気です、心療内科を紹介しましょう」と言われたのです。
その場で紹介状を書いてくれて、受診に繋がりました。
紹介された病院では、全般性不安障害と診断され、
お薬を処方されます。
すると徐々に回復へと向かっていきました。
徐々に外出もできるようになり、
少しずつ症状も和らいでいた30歳のころ、結婚することになりました。
ところが、ここでも親との折り合いが悪く、
相手に会ってほしいと言うと、
「面倒だからまだ付き合ってろ」と言われます。
そのまま話は途絶え、それから半年ほどして、
妊娠がわかったため親へ報告しました。
すると、烈火のごとく怒鳴りつけられ、
「出来ちゃった婚なんかしやがって!」「流産すればいいのに!」
と親から言われます。
あまりのひどい言葉に私は突然胸が痛くなり、
救急車で運ばれる事となりました。
今思うとパニック発作のようなものだったのかなと思うのですが、
病院では異常無しとのことでした。
これがきっかけかどうかわかりませんが、
私は本当に流産しかかり、
パニック発作もまたぶり返してしまいました。
つわりとパニック発作で妊娠初期は大変でした。
さらに、ひどい言葉を受けたことや、
周りの人からの対応などで、
人に対しての恐怖心が強まったのか人間不信に陥ります。
ですが、妊娠後期になり、
「里帰り出産をしろ」と母親に強く言われ、
逆らえずに実家に戻ることとなりました。
世話をするから帰ってこいと言っておきながら、
「こんな時に帰ってきて、金がかかる」と罵られます。
無事出産を迎えたものの、
実家では子育てに対してほとんど手を貸してもらえず、
むしろ、母乳が出なくて困ってる私に、
「無理やりでも出せ」と言ってきたり、
紙おむつを使おうとすると、「布おむつにしろ」と言ってきたりと、
そんな日々を過ごすうちに私はおそらくうつ状態になっていたのでした。
そして、産後2か月検診でやってきた保健師さんから
「あなたは産後うつの可能性がある」と言われ、
心療内科を紹介してもらうこととなったのです。
そこで紹介してもらった病院は、
偶然にも、たまたま当時は少なかった発達障害を診断できる病院でした。
32歳でようやく発達障害と診断されたのでした。
産後うつを含め、パニック障害も会食恐怖も対人恐怖症も、
根っこに発達障害があり、その二次障害だろう、
ということがこの時に判明しました。
しかし、うつ状態のぼんやりとした中にいた私は、
この時は何が何だか分からないまま、
そんな状態で気づけば10年近い歳月が流れます。
そんな時、コロナ渦で再びパニック発作を起こすようになるのです。
特に家で発作を起こすようになりました。
家で発作が起きると逃げ場が無いように感じてとても怖いのです。
しかし、なぜかわかりませんが、
それまでのうつ状態の頭が、
クリアになっていくのを感じるようになりました。
自分でも不思議なのですが、霧が晴れていくような感じになったのです。
すると、パニック発作に関する情報の収集や、
行動療法、薬物療法など、積極的に取り入れていくようになりました。
44歳現在は、発作はだいぶ軽くなっています。

これが私のパニック障害の経緯と現在の状態です。
発作は起きますし、色々悩むこともありますが、
こうしてありのままを発信をすることも治療の一環と思い、
noteを始めたきっかけにもなりました。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

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