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映画感想文 ゴジラとキングコングとモスラとラドンとキングギドラとX星人

 今月から映画感想は短めに書いていきます。

キングコング対ゴジラ 1962

 なーんかコントみたいな映画だった。

 北極を偵察中のアメリカ潜水艦が不審な氷山を発見する。その氷山はどうやら放射能を発しているようなのだが……

キングコング対ゴジラ 1962 (2)

 静止画像だとわかりにくいが、潜水艦が氷山に突き刺さっている場面。
「氷山が放射能を発しているぞ」……という次のシーンになると、なぜか潜水艦が突き刺さっちゃってるんだ。
 えーなんでなんで??

キングコング対ゴジラ 1962 (7)

 氷山が砕けてゴジラが出現!!  でも描写を見ていると、「はぁぁぁ出られないー」と暴れているようにしか見えないんだ。

キングコング対ゴジラ 1962 (8)

 いよいよゴジラ上陸。それを阻止するために軍隊出撃!
 ……という勇ましい場面だけど、戦車がどう見てもプラモデル。これがやたらと可愛い。
 しかし近代兵器のほとんどは効果がなく、後退していくのだけどその姿がまた可愛い。
 ゴジラがこんなに可愛くていいのか?

キングコング対ゴジラ 1962 (5)

 一方その頃、南方のとある島で、「獣神」が目覚めたらしい……という噂を聞きつけて某テレビ局スタッフが取材に行く。
 その一場面が上の画像。地元未開人と交流しているのだが、これがどう見ても全身褐色に塗りたくった日本人。これ、現代だったら大問題になる描写だ。

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 なんやかんやあって、キングコングを日本に連れて行くことになったのだが……。
 見ての通り、船に乗っている人々がお人形。なんだよ、可愛いな、おい!
 これ、スクリーンサイズで見たらどんな気持ちになっていただろうか……。
 船に限らず、ヘリコプターも電車もみんなミニチュア。要するに映画撮影スタッフは撮影所から一歩も出ないで映画を作っている。ロケに行く予算がなかったのかな……。

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 ヘリコプターのコクピット内風景。
 静止画だとわかりにくいが、ポイントはパイロットが握っている操縦桿。明らかにヘリコプター本体と接地してないんだ。今にもうっかり持ち上げちゃいそうな手つきで操縦している。コントにしか見えない。

キングコング対ゴジラ 1962 (11)

 さあて、いよいよゴジラとキングコングが対面!
 ……という場面なんだけど、二人ともぴょんぴょん跳ねて、なんだか楽しそう。一応。「やるぞ! やるぞ!」と気合い入れている様子なんだけど、描写が可愛すぎて、楽しそうに見えてしまう。
 キングコングは当たり前のようにゴジラを同じサイズ。で、その風貌といい歩き方といい、意外にも『進撃の巨人』の獣の巨人にそっくり。ひょっとしてこれが元ネタだったのかな? こっちのコングもやたら石投げるし。
 もう一つ気になったのは、ゴジラは近代兵器が効かないという「設定」になっていて、大砲もものともしないのに、キングコングが投げつける大岩には効果があるんだ。これ、おかしくない? 近代兵器が効かないという「設定」なんだから、大岩をぶつけられても全部跳ね返さなくちゃ。

 最終的にキングコングとゴジラ、どっちが勝ったのか……はネタバレなので書かないでおきましょう。そこは自分で確かめてね。
 いやいや、映画全体がコントみたいだったね。どの描写もやたらと可愛くて笑えてしまう。ミニチュアの描き方もそうだし、原住民の描き方とか、コントにしか見えない。いや、まさかこれを大真面目にやってたりはしないよね……?
 思い出補正……いや、どんなに思い出補正かけても、これはコント! 笑いどころだらけというか、笑うしかないでしょ! というか年代的に思い出補正をかけられないし!(私はリアルタイム世代じゃない!)
 首都圏を目指してゴジラが移動してくるのだけど、人々に危機感なんて何もないし。1960年代はもうゴジラは怖いものでもなんでもなかったんだね。1作目の頃はゴジラは存在自体がホラーだったんだけどなぁ……。もうすっかりコメディ映画のキャラクターになっちゃってた。
 それはそれで、一周回って面白かったけれども。

