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映画感想 死霊館 悪魔のせいなら、無罪。

 『死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』は2021年の作品である。最初に『死霊館』シリーズの歴史年表を並べよう。

1952年 死霊館のシスター
1958年 アナベル 死霊人形の誕生
1970年 アナベル 死霊館の人形
1971年 死霊館
1972年 アナベル 死霊博物館
1973年 ラ・ヨローナ〜泣く女〜
1977年 死霊館 エンフィールド事件
1981年 死霊館 悪魔のせいなら、無罪。←本作

 『死霊館』シリーズは大ヒットを受けて、後から建て増し的に作品を作っていった……、という経緯があって、時系列がわかりにくいが、上のようになっている。本作『悪魔のせいなら、無罪。』は1981年に起きた事件。シリーズ最新作にして、現在のところ一番後に起きた事件を描いた作品だ。『死霊館』本家シリーズなので、エド&ロレイン・ウォーレン夫妻が主人公として物語が進行する。娘のジョディも少し登場シーンがある。
 ジェームズ・ワンはプロデューサーに回り、監督はマイケル・チャベスが務める。『死霊館』シリーズでは『ラ・ヨローナ』の監督を務めた。
 本作は全米3102館で封切られ、公開初週末には2410万ドルを稼ぎ出し、全米ランキング初登場1位を飾った。日本でも2億3000万円を稼ぎ出し、最終的に世界興行収入1億4651万ドルを稼ぐ大ヒット映画になった。
 ところが批評面は芳しくなく、映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは批評家支持率56%。10点満点中5.7点とかなり厳しめ。ジェームズ・ワン監督の前作同様の評価は得られなかった。

映画の前半あらすじ

 では前半のあらすじを見ていこう。

 1981年7月18日。8歳の少年ディビッドが悪霊に憑依されていた。エド&ロレイン夫妻が「少年は間違いなく憑依されている」と鑑定し、神父を召喚する。
(エド&ロレイン夫妻はあくまで「研究家」であるので、除霊はできない)
 間もなく神父がやって来て、悪魔払いの儀式が始まるが、少年に取り憑いた悪魔は猛烈に暴れ回る。テーブルに押さえつけていたが、少年は暴れ回り、神父やエドに襲いかかり、押し倒してしまう。神父が気絶し、ウォーレン夫妻も倒されてしまった絶体絶命のその時、アーニーはディビッドに飛びつき、こう叫ぶ。
「僕が代わりになる! 僕に移れ!」
 そう叫んだ直後、ディビッドから悪霊の気配は消えて、混乱は収まったのだった。

 この悪魔払いの最中でエドは心筋梗塞を起こし、昏睡状態に。しばらく病院で眠り続けることになった。
 悪魔から解放されたディビッドは日常に戻り、アーニーは恋人のデビー(ディビッドの姉)との睦まじい日々を過ごす。
 平穏を取り戻した……と思われたが、間もなくしてアーニーは幻覚を見るようになる。体の調子も次第におかしくなっていく。
 アーニーとデビーはアラン・ボノを家主とする賃貸で暮らしていた。1階はペットホテルになっている。その日も特に異変のないごく普通の一日に思えたが――突如アーニーはトランス状態に陥り、幻覚を見る。アーニーにはアラン・ボノが怪物に変化し、デビーに襲いかかろうとする場面が見えていた。アーニーはとっさにナイフを掴み、アラン・ボノをめった刺しにしてしまう。
 アラン・ボノ殺害後もアーニーはトランス状態のまま、家の外へ。間もなくパトカーが通りがかり、アーニーに声をかける。アーニーはようやく正気を取り戻し、血まみれになった自分に気付き、「人を刺したみたい」と人ごとのように言うのだった……。

