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映画感想 NOPE/ノープ

 人よ、神を軽んじるなかれ。

 『NOPE/ノープ』は2022年のアメリカ映画。ジャンルは「ホラー」と区分されているけれど、実際に見るとなんとも言いがたい味わいの作品だ。簡単にジャンル分けがしづらい作品だ。タイトルになる『NOPE』は「ありえない」「嘘だろ」といった意味となる。
 監督はジョーダン・ピール。もともとはコメディアン俳優だったが、2017年に『ゲット・アウト』を自ら脚本を書き、監督を務めて以降はプロデューサー・監督に転身する。ハリウッドにはスパイク・リーをはじめとして黒人監督の系譜があるが、その跡を継ぐと言われている人である。
 撮影監督にホイテ・ヴァン・ホイテマ。『インターステラー』『ダンケルク』『テネット』とクリストファー・ノーラン監督とのコンビ作が多く、アカデミー賞撮影賞にノミネート経験のある実力者。撮影監督にいい人を連れてきているので、絵力はものすごく強い。
 制作費は6800万ドル。こうした映画にしてはやけに制作費が安い。もともと構成要素が少ないうえに、カリフォルニア州で撮影したのだが、州の優遇措置制度を受けられたので、ロケの予算が安くなったのだそう。興行収入は世界で1億7100万ドル。ものすごい収益を上げた映画だ。
 評価は映画批評集積サイトRotten tomatoを見ると、455件のレビューがあり、肯定評価が83%。オーディエンススコアが69%。批評家からは絶大な評価を受ける一方、一般観客からはちょっと厳しめの評価……ということになっている。ここからわかるように、「痛快なエンタメ」ではなく、噛み応えのあるタイプの作品だ。
 2022年アメリカ・フィルム・インスティテュート賞では「今年のトップ10映画」に選出。サターン賞では最優秀SF映画賞を受賞。他にもホラーとして、SFとして、撮影の美しさでいくつかアワードを獲得している。


 では前半のストーリーを見ていきましょう。


 ヘイウッド家が経営する牧場は、ハリウッドの黎明期から馬を提供し、調教の仕事を引き受けていた伝統ある牧場だった。
 牧場主である老オーティス・ヘイウッドは久しぶりの映画出演の話を受けていて、はりきって乗馬の訓練をしていた。ところがその日、空から“なにか”が降ってきた。なんだ……雹か? なにかがひとしきり降った後、息子のOJは、父親が馬の上でぐったりし、倒れる姿を目撃する。
 老オーティス・ヘイウッドは間もなく死亡した。空から降ってきたのは飛行機からの落下物で、老オーティス・ヘイウッドはその直撃を受けて死んだのだった。

 オーティス・ヘイウッドを亡くして、一家は危機に陥る。息子のOJは調教師の腕はまだまだだし、人と接するのはあまり上手くない。その妹のエメラルドは調教師の仕事に興味がない。
 ヘイウッド家は調教師の仕事を失業し、牧場の馬を少しずつ売ながら、どうにか生活するようになっていた。

 その日、OJは妹のエメラルドとともに、ジュピターパークを訪ねる。馬を売るためだ。ジュピターパークはヘイウッド家の牧場のごく近くにあるテーマパークで、経営主はもとアジア系子役のリッキー・“ジュープ”・パークだった。
 OJはジュピターパークに少しずつ馬を売りながらどうにか暮らしていたが、牧場そのものを売る……ということも提案されていた。
 牧場売却の話を保留にして帰宅し、OJはエメラルドとともに酒を飲み、夜を静かに過ごしていた。ふと窓から牧場を見ると、白馬のゴーストが脱走しているのを見付ける。
 OJがゴーストを連れ戻そうと牧場に出ると、OJはなにか奇妙なものが空を横切るのを目撃する。
 UFOか……!
 翌日、OJとエメラルドは牧場に出没するUFOを撮影しよう……という計画を立てる。いい映像を撮影して売り込めば、牧場の暮らしは安泰……。OJとエメラルドはひとまず電気屋へ行き、カメラを買いに行くのだった。そこで技術者のエンジェル・トレスという男性と会う。


 ここまででだいたい30分くらい。

本作の「元ネタ」は?