 視聴したのは、これから『ゴジラVSコング』(2021)を見る予定なので、一応原作にあたる作品を予習として見よう……という趣旨だったのだけど、別に見る必要はなかったね。オリジナル版がギャグ映画だったから、『ゴジラVSコング』がどんな内容だったとしても「オリジナル版より絶対良かったよ」と言えてしまう。これ以下であることはまずないから。思い出補正をかけて「日本の方が素晴らしい」とか……言わない言わない。というか言えないでしょ。これ見た後でも「日本の方が出来がいい!」とか言い始めたら、そいつ、ただのバカだから。
 というかこの奇妙なギャグ映画から、『ゴジラVSコング』みたいなイメージを膨らませたんだね。まだ作品を見てないけど、あの監督すげーよ。
 『ゴジラVSコング』を批判的に見ている人は、『キングコング対ゴジラ』をまず見なさい。すげー進化してる! と驚くから。「この映像をヒントにあれ作ったのか」って思えるようになるから。
 すると監督が子供時代の頃は、この作品を大真面目に見ることができたんだね。今じゃすっかりギャグ映画にしか見えなくなっているけど。こんな映画を真面目に見られた頃もあったんだな……。イメージを膨らませようと思ったら、こっちの映画は観ない方が良かっただろうね。

 『キングコング対ゴジラ』……映画全体の印象がどうだったのか、というともう本当にコント。真面目な気持ちで見ることはもはやできないけど、コメディ映画としてなら充分楽しめる作品。

三大怪獣 地球最大の決戦 1964

 えー前回視聴した『キングコング対ゴジラ』についてだけど、あの作品って、『ゴジラ』シリーズ3作目、ゴジラが初めて別の怪獣と対戦した作品だったんだね。『ゴジラ』シリーズとしては記念碑的な作品で、観客動員数も初代『ゴジラ』越え。この成績は長いゴジラシリーズの中でも際だった成績だったそうな。
(初代『ゴジラ』観客動員数961万人、『キングコング対ゴジラ』観客動員数1255万人)
 じゃあ、あのコントみたいな内容も、当時はわりと「本気」のものとして受け入れられていたんだろう。時代が変わると、見え方も変わるなぁ……。

 では今回視聴の『三大怪獣 地球最大の決戦』……「三題噺」ではございません。『三大怪獣』です。ゴジラ、モスラ、ラドン、キングコングの四つどもえの大戦争が描かれた作品。ゴジラシリーズ5作目。モスラは4作目でデビューしていたので、ラドン、キングギドラは今作でデビューとなった。

ゴジラ1964 三大怪獣 地球最大の決戦 (23)

↑「ゴジラだ」「ラドンだ」と大騒ぎの人々。「ラドン」の名前は金星人から出たのだけど、なぜかすでに全国中に知れ渡る名前になっている。

 『キングコング対ゴジラ』の制作は、撮影所とその周辺からほぼ離れることなく、船も電車もヘリコプターも全てミニチュア撮影という「オイオイ」な内容だったけれども、今作ではかなり大規模なロケを各所で敢行。ゴジラが出現してからはエキストラを動員しての俯瞰映像はかなり見応えある一場面になっている。
 ストーリー展開も一つの場面、一つのキャラクターからではなく、何人もの主人公を立てて、世界の動きをじわじわと見せていくような構成になっている。

 お話はこんな始まり方……

ゴジラ1964 三大怪獣 地球最大の決戦 (5)

 1964年1月。
 真冬にもかかわらず、日本では猛暑が続いていた。さらに空を見上げると連日流星群が観測されていた。
 その流星の一つが、黒部ダム付近へと落下。ただちに調査チームが結成され、その様子を見に行くのだった。

 警視庁では近く来日するというセルジナ公国のサルノ王女の護衛任務準備でゴタゴタとしていた。
 が、サルノ王女を乗せたエアフォースワンが空中で爆破。サルノ王女を快く思わない反対派によるテロだった。この事件によって、サルノ王女は死亡したものと思われた。

ゴジラ1964 三大怪獣 地球最大の決戦 (8)

