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承認欲求について

こんばんは、tomoです。
ちょっと手が空いたので、今日はちょっぴりアドラー心理学に触れたいと思います。
というか承認欲求についてド派手に勘違いしているツイートを目にしたので記してみようと思った次第でして。
*思ったより長くなったのでほんとお時間がある方だけにお読み頂けると幸いです。

個人心理学

正式な(?)名称は個人心理学と言います。
以前「嫌われる勇気」が流行りましたよね?
その時はドラマにもなりましたが、岸見先生が万人にわかりやすいように偉人と青年のやり取り形式で出版されたものの、逆に誤解を受けやすく、「他人の眼は気にせず好き勝手に生きていいんだ」と受け取られた方々もおられたようで、ドラマもそんな感じで描かれてしまっていました(笑)
さてそれはさておき、僕がアドラーの個人心理学に興味をもって随分経ちます。
当時最初あたりに購入したのがこの2冊でした。

「個人心理学講義」「子どもの教育」

個人心理学講義で触れられているのは優越コンプレックスや劣等感、共同体感覚等についてです。
どちらかというと精神科での自閉症の方々の治療についての内容も多く、そこからの概念を解説されているようなものです。
特に優越コンプレックスと劣等感の表裏一体の関係には当時の僕はかなりの衝撃を受け、いや衝撃を受けたというよりも、それまで接してきた人々を観察した上で、そして自分自身の考え方のモヤモヤ感を払拭できたという点で、「これだ!」という目から鱗の内容でした。
他のアドラー本は全てScanSnapでPDF化しているのですが、この2冊だけはさっと手にとって読めるように書籍のままにしています。
前述の「嫌われる勇気」も購入しましたが、他にも岸見先生は様々なアドラー本を出されていますので、ちょっとしたまとめ本みたいなものの方が概略を掴めると思います。

承認欲求

巷でよく「承認欲求」という言葉を耳にする(目にする)と思います。
まあ読んで字の如く、他人様から承認してほしい、認めてほしい、という欲求です。
アドラーはこの承認欲求をスッパリと否定します。
否定といってもそんなものはないという意味ではなく、そんなものはイラネ、という意味です。
これも僕が社会生活の中でモヤモヤしていたもので、例えば僕は子供の頃から「人様に何かを提供するならその人様が満足されてナンボ」というのが当たり前の考え方だったのですが、学生の頃、いや社会人になっても、これが逆に受け入れられないというか、そういう考え自体を有していない人達がごまんと存在することに非常に驚いていました。
まあこういう考え方というの日本の長所、というか、たとえば下町の街工場が優れた技術で海外からも満足度が高いとか、そいういった感じで当たり前だと思っていたんですけどね。
現実社会は全く逆です。

  • 自分はここまでやったんだから、その努力は認めて下さい。

  • 結果より経過を評価してください。

こんな感じの訴えをよく目にしますね。
別のパターンもあります。

  • 私はAのやり方を好むが、あの人はBを好むという。BではなくAを好む私のような人間がいることがわからないのか。

  • 自分のように苦労して取り組んでいる人間がいるのに、あいつは遊びでやっている。自分の苦労がわからないのか。

等々・・・
上述の結果より経過云々というのはまあほんと社会人になってからもよく目にするもので、そもそも経過すらも評価できないくらいのものなのにどの口が言う!みたいな同僚もいました(笑)
そして、さらに問題なのは下に書いた方の例で、これは深刻です。
1例目のAを好むという人は、Aを好むという自分を認めてほしいわけですが、そもそも自分自身がBを好む他人のことを認めないのに、自分を認めろとかわけわかめですね。
さらに2例目に至っては、「あいつ」という他人が遊びでやっているかどうかなんて本人しかわからないわけで、本人は至ってマジメに一定の理論の上で動いているかもしれません。
自分が苦労している分、自分と異質な方法を採っている人間のほうがおかしい、という心情を担保することを「目的」として、「遊びで」という形容を付けるわけです。
そうすれば、相手と自分という対極の2分法で、自分が優位で相手が劣後するという状況を(その人なりに)作り出せるわけですから。

承認欲求では自分が為したことを認めてもらいたいことに加えて、「褒めてほしい」という欲求もくっついてくることがあります。
あります、というか、ありまくりでしょう(笑)
僕もアドラーに同調しますが、褒められること前提で物事を為すというのは先々あまりいい未来を招来しないのではないかと思います。
それよりももっと大事なのは、自分が何かしら人の役に立てているのだと実感をする経験を得ることでしょう。
*故に、僕は中間管理職ですが、部下の人を褒めるということはほとんど行いません。
それよりも何かしらの作業が終わる度とか、報告の都度に、「ありがとう!」と伝えるようにしています。
あなたがいてくれるから僕を含めてこの職場が回っている、ということを実感してもらうために、いやそれ以前に本当に感謝して「ありがとう」と伝えています。

さて、こういったことに関連して、僕が子供の頃から常々思っていたことに

  • 特に誰にも不利益を与えない内容で、個々人で異なる自由な選択をする場合、Aさんが何を選択したってBさんにも他人にも実害はないのだから、Aさんが何を選択したってBさんには関係ないじゃん。

