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アニメ感想 えいがのおそ松さん

 酷評回です。
 なぜなら映画になってなかったからです。これは2時間のテレビアニメですね。
 その辺りの理由を含めて、掘り下げていきましょう。

 おそ松6兄弟は同窓会へ行き、そこで高校時代の友人達と会う。
 高校時代の友人達はみんな真っ当な大人になり、みんなどこかしらで仕事をして、結婚をして、出産もしたという人もいる。そんな人達に「お前らは? なにしてんの?」と聞かれて……とっさに「サラリーマン」と答えるが、間もなくウソがばれてしまう。
 6人全員ニート。ニートであることがバレてしまって、居づらくなったおそ松6兄弟はそれとなく同窓会を去って行く。
 いつものチビ太のおでん屋台に場所を移し、真っ当な大人になった同窓生たちと向き合った絶望と嫉妬の怨嗟を吐き出しまくる。どうしてこうなったんだ! 俺たちは!
 帰宅後もバカみたいに酒飲んで酔い潰れて寝て――。
 目を醒ますと、数年前に時が戻っていた。高校時代最後のあの日だ!
 ここまでが25分。

 なぜ過去に戻ったのか?
 デカパン博士に理由を尋ねると、タイムスリップではない。これは誰かの心残りが作りだした、イメージの世界だ……という。
 誰かがこの日に大きな後悔をした。それがこの世界を作ったのだという。
 でも誰が高校時代最後の日に後悔なんてしたんだろう。卒業式前日に起きた事件……ぜんぜん思い出せない。おそ松6兄弟はかつての自分たちの様子を探りに行く。
 そこで遭遇するのは、無理してキャラクターを作って高校時代をどうにか乗り切ろうとしているおそ松6兄弟の痛々しい姿。そんな姿に悶絶しつつも、自分たちの記憶を探るがやっぱり何も思い出せない。
 しかし、トト子のある一言で、この当時、おそ松6兄弟は仲が悪かったことを思い出す……。
 ここまでが50分。

 以上が前半パートのあらすじになるのだが、すでに体感時間が2時間くらい。話がぜんぜん進まない。面白い場面がぜんぜん出てこない。特に実のないシーン、意味のない台詞がえんえん続き、その末でやっとこさお話が進む……という感じ。
 冒頭の同窓会の場面にしても、特に意味のあるとは思えないカットが山ほど。あれだといったい何が作品のテーマなのか、なんの話をしたいのかさっぱりわからない。ダラダラとした対話が続くだけ。もっと思い切って、開始5分でいきなり過去の世界に行く……くらいのテンポ感で進めて欲しかった。
 映像も問題ありで、映画らしい画がぜんぜん出てこない。ブロックノイズ風に虫食いになった街の光景が描かれるが、この描き方もたいして面白くない。
 テレビアニメとたいして変わらないスケール感。ダラダラとした台詞で間が持たないし、ダラダラとした画でやっぱり間が持たない。せめて対話に面白味が見出せばいいのだが、それすら面白くもない。
 私は20インチのモニターで見たのだが、これでも結構キツかった。映画のスクリーンで見たら暴れ出していたかもしれない。映像としての見所が何もなかった。

 これが30分のテレビアニメだったら何も問題ないんだ。30分のテレビアニメだったら、ぎゅっと実が詰まって面白くなるだろう。でもこの物語、この映像で1時間40分間が持つか……というと持たない。
 高校時代の自分たちに何があったのか、謎の「高橋」とは誰なのか? これを追求していくミステリなのだけど、なかなかそこに進まない。プロットの進めかたが合理的ではない。不必要な対話が延々続き、意味のない紆余曲折が延々続き……それで映画としてどうしようもなく退屈なものになってしまっている。