 テレビ局員の進藤直子はオカルト番組『20世紀の神話』という番組を担当していて、新しいネタを探していた。そんな最中、上野に「自分は金星人だ」と名乗る女が突如現れ、予言を残して行ったという噂を聞く。
 これは番組のネタになる……と思った進藤直子は、金星人を名乗る女と接触を試みるのだった。

 ところが、調査が進むと、この金星人を名乗る女は、死んだと思われたサルノ王女そっくり。もしかするとサルノ王女ご本人ではないか?
 するとサルノ王女そっくりのこの女を狙って、暗殺チームが動き出す。エアフォースワン爆破した一派が、王女を狙っていた。

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 一方、「あの人は今」という番組の中で「小美人」の二人が招待されていた。あれからモスラはどうなったのか……というインタビューにひとしきり答え、帰国の船に乗ろうとしたところに、金星人を名乗る女が現れる。
 金星人を名乗る女は、「この船は出航してはならない」と告げるのだった……。

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 とこんなふうに、色んな所からお話が展開して、世界に異常が起きていることが描写され、そのストーリーが次第に温まったところで、ラドン登場! ゴジラ登場! という流れができている。
 それで、ラドン登場が映画が始まってから30分、ゴジラ登場が40分、キングギドラ登場が50分と、かなり遅め。怪獣登場前に、人間のドラマや怪獣復活の予兆を告げる世界の異変を丁寧に描いている。
 この怪獣出現以前の物語がなかなか面白い。『キングコング対ゴジラ』は全体がコントにしか見えなかったが、今作では人間のドラマや社会情勢がしっかり掘り下げられているし、1960年代の風景が見られるのもいい。

 ところで、この時代はまだオカルト全盛期。テレパシーとか予言、UFOといったスピリチュアル的なものが、わりと本気のものとして語られていた。社会全体がそういったスピリチュアル的なものを本気で信じ、本気で語っていた時代だった。
 UFOにしても、私たち人間の脳波が宇宙に飛んで、それを宇宙人がキャッチして尋ねてくる……みたいに説明されている。UFOを「外界の自我を持った異星人」ではなく、ある種、「精神」や「心」といったもので交信可能な、神秘的存在・精神的存在と認識されていた。そうしたものが、私たち地球人という愚かしい種を、より高次なものに導いてくれる……そうした信仰に似た考えがあった。
(宇宙人を神様か何かだと思っていた)
 「人類はとにかくも愚かしい存在」と考えられていた時代で、地球を汚しているのは人類で、怪獣が定期的に出没するのも、そうした我々に対する罰であるのだ……そんな考えもあった。
(この考え方はこの時代だけで終わった考えではなく、お爺ちゃん世代の人々の意識は未だにこの考え方を持っている人が多いし、若い世代でも形を変えながら……例えばエコ思想……同じような考え方が継承されている)
 この時代は神秘的なものはとにかく空から、宇宙から降ってくると考えられていた。「金星人」を名乗る女が登場してきて予言を残したりするが、そういう人類を救いに導く神秘的存在も宇宙からやってくると思っていたし、一方でキングギドラ的な危ない怪物も宇宙からやってくると思っていた。

 この手のオカルト的な信仰は、それこそ2000年代頃までずっと信じられていた思想で、1960年代といえば子供も大人も学者も無邪気にオカルトを信じていた時代だった。「トンデモ思想」ではなく、権威的なところでも認められていた思想だった。そういった時代を引き受けて作られた映画だから、いま見ると……結構「アイタタタ……」なところが多い。こんな「アイタタ」なお話を、日本人は2000年代初め頃まで本気で信じていたんだよなぁ……今にしてみるとただひたすらに恥ずかしい話。
(その2000年代初めの出版したヒット作品といえば『涼宮ハルヒの憂鬱』。『涼宮ハルヒの憂鬱』は2000年代以前のオカルトブームの意識と、2000年代以後のオカルト否定の意識の端境に立っていた作品だった)
 日本は行動経済成長期を経て、全共闘がどうしたとかいった時代があって、そういった若者の運動がことごとく失敗に終わって、冷笑的な時代を迎えると同時に、むしろオカルトを信じようという意識が強くなっていった。現実に対する挫折が、そういった傾向を促していたのかも知れない。特に、「ノストラダムスの大予言」によるグレートリセットは、「恐れられていた」のではなく、「そうなってほしかった」という願望のようなもので日本人は接していたように思える。