名作アニメ『AKIRA』のあのシーンが引用されている。

 この作品は、見ればわかるがものすごく「引用」が多い。細かいところを見ていくとしよう。

 オープニングタイトルの後に出てくるこの動画。撮影したのはエドワード・マイブリッジ。イギリス出身の写真家で、作中で使用される動画は1878年に撮影された。動画というか実際には24台のカメラを並べて撮影されたもので、2000年代頃の言葉でいうと「ブレッドタイム」方式で撮影されたものである。
 この時撮影された連続写真は1880年に上映された。これが世界最初の映画上映である(上映時間は2秒)。これを見ていたトーマス・エジソンが後にキネトスコープを発明することになる。
 映画『NOPE/ノープ』の中では主人公ヘイウッド家の御先祖……ということになっているが、これは創作。実際の連続写真は、当時のカメラ技術であるとそこまで鮮明でなかったために「加筆」していたらしく、馬に乗っていたのは黒人であるかどうかもわかっていない。
 撮影されたのはスタンフォードの農場で、ケンタッキー種の牝馬サリー・ガードナー……ということまでわかっているが、騎手に関するの記録はない。よくわからないところだから、映画の中で「映画史上最初の俳優は黒人だった」という創作を当てはめている。

 映画冒頭に描かれる、1匹のチンパンジーが引き起こした惨劇。
 元ネタといえるかどうかわからないが、似たような事件は2009年に起きている。「トラビス事件」と呼ばれる事件で、テレビやコマーシャルに出演経験のある雄のチンパンジーが、飼い主の友人である女性に襲いかかり、鼻、両耳、両手を噛み切るという惨事が起きている。チンパンジーのトラビスは事件の直後、射殺されている。
 トラビスは「ペプシコーラ」のCMなどに出演し、人間社会によく馴染んでいたはずなのに、いったいなぜ……。原因究明の前に射殺されてしまったために詳しい経緯はわからないままになっている。
 ただ、テレビタレントとして活動するチンパンジーが突如凶暴化する、という事件は度々起きているらしく、日本でもパンくんという動物タレントが突如凶暴化し、飼育員を襲撃している。いくら人間界に馴染んでいようともチンパンジーはチンパンジー。野生を舐めちゃいかん。警戒心は忘れてはならない。

 アジア人俳優のリッキー・“ジュープ”・パーク。ヘイウッド牧場の“お隣さん”であるジュピター・パークの経営者。もと子役俳優だったが、その後出演も人気も途絶え、地方のテーマパークを買収して経営者になっている。
 子役時代のポスターが飾られているが、なんとなく『インディ・ジョーンズ2 魔宮の伝説』を彷彿とさせる。『インディ・ジョーンズ2』にはアジア人子役が出演していて、そこを少し意識しているのかも知れない。
(3Dメガネをかけている少年を見ると、『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』を連想する。ただし、3Dメガネをかけていたキャラクターは『~1』と『~2』で、西部開拓時代を舞台にした『~3』には出ていない)

 作中に出てくる“何か”の外観はカシパンウニを元にしているとされている。こうして見ると可愛いものだが……。
 監督ジョーダン・ピールのイメージには『新世紀エヴァンゲリオン』もあり、不可解な物体が突如現れ人間に襲いかかる……というイメージは『エヴァンゲリオン』に出てくる使徒が元ネタだという。

 あまり言及されない話で正しいかどうかわからないが、映画『ジョーズ』が本作の元ネタではないか、とも言われる。
 牧場の空に不可解な“何か”が出現するが、『ジョーズ』の“海”を“空”に移し替えているという説がある。
 『ジョーズ』のブロディ署長が主人公OJとエメラルド。フーバーがエンジェル。クイントが撮影監督ホルスト。サメの背びれでイタズラする子供たちが、異星人の格好をしてイタズラをする子供たち。『ジョーズ』では樽でサメを釣り出していたが、本作では空気人形で空の“何か”を釣り出している。
 登場人物や展開を見ると『ジョーズ』を丁寧になぞっている……とも言われている。ただ、監督ジョーダン・ピールは『ジョーズ』について特にコメントしてないので、元ネタになっているかどうかは定かではない。