 ここまでが25分。事件が起きるまでが描かれる。

『エミリ・ローズ』との類似性

 さて、本作の感想文に入る前に、ちょっと回り道をしよう。2005年に制作された『エミリー・ローズ』という映画はご存じだろうか。
 事件は1976年。アンネリーゼ・ミシェルという女の子が悪霊に取り憑かれ、神父の必死の除霊も効果がなく、とうとう死んでしまうのだった。
 ……という、ここまでならよくある『エクソシスト』系映画。『エミリー・ローズ』の面白いところは、後半は「法廷もの映画」になることだった。前半部分で怪奇現象として描かれた場面がすべて科学的に解説可能であることが示され、「少女にとって必要だったのは神父ではなく病院だったのではないか」、その努力を怠った神父は少女を死に追いやった責任があるのではないか……ということが追求されてしまう。
 果たして事件は「悪霊」によるものだったのか、ただの「病気」だったのか……? これも意外なことに「実話」をベースにした映画である。

 という話を聞いて、早とちりの人は「パクりだー!」と大騒ぎしそうだから、早めに注釈を入れておこう。『エミリー・ロース』は1976年にドイツで起きた実話(映画中では舞台はアメリカに移されている)。『死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』は1981年アメリカで起きた実話。
 こんな奇妙な話はそうそうあるものではないが、似たような事件、似たような裁判は時と場所を経て時々起こっているのだ。本作の中で「イギリスでも2件、前例がある」という話が出てくるが、これも本当。ヨーロッパ圏では「悪魔憑きによる殺人」という奇妙な事件は、それなりに起きているのだ。

 では『エミリー・ローズ』と本作『死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』の違いはなんであるか? 一番大きなものは、『エミリー・ローズ』のほうは、「幽霊や悪魔は存在しない」……という立場で描かれている。映画公開当時、監督のインタビューを読んだ記憶はあるが、たしかに監督も「幽霊や悪魔は存在しない」と語っていた。エミリー・ローズの身に起きたことは全て科学的に解明可能な出来事。しかしあまりにも異常な現象だったので、誰もが「悪魔憑き」事件だと思って接していた。ただし幽霊や悪魔などは存在しないのだ……という話にしてしまうとエンタメとして面白くないから、作中では「さて、どっちなんでしょうね」という含みを残すような展開、終わり方にしている。しかし制作者の意識としては、幽霊や悪魔などは信じていない。
 一方の『悪魔のせいなら、無罪。』はその逆で「悪魔も幽霊も存在する」という立場で描かれる。というか、これまでのシリーズの積み重ねがあるのだから、今さら「存在しません」とは言えるわけがない……というのもあるが。『悪魔のせいなら、無罪。』は間違いなく悪魔が存在して、事件に介入している。それをエド&ロレイン夫妻が解き明かされていく……というストーリーになっていく。
 このスタンスの差はなかなか興味深いところで、このスタンスゆえに、似たような事件を扱いながら、物語の展開はまるっきり違っている。
 『エミリー・ローズ』と『死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』ともに似たような事件を扱っているが、真逆のアプローチで描かれる2作。これを比較して見ると、面白い発見はあるかも知れない。

実際の事件はどうだったのか?

実際のディビッド。映画中ではメガネの美少年として描かれていたが、実際は結構な巨漢だった。

 珍しく事件について書かれた資料を持っているので、それを頼りに実際の事件を見ていくとしよう。
 1970年7月2日。アーニーとグラッチェル・デビーは結婚するつもりでコネチカット州のブリッジボードに建つ一軒家に引っ越しした。この引っ越しに、グラッチェル家全員が手伝いにやって来ていた。父親カール、母親ジョディ、長女デビーとその弟カール・ジュニア、アラン、ディビッドの6人だ(映画ではカール・ジュニアとアランは登場しない)。