 で、2000年代以後は「冷笑」の時代となり、それ以降の若い世代はこういったファンタジーを一切捨ててしまったのか、というとそんなことはない。2000年代以降がどのように考え始めたかというと、テレビの向こう側、いわゆる「二次元」の世界だった。若い世代は「死ぬ」と「転生」し、その2次元の世界に行けると信じ始めている。「異世界転生」という言い方をしているが、あれは要するに「二次元の世界へ行く」ということ。
 この「転生」つまり「生まれ変わり」の思想も、2000年代以前のオカルトブームの中にあったお話で、2000年代以前には自分の前世と友人だったり恋人だったする相手を探しに行こう……というムーブメントがあった。それの2000年代以降アップデート版が「転生」ということになる。
 現代人はこれを「信仰」と呼ばず「設定」と呼んでいる。「信仰」から「設定」へと意識の転換があるのだけど、この二つの内実を掘り下げると、たぶん出所は一緒。ただ、「死後の世界」というイメージの出ところが、昔ながらの宗教からではなく、アニメやゲームから来ている……という話だ。
 それだけ若者世代のイメージが、クリエイターたちが生み出した「異世界」から来ているという話だし、その「異世界」を至上最高の神秘的なものと見なし、信仰し、現実のしがらみから解放され、異世界へ転生していくことが現代人の望みへと転換されている。
 この「人が死んで、魂が別世界へ行く」という信仰は、これはオカルト時代よりも先祖返りしている。もっとプリミティブな極楽浄土思想に基づく意識だ。ただ、現代人のイメージする「極楽浄土」のイメージが漫画やアニメ由来になり、神仏の代わりに美少女が自分たちの心を救ってくれる……と図式が変わったというだけの話だ。
 ただ、現代人はこの「信仰」を「設定」と捉えている辺り、昔の人と違って信仰に対し距離を取っていることがわかる。「心の底ではそう思っている」けど、外面としての自分はそうではない、というごまかしを自分自身でしている。そうやって我が身を守っている(現代人は恥をかきたくないのね)。

 2000年代以降、2000年代後の日本人の意識から、『三大怪獣』の映画を読み解くという変なことをしたが、それではレジェンダリー映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を見てみよう。なぜ『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の話が出てくるかというと、あの映画の原作がこの『三大怪獣』だから。ゴジラ・モスラ・ラドン・キングギドラが登場し、対決する映画の元ネタが本作『三大怪獣』。
 『キング・オブ・モンスターズ』ではキングギドラは南極の氷の中にいた。どうやらこのイメージ元はラブクラフトの『狂気の山脈』らしい。
 そう言われてみると、確かに『狂気の山脈』と符合するポイントがある。キングギドラはずっと古い時代にすでに地球にやってきて、その後なんやかんやがあって南極の氷の中に封印された……。このエピソードを抜き取ると、確かに『狂気の山脈』そのものだ。
 というところから見て、アメリカではまだラブクラフトのイメージが強烈で、そこからイメージを持ってきても今でも通用するものになっていることがわかる。

 1960年代の日本人はとにかくなんでもかんでも宇宙からやってくると信じ、その信仰を映画にした『三大怪獣』と、それに対して2010年代以降信仰として生まれた「異世界転生」と、ラブクラフトから霊感を得ている『キング・オブ・モンスターズ』……。
 「異世界はどこからやってくると信じているのか」という話だけど、こうした対比で見ていくと、時代ごと、あるいは国ごとの考え方が見えてくるのが面白い。

 さて、そろそろ本編を見てみよう。

ゴジラ1964 三大怪獣 地球最大の決戦 (14)

 30分が過ぎて、ようやく阿蘇山からラドン登場。
 その登場シーンだけど……か、可愛い!
 怪獣というか、どう見てもお人形。かわいいぃぃー!