  • ましてや同じようなことでBさんだって何かしらを選択して他人からケチを付けられたら嫌なのだから、Bさんも他人にケチを付けちゃダメ。

というものがあります。
それに関わってくるのが「課題の分離」です。

課題の分離

僕も専門家というわけではないのでうまく説明するのが難しいのですが、要するに課題の分離というのは、
・自分の課題と他人の課題をきっちり分けて考えようね
というものです。
例えば、資格試験を受けて勉強して合格点を取るぜというのは僕の課題で、合格基準点を決めるのは主催団体側の課題です。
宅建なんかで35点がボーダーだとして、「34点にしてよ!」とか僕が言い出すのはお門違いだと。
もっと近場で考えれば、近所のケーキ屋さんのケーキが美味しいかどうかを判断するのは僕の勝手ですが、あんまり美味しくないときに当のケーキ屋さんの店長さんが「頑張って作ったのですから美味しいと言ってください」と僕に要求するのもお門違いです。
皆に美味しいと言ってもらえるケーキを作るのがケーキ屋さんの課題で、評価するのは僕の課題、というわけです。
実生活でも、ネットで見ていても、ここを驚くほど勘違いしている人達が多いのではないでしょうか。
しっかりと課題分離して、自分の課題を粛々とやればいいだけですし、他人が異質だからとしてもそれは他人の課題なのですから。
自分が何かしら他人から言われたときは激しく反応するくせに、他人のことは気になって気になって、自分と異質だったら文句言う、そういうのは難しいことは抜きにして傍目から見て滑稽でしかありません。
自分に何ら利害関係がない他人の性質にケチを付けて自分の性質を根拠にするなんて、やはり自分の方が承認欲求バリバリということを露わにしているだけなんですけどね。

僕は奨学生で、大学院卒業時に既に600万くらいの返済を抱えることになりました。
(しかし奨学金制度のおかげで学ぶことができて今の人生があるので心から感謝しています)
もちろん学生時代の同級生には、全然お金に困らずいいとこに住んで何の苦労もしないという人達も大勢いました。
が、その人達がいるからといって、ましてや仮にその人達を批判したとして、苦学だった僕の人生の何が変わるというのでしょうか?
ぜ~んぜん、何も変わりません。
僕は苦学だったんだ!と人様に何かしら承認してもらおうという欲求もありませんね、そんな欲求は無意味なので。
まあ大変でしたけど、その分頑張りました(笑)

他の人が苦労せずに学生生活を送ろうが、いい生活を送ろうが、はたまたそう能力もなさそうな人が世襲でいいポジションに就こうが、僕の人生をなんら左右することはありません。
人がどうであろうと僕は僕なのですから。

まとめ

僕はまあまあ色んな書籍等を購入して手広く勉強して社労士試験は合格しましたが、そこには他のエントリーでも散々書いている通り、それなりの理論をもってそう行動し、そうして合格を成し遂げたわけで、尚且つ受験するにあたってもそれなりの目的をもって臨んだわけです。
そこで、僕が明確にしておきたいのは、本エントリーでも述べていることに沿っての自分の信念です。

  • 自分は自分なりに目的と理論を伴って行動している(してきた)

  • 他の方々もそうしているとみなすのが妥当であり、他人様の行動の目的や意図をこちらが勝手に決めつけて形容するのは人としてけしからん

  • 他の方が予備校一本で受験勉強しようが、独学でユーキャンテキストと問題集のみで受験勉強しようが、はたまた僕以上に色んなテキストを購入されて片っ端から勉強されようが、僕はぜんっぜん構わないし、僕の人生には何ら影響を与えるものでもなく、また僕がそういった人達に何らかの批判的な言葉しかも論理的な日本語ならまだしも侮蔑語等を投げかけることを選択する余地はゼロであり、ましてやそういった人達が自らの意思で選択し誰にも不利益を与えてもいない行動について批判すべきという思考自体が生まれる余地などゼロ

各々が自分が選択したことについてそこに承認欲求が生まれるとしたら、それを他人に対して承認の要求をしたり、その選択と同じ内容を他人にも共用するならまだわかりますが、それすらないのに「承認欲求である」と形容するのは何ら論理性がないと思います。
そこで「だって相手と違って自分はこうなのだから」を免罪符として持ち出したら、それこそその人自身が承認欲求を露わにしていることに他ならないわけで、論理の矛盾も甚だしいという状況に陥りますね。
少なくともある選択肢を選択した相手側は強要も批判もしてきていないのだし、別の選択肢を選択した側が一方通行で相手を批判しているというのもまた滑稽な状況ではあります。

さらにおまけ(目的論)

アドラーは「目的論」を採用しています。
よく人の行動が過去のトラウマなどでこうなってしまっている、というのは耳にすると思いますが、アドラーの場合は過去の出来事ではなく、未来に対しての「目的」があって行動が生まれているとしています。
例えば子供が何かしらやらかしたとき、本当は親に伝えないといけないのに、黙っていることがあります。
何故黙っているのかというと、当然ながら「怒られない」という目的のためです。
大人でも同じようなことがあったら「言いたくても言えなかった」とか言い訳しますが、皆さん、正直いうとそうなことが理由ではなく「怒られるのが嫌だから」でしょ(笑)
怒られないという目的のために、言わないのです。
「私はやればできる」みたいな思考も同じです。
やったら「やれないことがばれてしまうかもしれない」から、やらない。
やらないでいれば、「私はやればできる」とさえ言っておけば、「できる子」でいられるわけです。
まあそんな証明なんでできないんですけど、やってないものだから、周りも「できない子」だと証明することもできないというね。
「できる子」でいられるという目的、のために「やらない」わけですね。
これもアドラー心理学では有名な内容ですが、自分や周りの人間達の行動をよくよく紐解いてみると、解決の糸口として非常に有用だと思います。

tomo拝

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