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続・読書論雑感

 いったい何のために、我々は読書をするのか。
 以前、戦前の知識人による読書論を紹介した「読書論雑感」という記事をアップしたが、これまでの本ブログの記事中では、最も多く閲覧数を獲得している記事の一つとなっている。

 二編の小論を紹介しただけの短文なので、読んだ方が満足したかは別として、本の読み方に関心を有する人がいかに多いかということを思わされた。それも当然といえば当然である。世の中では今この瞬間もなお、「ナントカ読書術」「読書習慣をつけよう」「読書のメリット」、果ては「本を読まないのはバカ」といった、えげつないコンテンツが汗牛充棟、大量生産され続けているのだから。
 そうなると、好きでもないのに強迫観念によって読書を強いられるという悲劇も日常茶飯事だろう。出版業界は厳しい情勢かもしれないが、それでも書店に行けば、上記の事情で、夥しい本の洪水が知に飢えた民衆を迎え入れてくれる。Amazonの上流から氾濫してくる本、本、本。

 こうした状況に、しなやかに立ち向かう方法のヒントとして、今回も先達の読書についての考え方を研究してみたいが、まずは無頼派の作家・織田作之助の読書論に耳を傾けてみる。1943年(昭和18年)に書かれた「僕の読書法」に曰く。

僕は行儀のわるいことに、夜はもちろん昼でも寝そべらないと本が読めない。従って赤鉛筆で棒を引いたり、ノートに抜き書きしたりするようなことは出来ない。そういうことの必要を思わぬこともないが、しかし窮屈な姿勢で読んだり、抜き書きしたりしておれば、読書のたのしみも半減するだろうと思われるのだ。たのしみと言ったが、僕は勉強のために読書することはすくない。たのしみのために読書するのである。だから、たとえば鴎外なら鴎外を読んだあとで、あわてて誰かの鴎外研究を繙いてみたりするようなことは避けている。鴎外の作品という実物にふれているたのしみを味えば、もうそれで充分だと思う。結論がたやすく抜き書きできたりするような書物はだから僕には余り幸福を与えてくれない。音楽に酔うているようなたのしみを、その書物のステイルが与えてくれるようなものを、喜んで読みたいと思うのである。アランや正宗白鳥のエッセイがいつ読んでも飽きないのは、そのステイルのためがあると思っている。このひと達へ作品からは結論がひきだせない。だから、繰りかえし読む必要があるし、そしてまたそれがたのしいのである。抜き書きをしない代り絶えず繰りかえし読む、これが僕の唯一の読書法である。そして繰りかえし読むことがたのしいような書物を座右に置きたいと思う。

 単純に、楽しいから繰り返し読むのである。しかしここで言われている楽しみは、単なる娯楽というのとも少し違っている。織田は、結論が引き出せない作品を繰返し読むことに喜びを見出し、安易にハウツーを示してくれる読書には、あまり価値を見出していない。思考の糸口となる書物を繰返し噛み締め、スルメのように味が出るものを「楽しみ」と言っているようである。それをふまえて考えれば、「勉強のために読書することはすくない」とか、「作品という実物にふれているたのしみを味えば、もうそれで充分」というのはなかなか貫禄を感じる態度で、心からそう言えるためには、一定の読書経験が必要だとも思う。そして、上記の意味で「楽しみだから」読むというのは、読まれたほうの作家としても、あれやこれや講釈をつけられて評価されるよりも、はるかに冥利に尽きる読まれ方ではないかと想像する。何らかの利益に結び付いた「学び」を得ようなどと卑俗な下心を伴って臨むと、目が曇って作品に向き合えない。筆者の知識を吸い取って役立ててやろうという野心をもてば、爛熟した果実をわざわざ青く苦々しいまま齧るような読み方となり、渋い果汁は自分の糧とならないだろう。

 また続けて織田は、古典について以下のように述べている。

高等学校時代ある教授がかつて「人生五十年の貧しい経験よりもアンナカレーニナの百頁を読む方がどれだけわれわれの人生を豊富にするかも知れない」と言った言葉を、僕はなぜか印象深く覚えているが、しかし二十二歳の時アンナカレーニナを読んでみたけれども、僕はそこからたのしみを得ただけで、人生かくの如しという感慨も、僕の人生が豊富になったという喜びも抱かなかった。恐らくこれは僕が若すぎたせいもあろうと思う。それ故、若い頃に読んだ古典はあとで必ず読みかえすべきであると思う。若い頃に読んだから、もう一度読みかえすのは御免だというのであれば、はじめから読んで置かない方がましであろう。日本の古典なども、僕らが学生時代にしきりに古典復興を唱えている先生たちから習って置かなければ、今もっと読みなおしてよい気持が起るのではなかろうか。名曲など下手な演奏者の手にかかると、ひとからその名曲が与える真のよろこびを取り去ってしまうものである。