ゴジラ1964 三大怪獣 地球最大の決戦 (15)

 キングギドラが中にいる隕石。このシルエット……ちょっと『風の谷のナウシカ』の巨神兵が入っていた繭に見える。

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 ラドンは超高速で飛んでいて、ラドンが通り過ぎると猛烈な烈風が巻き起こる。土煙が巻き上がって、瓦屋根が飛ぶ。この表現がやたらと格好いい。
 『キング・オブ・モンスターズ』でも採用された表現だ。

 いよいよゴジラとラドンが遭遇し、怪獣達は「目が合ったらバトル」なので戦いが始まるのだが……

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 ゴジラは腕が短いので、ゴジラが手の届かないところからツンツン!
 着ぐるみ同士のバトルが始まると、途端にコントっぽくなってしまう。

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 モスラがゴジラとラドンを説得しようとしているシーン。うーん、やっぱりコントだ。

 今から60年前の映画に突っ込むのはアレだけど、着ぐるみ同士の戦いには相当無理がある。見ていて「いや、そうはならんやろ」の連続だった。
 着ぐるみのアクションには限界がある……だから特撮ものは次第にウルトラマン、仮面ライダー、レンジャーものへとシフトしていく。なぜなら人型をしていたほうが機敏に動けて、リアルな取っ組み合いができるからだ(それに子供がマネできる!)。着ぐるみ同士だとどうしても段取りくさいバトルになってしまう。

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 1998年ローランド・エメリッヒの『ゴジラ』が発表された後、日本側も奮起してゴジラのミレニアムシリーズがスタートしたけど、あそこで着ぐるみを採用したことによって、始まる前から2つの敗因が見えていた。
 まず着ぐるみのバトルには限界がある、ということ。中に入っているのはどうしたって人間だから、動きが制約される。そんな着ぐるみがバトルをやれば段取りっぽくなるのは当然。頑張って重厚さを出そうと努めるけど、取っ組み合いは胡散臭いし、ミニチュアはミニチュアでしかない。その安っぽさ、軽さはごまかしようがない。あの時代でも、着ぐるみゴジラを大真面目に見よう……という気持ちにはならなかった。
 2つめの敗因は将来の問題。ここで本格的なCG採用をしなかったことが、後々の映画のCG化に後れを取ることになった。
 なにしろ、日本のゴジラがCGになったのは、2016年の『シン・ゴジラ』でやっとだったから。
 とはいえ、ハリウッドのCGゴジラが発表され後で、日本人的なメンタリティで「ゴジラは着ぐるみじゃないと!」という気分になっていた。それで着ぐるみ+ミニチュアがもたらしている「表現の限界」に目をつむってしまった。「ショボくない……?」という一言を、みんなで飲み込んでいた。あの時代はCG映画に対する反抗も猛烈にあった時代だから、それも仕方ない。
 表現者がナショナリズムに目覚めると、良い結果は生まない……という実例だ。

 あとそれから……

ゴジラ1964 三大怪獣 地球最大の決戦 (4)

 いったいどこにあるのかわからない、セルジナ公国からやって来たサルノ王女だが……どう見ても日本人。
 当時は外国人も、未開民族もみんな日本人が演じていた時代だ。いま見ると「無理があるな……」とこれだけでもちょっと笑えてしまう。
(逆に『007』のように、どう見ても西洋人が日本人の振りをすることもあった)

 当時はそれなりの本気で作ったはずの映画だけど、今の時代に見ると「無理があるな」と可愛らしく見えてしまう。こういうのが「時代の変化」というやつなんだな……。

怪獣大戦争 1965

 1965年公開、ゴジラシリーズ第6作目の『怪獣大戦争』。タイトルバックに伊福部昭の名曲「地球防衛軍」のテーマが流れ、いきなり気分を高揚させてくれる。
 今回登場怪獣は、またまたキングギドラとラドン。連戦である。モスラは登場しない。

 今作から今までのゴジラと少し毛色が変わり始め、東宝の「空想科学映画」のテイストが大きく入り込むことになる。
 そういうわけで、冒頭からいきなりスペースシャトルで木星へ行く……というところから始まる。
 木星は距離的にそんな気軽に行けるような場所ではないのだが……。しかも地球との交信が時間差なしでできてしまう。どんな通信技術を使っているのだろう?
 そういう科学考証的なところは「さておき」として、SFをファンタジーとしておおらかに描かれた時代の産物だ。気にしないで観ていくとしよう。