 と、こんなふうに本作には「引用物」が一杯あるのだけど、少し不思議なところでいうと、ジョーダン・ピールは聖書の引用とアニメの引用を同列にしている。聖書とアニメを同格に扱っている……本来それが正しいのかもしれないけど、『AKIRA』や『エヴァンゲリオン』とエドワード・マイブリッジの動画や聖書が同じラインに並んでいる様子は不思議な気がしてしまう。
 でも、こういう感覚がこれからの若い監督の新しい感覚になっていくのかも知れない。

作品のメッセージ

わたしは、お前に憎むべきものを投げつけ
お前を辱め、見せ物にする。
ナホム書 3章6節

 さて、引用物だらけのこの作品だが、テーマとなっていたものはなんであろうか。映画が始まってまず出てくる聖書の引用を手がかりに見ていこう。

 「お前を辱め、見世物にする」……これが示唆するのは、冒頭から描かれるこの場面。1998年に放送されていたシットコム番組『ゴーディ家に帰る』。当時人気があったのにもかかわらず、わずか2クールで幕を閉じてしまったのは、動物タレント・ゴーディが突如凶暴化し、セットを破壊し“共演者”の顔面を食いちぎったため。もちろん、この作品の中の創作だ。
 出演者の1人であったジュープも、その当時はアジア系出身の人気子役だったが、それ以降はまったく振るわず。俳優業を引退して、地方のテーマパークを経営している。

 映像の世界で「見世物」にされる対象というのは、いつも「弱き者」だ。黒人、アジア系、そして動物。“笑い”というのはすべてが心地良いものではない。人はどういったものを笑いの対象にするのか――それは自分たちよりも劣ったものを笑いの対象にする。笑いの対象にすることで、“安心”するのだ。笑うことで自分がその対象よりも上に立っている、これを確認できるからだ。
 映像の世界では、黒人やアジア人といった「外からやってきた」人たちがいつも笑いの対象だった。黒人やアジア人はいつも間抜けな存在として扱われてきた。コミカルに振る舞い、計画は無様に失敗し、最後には笑いをかっさらっていく……そういう役割の中でしか「人気者」になることができなかった。
(日本の映像業界における「外国タレント」も同じだった。「外国人がちょっとヘンなことをやっている」……というのは万国共通で笑いを取れるのだ)
 韓国人俳優であるジュープはありがちな「間抜けなアジア人出身の子供」という役どころで人気を博し、そして忘れられた俳優となった。所詮は「外からやってきた人たち」……使い捨てにされるのが宿命だった。

 映画の中の創作であるが、映像史上最初の「映画」である「馬に乗る黒人」も忘れられた存在だ(すでに説明したように、実際に黒人かどうかわからない)。ただ、いわゆる「カウボーイ」と呼ばれる人々に黒人が多かった、というのは事実だ。映画の黎明期にかかわらず、アメリカ建国の黎明期から黒人は多くいて、たくさんの活躍があったのにかかわらず、歴史書に名前が残るのは白人だけ。黒人もまた忘れられる存在だった。

 そしてもう一つ、動物に対する敬意のなさ。
 映画の前半シーン。撮影所にやってきたOJは「馬を休ませないと」と言うが、撮影スタッフは「主役が乗り気だと馬に言え」と……人間優先で撮影を続行しようとして事故が起きてしまっている。
 人間は自然世界を完全に手懐けた……と思い込んでいる。しかしそれこそ過ちだ。

「あの声を聞け。ゴーストだ。ナワバリを守ろうとしている。調教できない動物もいる」

 主人公は馬の調教師だが、「調教できない馬」も出てくる。白馬の「ゴースト」だ。ゴーストは鞍を背中に乗せさせないし、馬小屋に入れていても脱走する。「ゴースト」の直接的な翻訳は「幽霊」のことだが、時に「魂」を現すこともある。ゴーストの名前に、人間のコントロールできない「野生」が投影されている。