 過去の世界に入ってから、6兄弟達のかつての姿が描かれていく。あの時代の6兄弟達がいかに痛々しかったか……という描写が掘り下げられていくが、特に笑いどころになっていない。だって、現代の大人になったおそ松さん達もたいがい痛々しいから。
 見ていて気付くのだが、かつての6兄弟達はもともと持っていた属性が極端に出ていたが、あるいはまったくの反転した姿で登場してくる。
 もともと持っていた属性が極端に出ていたのはチョロ松、トド松の2人。性格が反転していたのはカラ松、十四松、一松。おそ松だけは変化なし。
 もともと持っている属性が内気な一松は陽気なキャラクターを演じ、病的に陽気な十四松は不良を演じ、ナルシストのカラ松はそばかすの残る内気な少年だった。この3人は素の自分を隠すことで、自分の内面を守っていたのだろう。高校生というのは遠慮なしに相手の内面に踏み込み、躊躇なく攻撃してくる生き物だから。
 おそ松6兄弟はもともとが痛々しいキャラクターだし、(テレビシリーズの間でも)しょっちゅう絵柄とキャラクターが同時に変わっていたから、現代と姿が違ってもそれは別に笑いどころでも何でもない。おそ松6兄弟がニートにもかかわらず、何もしない努力しない痛々しい姿が作品の基本的な面白がりポイントだが、それで笑いを取るというフェーズはとっくに過ぎ去っている。キャラクターの痛々しさでさらに笑いを取れるか……というと取れない。この見込み違いは最初の失敗点だ。この面白くもないキャラクター紹介で10分近くも尺を取る時点で失敗している。

 おそ松6兄弟の高校時代が描かれたのは、この6兄弟がどのようにアイデンティティを獲得していったか……を改めて掘り下げるためだ。高校入学時点では、6人ひとセット、団子のように繋がった兄弟だった。それが高校という社会性に馴染めず、弾かれ、高校という特殊社会で過ごしやすいアイデンティティをそれぞれで見出さなければならなかった。それが現在の姿より極端にした姿だったり、反転した姿だったりしていた。そうやっておそ松6兄弟は一度はバラバラになり、それぞれでアイデンティティを獲得し、再び今のような団子のような6兄弟に戻っていった。
 おそ松6兄弟はそうした自分たちの過去と再び向き合い、自分たちがどういった経緯を経て今に至ったかを知ることになっていく。

 というお話構造だが、「キャラクターの成り立ち話」なんてものはコアなファンくらいしか興味のないもの。映画のテーマになるか……というとかなり疑問。「ファン向けムービー」ならあり得るかも知れないが、それを越えたエンタメ映画になっているかどうか、というと落第点。1時間40分尺のテレビアニメにしかなっていない。

 作品の大きなフックである「いったい誰の心残りなのか」は実は6兄弟達ではなく……ここからはネタバレなので伏せるが、その最終的なキーキャラ「高橋さん」についての掘り下げが弱い。そのキャラクターを含めたドラマ展開……もなく、ほぼ全編おそ松6兄弟にまつわるお話で終わっている。作品が高橋さんにたいして興味を持っていない。
 その6兄弟を掘り下げるお話だとしても、どうにも内容が薄くて、感動の焦点がぼやけてしまっている。なにしろ、映画の大半が特に意味のないお話が延々繰り広げられるだけ。6兄弟の行動動機はだいたいがエゴイズムで、一つの大きな事件を前に知恵を働かそう、団結しようとはぜんぜんしない。お話が一つにまとまっていくという感覚すらなく、でもクライマックスだけはある。お話の動線がないものだから、クライマックスに向けた感動もなく、すっかり白けてしまう。
 その後半クライマックスに入る直前に、イヤミやチビ太といったキャラクター達のアイデンティティ確立話もあるのだけど、それも意味があるかどうかというと……。あそこでクライマックスに向かうべき大きな流れが途切れてしまうし、その展開もたいして面白くない。キャラクターのアイデンティティ確立の話は、コアなファンなら楽しめるかもしれないが、映画そのものを観に来たお客さんにはまったく面白くない。テレビのいちエピソードでやればいい話。

 最終的に事件を解決したのだが、結局のところ、おそ松6兄弟は何も変わらない。冒頭の同窓会の場面で、真っ当な社会人になれなかった自分たちに向けて「俺たちはどうしてこうなっちまったんだ!」と後悔と自己批判がテーマの出発点だったはずなのに、そういう自分たちを肯定して終わってしまっている。成長がない。入り口と出口が同じところで、何も始まらない、何も変わらない。いったい1時間40分なにを見せられたのか……という気分になる。
 このあたり、テレビシリーズを次も続けるつもりだから、変化させないようにしてしまったのだろう。これは悪手で、むしろここでおそ松6兄弟の立場が変化し、変化した姿を第3期に反映させられていたら、この劇場版は視聴必須のターニングポイント的な映画になっていたかもしれない。が、見ても見なくてもいいような内容として作られているのがマズい。
 いっそ、映画を切っ掛けに「ニートをやめる」みたいな展開があっても良かっただろうに……。