 子供たちは新居に入ると、前の持ち主が残していたウォーターベッドを見付けて大はしゃぎ。大人しいディビッドは側で見ているだけだった。間もなくデビーが2人の弟を叱りつけて部屋を追い出してしまう。側で見ていただけのディビッドだけが残り、ウォーターベッドに近付いたのだが、なぜかウォーターベッドの表面は濡れていた。
 なんだろう……。と思ったら、突然見えない手に掴まれ、押し倒されてしまった。ディビッドは慌てて起きるが、目の前に老人のような影がフッと現れた。が、それは幻覚だったように消えてしまう。
 その日は何事もなくディビッドは家に帰るのだが、あの老人はディビッドの周囲に何度も現れ始める。しかし家族の誰も老人の姿を目撃することはなかった。
 しばらくしてディビッドは、姉デビーの新居を再び訪ねるのだが、何気なく近くにあった井戸を覗き込む。すると、井戸の中に“何か”がいた。ディビッドが言うには、頭に角が生え、耳は尖り、目は真っ黒で、歯がギザギザの男だったという。
 それ以降、ディビッドはおかしくなる。毎晩のように悪夢を見て、起きると体中のあちこちに謎の傷が浮かび上がる。さらにディビッドは頻繁にトランス状態になり、野獣のように叫んで這いずり回り、人に噛んだり唾を吐き捨てるようになった。
 ここでようやく、一家は同州モンローに住んでいるエド&ロレイン・ウォーレン夫妻に調査を依頼するのである。

 エド&ロレイン夫妻はすぐにデイビッドが悪魔に取り憑かれていることを確信する。エド&ロレイン夫妻は地元カトリック教会の神父を召喚し、ともに悪魔祓いをすることになった。
 だが本当の恐怖はここからだった。ディビッドを載せた椅子が宙を飛び、おもちゃが勝手に歩き回り、ベッドに横たわるディビッドが空中に浮かぶこともあった。ディビッドの首を見えない手が締めるということも起きた。ディビッドの首には、はっきり手のあとが浮かび上がっていた。
 神父が悪魔に向かって「名を名乗れ!」と怒鳴ると、ディビッドは43の悪魔の名を告げる。ディビッドに取り憑いていた悪魔は一体だけではなかったのだ。
 悪魔祓いは一向に進行せず、ある時アーニーがディビッドを掴み、「その子を放せ! 僕が代わりになる!」と叫んだ。その瞬間、異常な現象は収まったのだった……。

 ディビッドの体から悪魔が消え去り、事件は解決したかのように思われた。だが今度はアーニーの様子がおかしくなる。唐突に気を失ったり、正気を失ってしばしばトランス状態になることもあった。
 もしかして本当に悪魔が自分に乗り移ったのかも知れない……。アーニーは確認のために、あの井戸を覗き込んでみることにした。
 すると、まさしく悪魔はそこにいた。
 井戸を覗き込んでから、アーニーは本格的におかしくなる。這い回ったり、唸ったりするようになり、何もないはずの場所を指して「獣がいる!」と言ったりするようになった。
 1981年2月16日。その日はアーニーの妹ワンダとジャニス、デビーのいとこのメアリーが訪ねていた。家主のアラン・ボノはアーニーにワインを勧め、妹たちとダンスを楽しんでいた。
 すると突然、アーニーはアラン・ボノに襲いかかり、持っていたナイフでめった刺しにしたのである。アーニーは唸り声を上げながら、気が狂ったようにナイフを振り上げていた。
 間もなくアーニーは手を止めるが、自分のしたことを茫然と見詰め、そのまま外に出て行った。警察が通報を受けてやってきたが、アーニーは事件現場から3キロ離れたところを歩いていた。

 ここまでが実際事件のお話である。こうして見ると、細かな要素は変更されているが、事件の大筋は実際事件をきちんとなぞっていることがわかるだろう。アーニーは植木職人を目指して、木に登ってチェーンソーを使う仕事をしていたし、家主であるアラン・ボノのステレオを直すエピソードも実際の事件の時にあった話だった。実際事件がすでにホラー映画なみの“怖い話”だったのだ。