 猿……この言葉は相手を見下すときに使う言葉にされている。猿は自分たちよりも劣った存在だ……人間はそう思い込んでいるから、「猿以下だ」なんて言葉を使いがちになる。
 しかし実際には身体能力は圧倒的に猿の方が上。私たちは猿のように身軽に木に登ったりできないし、腕力においてもオリンピック選手でも勝てない。
 知力であれば猿に勝っている? いや、人類が今のような生活ができるのは「文明」という数千年かけて築き上げた土台があるからであって、実はほとんどの人間は「知恵」を自在にコントロールできるわけではない。本当に賢いのはごく一部の人たちであって、ほとんどの人々はそうではない。何もない野生の中に置いて、人間はチンパンジーと知能対決をして勝てるか……おそらくは「いい勝負」で終わるのではないか。

 そもそも人類は7万年前までアフリカの片隅にいた「自然界最弱」の存在だった。人類はあまりにも弱い存在で、凶暴な獣たちに隠れてコソコソと死肉を漁っていた。私たちはその立場を私たちは完全に忘れている。
 昔の人々は自然や野生の属性を「神」として敬っていた。それにはそうするだけの意味はあった。神は死んでなどいないのだ。

 要するに野生を舐めるな、だ。
 自然を舐めるな。野生を舐めるな。敬意を持って接しろ。
 人類はその野生を“支配の証”として笑いの対象にする。だが完璧にコントロールできる野生などない。
 シットコム番組『ゴーディ家に帰る』ではチンパンジーを笑いの対象にしていた。人間の役者は「笑われる存在」を引き受けていられるが、果たしてチンパンジーは? たくさんの人々に囲まれて「笑われる」ということを引き受けていられるか?
 ゴーディは風船の破裂音を聞いて、それを切っ掛けに逆上し、惨劇が起きてしまった。もしかしたら、「人に囲まれて笑われる」ということにストレスを感じていたのかも知れない。そういう「笑われる存在」がどういう気持ちになるか……を考えていない。だからこそ惨劇が起きた。

 一通り暴れ回った後、ゴーディはテーブルの下に隠れているジュープに気付き、近付き、ハッと我に返ったような仕草をしている。その後、グータッチしようと拳を近付けている。それが2人にとっての「友情の証」だった。
 この構図を見ると、ミケランジェロの『アダムの創造』を連想させる。
 つまり、人間が対峙している「野生」とは、神の世界の属性。人間は神の下でほんの少々の自由を与えられているだけに過ぎない。完全に手なずけた……と思うと逆襲がやってくる。

 ネタバレをしてしまうと、空に現れた“何か”はUFOとか宇宙人とかではなく、「生物」だ。しかしそれは人間がコントロールできない、「野生」そのもの。それが空にいる……「神と人間」という構図になっている。チンパンジーは地上にいて、それが神の属性たる野生だとわかりづらいが、空にいる、ということで「神」の属性であるとはっきりわかるようになっている。そこで映画の冒頭に聖書が引用されている意味が見えてくる。
 ナホム書では崩壊していくアッシリアの愚かさを批判する文章として書かれている。この作品ではそこを組み替えて、空にいる“何か”――『エヴァンゲリオン』ふうにいうと「使徒」を見世物にする愚かさを示唆している。

 作品の中でもわかりにくいシーン。空を漂う“何か”が最初に目撃されるシーン、OJは荒野の向こうで明かりを目撃するが……。
 この明かりがなんなのかというと、「ジュピターパーク」の明かり。
 こんな時間だがイベントをやっているようだ。台詞を聞いてみよう。

「信じますか。1時間後、別人となりここを離れる。毎週金曜日。この半年間。僕は家族と目撃した。恐ろしいほど壮大な光景をです」

 実はジュープはかなり前から、この地域の空に“何か”がいることを察していた。それをショーに“見世物”にしていた。

 イベント会場。シットコム番組を思わせるように作られている。ジュープの背中を見ると、『未知との遭遇』を連想させる刺繍が作られている。
 ジュープは子供時代にあれだけの体験をしたのにもかかわらず、「野生」を“見世物”にしようとしていた。そこにあるのは野生に対する敬意の欠如。野生がどんな性質を持っているか知らず、傲慢にも「手懐けられる」と思い込んでいる。それが落ちぶれてしまった役者が生き残る手段……ということにも悲哀がある。
 その結果、『ゴーディ家に帰る』の悲劇を繰り返すことになる。