 ギャグキャラクターにそもそも受け入れてくれる社会なんぞないんだ。だって、ギャグキャラクターはそれだけで自立した存在だから。社会に入ってそのなかでアイデンティティを確立する必要がない。むしろ社会に入ったら、強すぎるキャラクターが邪魔になってしまう。
 デカパンにしてもダヨ~ンにしても何かしらの社会と接しているか、というと何にも接していない。何かしらの社会と接しているように描かれているだけで、実は彼らも実質ニートだ。チビ太だけは「おでん屋」という職業を持っているが、チビ太に限っては「おでん屋のチビ太」がセットになったキャラクターだ。そのおでん屋がちゃんと社会と接していられているか……というとしていない。なぜなら、チビ太のおでん屋はおそ松6兄弟かイヤミくらいしか客として受け入れてないから。ギャグの世界という閉鎖した世界から出ていない。
 おそ松6兄弟がニートという立場を脱して、何かしらの社会と接点を持てるのか……というと、かなり難しい。こういうとき、「おそ松6兄弟を受け入れる社会」というオモシロ設定を考え出さなければならない(変な企業とか、変な職種とか……)。それはある意味「作品が変わる」ということなので、そこまでの構想をきちんと示せるかどうかの話になってくる。
 それができたらできたで、きっと面白くなる……というか『おそ松さん』が新たな局面に入っていく切っ掛け作りになるのだが。そういうものを生み出そうという意識が作り手にどうやらないらしいから仕方ない。

 ギャグものって一つの世界観、キャラクターでできることの限界が決まっているんだ。どんなキャラクターも属性を持っているから、その属性から作り出せるエピソードをすべて尽くしたら、お話は終わるんだ。
 だから例えば長寿ギャグ漫画である『こち亀』は同じネタをやりつつ、少しずつキャラクターや場所を変えていった。ロボット警官の派出所がお隣にできたり、男の娘警官の麻里愛が出てきたり、神田で寿司職人を始めたり、大坂を舞台にしたキャラクターを登場させたり……。ギャグ漫画の限界を察していたから、あの手この手を使い尽くしていた。
 『おそ松さん』でもニートの6兄弟という設定でえんえんストーリーが生み出せるか……というとそんなわけはない。ギャグアニメとしてネタが尽きる(カタストロフ)のを防ぐために、立場や舞台を変える……というのは手としてあり得る。それを『劇場版』という舞台において、どうしてやらなかったのか。

 『劇場版 おそ松さん』の良くなかったところは、とにかくも映画として風呂敷が小さい。テーマはおそ松6兄弟がいかにしてアイデンティティを確立するお話か……だが、これは映画のテーマにならない。せいぜい「ファン向けムービー」くらいの内容にしかならない。というかただの「ファンムービー」だった。しかも物語の最終局面において、6兄弟達は何も変化しなければ成長もしない。なんのための映画だったんだ……と問いたくなるような内容。
 問題なのは、映画が事件やテーマを取り扱わなかったこと。すると掘り下げるものが「キャラクター」だけになってしまう。掘り下げるものがキャラクターしかないと、もともとがギャグアニメという出自が作品としての弱さに変わってしまう。キャラクターを掘り下げたところで面白い物語ができるわけがない。本来ならなにかしらのテーマを導入して、そこから物語を作らなければならなかったのだが、そのテーマの導入に明らかに失敗していたのがこの作品。
 だからといって『おそ松さん』がコンテンツとしてダメなわけではない。テレビシリーズは毎回面白い。24分という尺の長さで、いや、個々のエピソードはもっと短く、あの長さならいつでも面白くなる。『おそ松さん』は短距離走向けコンテンツなのだ。
 その短距離走向けコンテンツ感覚のまま、どうにか劇場の尺でやろうとして失敗した。だが劇場スケールでやりようが全くないわけではない。テーマの選び方を間違えたのだ。
 『おそ松さん』というコンテンツが完全に枯れたとは思わない。まだまだ無軌道に走り続けて、新たな笑いの局面を作り出した欲しいものだ。人気の途絶えた作品だとはまだ思っていない。


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