実際事件の資料はこちらから↓

映画の感想文

 ここからが映画の感想文。
 冒頭シーンは、実際事件と同じように、8歳の少年ディビッドの除霊から始まる。まずウォーレン夫妻による「鑑定」があり、それから悪魔祓いができる神父が召喚される。ウォーレン夫妻はあくまでも「研究家」であって、司祭ではないので悪魔祓いはできない。
 その神父がやってくるまで、少し間があって、ディビッドは1人、部屋に取り残される。ここで本格的に悪魔に取り憑かれてしまう。ディビッドは個室から、その隣のシャワールームに逃げ込むが、悪魔はその部屋に追いかけてくる。
 ここでちょっと「おや?」と思ったのは、悪魔が壁抜けができたこと。『死霊館』シリーズは明言していないが、悪魔の行動には一定の規則性が存在している。
「悪魔は壁抜けができない」
「悪魔はドアを開けられない」
「悪魔は電気を操る」
「悪魔は幻聴・幻覚を見せる」
「悪魔は念動力が使える」
 『死霊館』シリーズの悪魔の特徴は、たぶん上の5つだろうと考えている。だからドアを締めて逃げ込めば、意外と安全なのである(ただし、悪魔は家族や友人の声真似をして、出てくるように誘い出してくる)。この「ドアを開けられない」という特徴は、もしかすると吸血鬼の属性から来ているんじゃないか……という気がするが。
 冒頭のシーン、悪魔はなんと壁抜けをしてくる(最初から入っていたのかも知れないが)。そして少年ディビッドは恐怖体験をして、取り憑かれてしまう。
 ディビッドが悪魔に取り憑かれてからは実際事件でもかなり恐ろしい現象が起きた、という話はすでに書いたとおり。映画の世界では、この恐怖シーンを思いっきり誇張して描いている。
(ちょっと余談だが、このシーンに見慣れない若い男性が1人いる。ディビッドが暴れていた場面をビデオで撮影していた若者だ。彼はトニー・スペラ。映画中では違う名前のようだけど……調べてもわからなかった……。ウォーレン夫妻の助手を務め、近い将来、娘であるジョディ・ウォーレンと結婚し、ウォーレン夫妻亡き後もその「呪いのコレクション」を管理することになる男性である。もちろん在命。間違いなくこれからシリーズに登場し続けるだろう。彼に関するエピソードが映画中まったく掘り下げられず、いきなり登場していたから「誰だ?」って感じになるが)
 その最後のシーン、神父は気絶し、ロレインは謎のイメージを見て眩暈を起こしていた。ディビッドの悪魔がアーニーに乗り換えた瞬間を見たのはエドだけ……。しかしそのエドは心筋梗塞を起こし、昏睡状態になってしまう……。
 これで、ディビッドから悪魔が気配が消えたために、一同は解決したと思い込んでしまう。この辺りはなかなかにうまい展開が作られている。

 グラッチェル家に平穏が戻ってくる。誰も悪魔がアーニーに移ったことを知らないまま……。
 グラッチェル家の景観だが、やはり「お屋敷」作りになっている。幽霊映画では「お屋敷」は外せない。玄関をくぐると階段広間になっていて、シャンデリアが釣っている。いかにも「お屋敷」という豪勢な作りではないものの、それを思わせるような仕立てがあちこちに作られている。
 ある時、アーニーは食べ物を取りに、グラッチェル家の中へ入っていく。家の中は誰もいない。沈黙が漂う。
 ホラー映画で沈黙は、これから何かが起きるサインである。
 アーニーは部屋の中を横切ったネズミを追いかけていく。すると、壁に穴が……。
 どうして穴が……? という気がするが、元々のお話は「井戸を覗いたことによって……」とあるから、それが「ネズミの穴を覗く」に変換されたのだろう。この作品の場合、穴の向こうが魔術師の部屋に通じていて、アーニーはそれを覗いてしまった、その瞬間、本格的に取り憑かれてしまった……という流れが作られている。
 それにしても……そういえばホラー映画って何かを覗き込んだりする場面がちょくちょく描かれているような気がする。なぜだろう? 何かを覗き込むシーンを見ると、不思議と妙に緊張する。こういう演出の元ネタはヒッチコックの『サイコ』じゃないかと思うが……。