 間もなく木星の13番目衛星に辿り着き、そこでX星人と出会い、交流することになる。
 X星人は物に名前を付けず、全ての物を番号で呼んでいた。みんな同じ服を着ていて、「個体差」のようなものがない。徹底して合理性を重んじる性格の異星人であることがわかる。
 その彼らの衣装を見てもらいたいのだが……

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (11)

 注目は右端の人。ちんちんが大きいので、モッコリがはっきりしてる!!
 衣装がパツパツのズボンなので、ちんちんがやや大きめの俳優が着ると、モッコリが目立ってしまうのだ!
 これが気になり始めるとずっと股間ばかり見ちゃって……。もう少しモッコリが目立たない衣装にすれば良かったのに……。でもこの時代の「宇宙人」といえば、とりあえず銀色のパツパツの衣装を着ている、というイメージがあったから、それに準じたのだろう。股間モッコリのパツパツのイメージが。
 いや待て! 私はそんなにちんちん好きじゃないぞ! ただ……ただ股間がモッコリしているのを見ると、「あら、おちんちん」って思うじゃないか! それだけの話だぞ。
 あと、頭の上に付いてるアンテナね。頭にアンテナが付いているから、全員が意思を共有できる……という設定。それにしても頭にアンテナなんて……。

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (16)

 地球にやって来たX星人。
 うーん、シュールだ。
 この頃の映画は外国人も未開人も、みんな日本人が演じていた時代だ。だから当然、宇宙人も日本人が演じる。
 X星人がなぜ地球にやってきたかというと、木星はキングギドラに荒らされていて、それを撃退するためにゴジラとラドンを地球から連れて帰りたいという。
 沖縄のハブを退治させるために、マングースを連れてくるみたいな発想だな……。
 地球側からしてみれば、ゴジラなんて厄介者だから「どーぞどーぞ」と了解してしまう。

 地球にやって来た宇宙人の円盤が冬眠状態のゴジラを連れ去るシーンだが……

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (18)

 ゴジラが自分の尻尾を抱き枕にして寝ている!! か、可愛い……。

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (25)

 木星にやってきたゴジラとラドンは、キングギドラと勇敢に戦い……。

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (27)

 勝利すると飛び上がって「シェー!」。これがかの有名な、シェーをするゴジラである。

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (38)

 映画の後半、ゴジラは地球に戻ってくるのだが、顎の下の汗を拭う、という人間的な仕草をする。6作目の頃になると、ゴジラはすっかり「愛されるキャラクター」になっていた。

 第1作目のゴジラは、ただただ「恐ろしい物」だった。そのゴジラに対して政府がいかに対処するか……当時なりにかなり現実的に考えて作られた作品だった。ゴジラは「怪獣」というキャラクターではなく、おぞましい「得体の知れない何か」だった。ちょっとクトゥルフ的な存在でもあった。
 しかし人間は何にでも慣れてしまうものだし、それに商業的に展開していかなければならないから、ゴジラはあっという間に「キャラクター」になっていった。キャラクターになっていったら、元々もっていた恐ろしさや神秘はなくなって、「可愛らしい物」になっていった。キャラクターになっていくと、存在もどんどん無害なものになっていく。
 ゴジラは街は破壊するけれども、人間は殺さなくなっていく。街が破壊される災害シーンはあるが、そこに現実的な真実味はなく、ただ単に「痛快な破壊描写」でしかなくなっていく。放射能設定は単に「ゴジラがそこにいる」というサインでしかなく、放射能の危険性もなくなっていく。今回も「放射能反応が強くなっています!」「なに!」というようなやり取りはあるが、それで防護服を着ようとかもしない。
 第1作目の頃に確かにあった「放射能の脅威」すら、映画を観ている人の意識からなくなって、放射能の何が怖いのかもわからなくなってしまっていた。放射能は単に「設定」であって、それがどういうものか、考えなくなってしまっていた。
 で、今回は怪獣に勝利すると小躍りするようにシェーを始める。もうゴジラは恐ろしいものでも何でもない。ゴジラは大人が語るような映画でもない。お子様向け特撮のキャラクターになってしまった。