 古典については以前の記事でふれた。古典を読み返して、より理解が深まることは、西田幾多郎も同じことを言っていたし、自身の経験からもその通りだと思う。経験は思想の幅を膨らませてくれる。

 続いて、詩人・萩原朔太郎の読書論である。随想集『阿帯』(昭和15年:1940年刊)に収録された「読書と教育について」から。

文学等に志をもつてるインテリ級の青年は、仲々熱心に読書をする。……しかし彼等の読書法は、自分の純な興味でするのでなく、何か他の実利処世の為にするのであつて、本質的に著しく功利的である、たとへば文学青年等は、それによつて資源を得、文壇進出の足場に役立てようとする。……今の文学青年のやうに、初めから文壇進出の実利意識で、片手に算盤を弾きながら読書するのはまちがつてゐる。真に小説を読む人は、小説的興味のために読むべきであつて、何かの為に役立てようとするところの、実益的利用意識で読むべきではない。
それ故に今の青年等は、文学書をよむ場合にも、手つ取り早く文壇のジヤーナリズムや流行思潮に傾倒して、直接文壇出世に役立つ本ばかりを選択する。例へばマルクスが流行ればマルクスをよみ、トルストイが流行ればトルストイをよむ。そして小利口に要領をつかみ、書物から実利価値ばかりを取らうとする。だから結局、彼等は永久に真の「文学的なるもの」を文学書から学び得ず、トルストイをよんで永久にトルストイの文学精神がわからないのだ。

 ここに書かれている朔太郎の気持ちも、学生の気持ちも、経験に照らしていずれも理解できる。文壇への飛躍と実利価値を求めていたわけではないが、学生時代に、論文やレポートの作成に追われ、図書館の一室を借りて書物を読んでいた時には、「自分の考えを補強するなにか」をそこから読み取らなければならないという強迫の苦しみを感じたものだ。そういうときほど難解な著作がますます難しく、わからなくなった。翻って、利害関係を切実に意識しない現在に再度読み返してみると、抵抗なくすうっと得心することがあって驚く。欲目にくらんでいては、結局物事の真の価値を見つけられずに終わることを痛感する。

 朔太郎は続けて以下のように述べる。

他のもつと多くの一般青年等は、一種の社交的虚栄心からして、インテリらしく振舞ふ見栄のために読書をする。かうした若い衆の連中は、流行後れの背広服を着て銀座通を歩くことを、なによりもインテリの恥辱と考へているので、一にも二にも新思潮の走りを追ひ、新しい西洋人の名や著書を覚えることに熱心である。……
 かうしたペダンチツクな読書法が、いかに馬鹿々々しく無益なものであるかはいふまでもない。しかも今の青年学生間には、この種の馬鹿々々しい読書人が、実に意外に多いのである。そして思ふにこの事情は、日本人の病所である、「実利主義」と「見栄坊」の気質にもとづくのであらう。

 よきにつけ悪しきにつけ、流行の思潮というものがある。戦前のマルクスやトルストイのごとく、最近の我々も、ドラッカーのマネジメント論や、コミュニタリアリストのサンデルの白熱講義に嬉々として飛びつき、関連書を読んだだけで物知り顔をした経験はなかったか。昔から言われる専門化タコつぼ論でさえも、横文字になって入ってくればプチブームになる。最近はポストモダニズムという言葉を耳にすることはほとんどなくなったが、いつか復権するのだろうか。

 これほどまでにコミュニケーション技術が進歩し、動画や音声のコンテンツがあふれる世の中にもかかわらず、文字や文章を読む習慣は衰えをみせるどころか、ますます盛んである。人々はスマホで気軽に手に入る知識を求め、それが書籍の内容にも反映されて、冒頭で述べたようなお手軽実用書が氾濫しやすい世の中に来っているのかもしれない。
 それは旧い人間にとっては寂しくもあるが、情報大食漢に牛耳られたかのような知識=実利社会に疲れている人間としては差し当たり、利害関係を度外視した、楽しむための読書、古典に向き合うことの大切さというあたりを念頭に置いて、寝転びながらの読書に戻りたいと思う。


【引用文献】


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