 間もなくアーニーはトランス状態に陥り、殺人を犯してしまう。
 アーニーは近くの通りをフラフラと歩いていて、そこを警察に呼び止められる。アーニーは自分の様子を見て、「人を刺したみたい」と他人事のように言う。アーニーは悪魔に取り憑かれた状態で凶行を犯してしまったのだから、自分の様子を見て、客観的に分析して答えただけ。まさか「殺人」を犯しているなんて、知らない状態だった。

 こうしてアーニーは殺人者になり、裁判となる。ウォーレン夫妻は「悪魔が取り憑いていた状態による犯行だから、無罪だ」と主張する。
 ここからの展開が、映画オリジナル。実際の事件では、“仕掛け人”である黒魔術師は存在していない。裁判を納得させるためには「証拠」が必要だったわけだが、実際の事件にはその「証拠」なるものはない。しかしそれだと、エンタメ映画として納得できない。映画では「アーニーに悪魔を差し向けた仕掛け人がいるはずだ」と考え、それに合わせた展開を合理的に構築している。
 エドは心筋梗塞を起こし、しばらく杖が必要な状態になってしまったし、ロレインのような「霊視」能力はない。というわけで今回は主にロレインが大活躍する。ロレインが館の地下に隠されていた呪具を発見し、その手がかりを捜索する。エドはサポートに回る役割だ。エドは今回ほとんど何もしないが、ロレインのモチベーションの中心にエドがある……という構造になっている。

 悪魔を差し向けた誰かがいる……という展開を取り始めてから、映画は「探偵もの」に転換していく。今までの『死霊館』とは違う展開だし、ホラー映画全体でもかなり珍しい。よくあるホラーでは、悪魔は特に理由もなく現れ、取り憑かれた人がいかに生存していくか……というお話になる。悪魔が仕掛けた恐怖体験からいかに抜け出すのか、がホラー映画の主目的であって、そこから進んで悪魔が何者で、どこから来たのか……というところまで追求されることはほとんどない。
 こうしたテイストに似た作品といえば、日本のホラー映画『リング』。本作が『リング』を参考にしたとは思えないが、作っている過程でどこかしら通じるものを見出したのだろう。
 探偵ものの形式を取っているから、本作はホラー映画の中にあって、かなり理性的に事件と向き合い、襲いかかってくる悪魔を「恐ろしいもの」ではなく、自ら進んで正体を突き止めようとする。そうすると犠牲になっていくのは「ホラー」の要素……エンタメとしての恐怖映画の部分。
 ホラーは、殺人鬼から逃げるというシチュエーションが一番怖い。「殺されるかも」という緊張感に人はエンタメを見出す。しかし主人公が殺人鬼を追いかけるシチュエーションになると、怖くなくなる。殺人鬼に追われている状態というのは、宿命的な「死」からの逃避である。人は、自分に問答無用の死の引導を渡そうとする何者かの存在を、一番恐ろしいと感じる。
 ところが、その死と自ら向き合って進んでやろうとした瞬間、たとえ死に向かおうとしている過程であっても、そこから恐怖は感じなくなる。人間の精神構造がそうなっているのだから、仕方ない。「死を覚悟した瞬間、死は怖くなくなる」……という話を聞いたことはあると思うが、そういう状態だ。
 しかし観客は「エンタメとしてのホラー」を求めてしまう。「怖い体験」をしたいと思ってホラー映画を見に行く。ところが本作は、ちゃんとホラーをやっているのは前半30分だけで、その後は「探偵もの映画」になっていく。ホラーを期待して見ると「あれ?」ってなってしまう。
 一応、サービスとしてのホラーシーンもあちこちで作られていて、どのシーンもガチガチに作り込んでいるのだけど、物語がそちらの方面から乖離しちゃっているので、どこか生焼け感が漂ってしまう。
(ここが『リング』と違うところで、『リング』も自分に取り憑いた幽霊は何者か、を追求する映画だったか、ちゃんと怖かった)