 今回の敵は木星からやってきたX星人。高い文明をもっていて、高度であるがゆえに計算された物を絶対視し、イレギュラーが起きたときの対処ができない。高度で超合理的ゆえに「個体差」というものも否定されてしまっている。
 文明というものは天然自然と取引して生まれるものだから、木星という荒廃した環境下でそういった文明が生まれるかどうか……という疑問はさておくとして。
 1960年代という時代は、すでに書いたようにオカルト全盛期で、優れた物も恐ろしい物も空から降ってくると思っていた。地球人とは愚かしい生き物で、文明を築いても間違いばかり起こす生き物だから、間もなく空から優れた文明を持った人々がやってきて、自分たちを導いてくれる……そんな幻想を抱いていた。文明的にも、精神的にも、導き手になってくれる何者かが来るのだと思っていた。宇宙人がなにかと「高度な文明」を持っているという「設定」で現れるのはそのためだ。
 当時は世界戦争の後で世界中がボロボロだったし、特に日本は敗戦で自信を失っていたから、そういう願望が強かった。
 国会のシーンで、いろんな代表者が宇宙人たちになんの疑いを示さず、いとも簡単に信用し、受け入れてしまうのはそういった願望が背景にあったからだ。
 そんな宇宙人たちは友好的な微笑みを携えてやってくるが、実は侵略を企てていて……。当時の人々が願望として持っていることを反転させて、意外性を出すと、このような展開になる。
 1960年代頃は米ソ冷戦時代でもあって、ハリウッド映画は「宇宙人の侵略」に共産主義の恐怖をそこに見いだしていた。ハリウッドで描かれていた宇宙からの侵略者のイメージが、どこかしらで日本に入ってきて、X星人のような空想が生まれたのかも知れない。

 創作物を見ると、その時代の人がどんな思いを抱いていたのかを見ることができる。創作物だからこそ、その時代の人々が思い抱いていたものが具体的なイメージとなって、作品の中に浮かび上がってくる。

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (30)

↑国会議事堂。国会議事堂の姿は変わらないが、その周りの風景は今とまったく違う。こういう風景の変化を楽しむのも、昔の映画を観る醍醐味。

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (32)

↑光線銃を持って地球人を取り囲むX星人。この時代の映画は、みんなこのスタイルで拳銃を構えていた。宇宙人であっても、地球の流行に則った構えかたをする。流行りだったんだろうか、それとも、当時本当にこういう拳銃の持ち方の作法があったのだろうか……? この構え方だと、当たるものも当たらなくなるだろうに。

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (33)

↑自衛隊たち。これはリアルな描写なのだろうか。当然ながら、現代とは格好がぜんぜん違う。

ゴジラ1965 怪獣大戦争 (35)

 映画の話をすると、今回の『ゴジラ』は怪獣同士の対戦はあまり描かれない。宇宙人との交流と陰謀、それを暴き出し、撃退する物語が中心になっている。もはや怪獣は映画の中心にもなっていない。怪獣もX星人に操られ、振り回される存在になってしまっている。なぜなら、怪獣はリアルな脅威をもたらさない。この頃にはもう誰もが怪獣の正体が着ぐるみだと知っていたし、破壊される街がミニチュアだとわかっていたからだ。そのせいか、今回のゴジラはやけに姿が小さく見える。
 恐怖の対象は、怪獣から宇宙人へと移り変わろうとしていた。時代的に、宇宙人の方が訳がわからず、怖いと感じられていたからだ。
 怪獣映画がプログラムピクチャーとして組み込まれてしまったがゆえの現象だった。もう誰も怪獣に恐れを抱いていないけど、しかし映画会社の運営のために毎年毎年作り続けなければならない。ゴジラも毎年見かけるお馴染みの顔になってしまったから、そのゴジラからエピソードを引っ張り出そうとしても、もう何もない。ゴジラが本来持っていた神秘は、こうやって薄らぼんやりと引き延ばされていく。

 それでも、映画の最後はきちんと怪獣たちの大暴れで締めてくれる。今回は怪獣同士の戦いがほぼなかったせいか、そのぶん容赦なく、徹底した破壊描写が連続する。最後の破壊シーンの連続に、「ああ、コレコレ」という感覚にさせてくれる。
 最後はちゃんと怪獣映画として締めくくってくれた。あれがなかったら、もはや怪獣映画ではない……と言っていたかも知れない。


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