 空にいる“何か”は出現するとき、電波障害が起きる。現代的な電子機器はまるごと使用不能になる。現代人の文明はすべてゴミ……。そんな状況下で、どうやって空にいる“何か”を撮影するのか……というと手回しカメラ。
 ここで冒頭に映画史上最初の映像が出てくる意味が活きてくる。空にいる“何か”の前には、人間は文明を失ってしまう。そういう状態だから、文明のレベルを100年前に戻して、肉体一つで野生と対峙しなければならない。それこそ、未知の野生動物を撮影する感覚で挑戦する。そうやってやっと現代人は自分たちが自然世界に隷属する存在だと認識する。

 果たして「忘れられた本当の野生」と人間はどのように戦うのか。そのテーマへと映画は集約していく。

映画の感想

 最初に書いたように、「引用物」がやたらと多い作品だ。その引用物で何を表現したかったのか……それを読む作品でもある。オタク監督にありがちな、「自分の好きなものを詰め込みました」というものではなく、一つのテーマに集約するように引用がなされている。その引用物というのが、聖書とアニメが同列。不思議に思えるが、逆に格差を付けるほうもおかしい……という時代にやって来たのだろう。
 それで何をやりたかったというと、神と人間。野生と人間。人間がいかに小さな存在であるか……それを思い出させる作品になっている。

牧場を捉えるカット。人間が自然に対し、どこまでも小さい。

 後半、空にいる“何か”がはっきりと姿を見せる場面になると、画面はどこまでも“荘厳”になっていく。ジャンル分けすると「モンスター映画」「パニックホラー映画」ということになるのだけど、そこで表現されているのは恐ろしさではなく、美しさ。映画の最後、空にいる“何か”が真の姿を見せるシーン、恐ろしさもあるのだけど、光が差し込んでどこまでも美しい。自然の風景と一体となって、もはや神々しくもある。
 空にいる“何か”はいわゆるな“怪物”ではなく、「野生」あるいは「神」の象徴。そこはやはり一流のカメラマンが撮影しているから、バッチリはまっている。ちゃんと映像で語るシーン作りになっている。
 ただ1つ引っ掛かりがあって、ストリーミング配信で見ていたのだけど、夜のシーンはブロックノイズ出まくり……。きっと4KHDRだったら、ああいう場面もくっきり映っていたんだろうな……。

 そういった神のごとき存在を、“忘れられた人たち”が向かい合う。黒人やアジア人。アメリカ社会ではマイノリティの扱いを受けている人たち。そこに、映画の歴史を作ったのに、その存在を忘れ去られているフィルム……というテーマも重なっていく。
 忘れられた人たちが撮ったフィルム。
 ただのエンタメSFモンスターホラー映画ではない。自分たちの「記念碑」をいかにして再現するか。そのことが裏に語られていく。

 ただ、「SFホラー映画」というジャンル分けが厄介なところで……。こういうジャンル分けがされていると、ほとんどの観客は「恐ろしいモンスターが出現して、人間を次々に殺す」……みたいな話を期待してしまう。『NOPE/ノープ』はそういう作品じゃないし、肝心のモンスターはぜんぜん姿を現さない(現代の観客は、「なかなかモンスターが出てこない!」ということに不満を持つ)。たぶん、一般観客評が極端に低かったのは、そういうところだろう。
 だが、そもそも『NOPE/ノープ』はそういう作品ではない。最初のゴジラが「怪獣映画」ではなく、原発を象徴する純然たる「怪物」だったように、この作品もいわゆるな「モンスター」ではなく、純然たる「野生の生き物」。ある意味、怪獣映画の正しい姿を描いている。
 いい作品なのに誤解されやすい作品でもある。そういうところで惜しい作品ともいえる。


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