 もちろん、本作には本作ならではの楽しみ方もある。その一つとして「バトルもの」の要素。なぜなら仕掛け人である黒魔術師がいるから。この黒魔術師が仕掛けた罠をくぐり抜けながら、その黒魔術師がどこにいるか、突き止めようとする……というのが本作のストーリーだ。黒魔術師が相手だから、お話もちょっと『ジョジョの奇妙な冒険』的な雰囲気も出てきてくる。「超能力バトルもの」だと思って見るのも面白いかも知れない。
 視覚効果も面白くて、例えばクライマックス、ロレインが自分が目の前にいて、同じ動きをしている……という幻覚を見るシーンがある。おそらくあれは、体格によく似た女優さんを探してきて、まったく同じ動きを演技しているんじゃないかと思う。他にも「ああ、なるほど」と感心させられる視覚トリックが色んな場面に使われる。どのように撮影されたのか、考えながら見ていくと、そちらでも楽しいはずだ。
 ホラー映画として見ると、ちょっと物足りなさはあるのは確かだけど、見所はたくさんある。定番シリーズの中に、新しいタイプのホラー映画が出てきた……という感じすらある。見ていて損はない一本だった。

後日談 映画では描かれない“その後”

 ここからネタバレ注意なところ。
 裁判の行方だが、ウォーレン夫妻の訴えもむなしく、アーニーは有罪。20年の懲役刑が下される。しかしアーニーはもともと温厚な性格で、殺人の兆候はなく、受刑後は模範囚だったために、5年の刑期で釈放されることになる。
 映画ではあたかもウォーレン夫妻の働きによって刑期は5年に縮まった……みたいな描かれ方だったが、実際はそうではなく、裁判所は別に「悪魔のせい」なんて話を受け付けたわけでもなく、単にアーニーが模範囚だったために5年の刑期で釈放されることになった。
(映画でも、注意深く見てみると、別に「ウォーレン夫妻の健闘の結果……」などは書かれていない。映画全体で描かれたウォーレン夫妻の捜索は実はほとんど無意味だった。これも実際事件の通りだから、仕方ない話ではあるが)

 この裁判が終わった後、実はもう一つ事件が起きていた。
 作家のジュラルド・ブリトルが事件に興味を持ち、細かく取材され、1983年に『コネチカットの悪魔』というタイトルでノンフィクションが出版された。
 出版された当初は特に問題は起きなかったが、2007年、この本が再出版される時に、騒動が起きた。悪魔に取り憑かれていた当人であるディビッドとその兄であるカール・ジュニア・グラッツェルが裁判を起こしたのだ。「ロレイン・ウォーレンとジェラルド・ブリトンは富と名声を得るために悪魔の話をでっち上げた」……これが訴状内容だった。
 というのも1983年に『コネチカットの悪魔』が出版された時、ディビッドは周りから好奇の目で見られるようになり、転校を余儀なくされてしまった。おそらくはイジメも受けたのだろう。
 この件について、ジェラルド・ブリトルは「本の内容は真実だ」と主張。アーニーとデビーも「真実だ」、という側についていた。
 ディビッドの訴訟は「要件が満たされていない」という理由で却下された。が、ジェラルド・ブリトルはこの件でうんざりしたために、結局、本の再出版は諦めることにした。

 というのが映画で描かれていない、事件の後日談である。
 ディビッドが本の再出版に関して訴訟を起こしたのは、おそらく本によって周りから差別や偏見の目で見られるようになり、少年期を失ってしまった憤りからだろう。この辺りの理由はなんとなくわかる。
 アーニーとデビーが「悪魔憑きは本当だ」と証言した理由はなんだろう? アーニーからしてみれば、悪魔憑きが事実ではなかったら、“自分の意思で殺人を犯した”ということになってしまう。本の内容が真実であれば「悪魔のせい」ということにできる。アーニーの立場を考えれば、「本の内容は事実」としたほうがいい、という理屈もわかる気がするが……。
 果たして、悪魔憑きは本当にあったのかどうかは、わからない。


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