実在しない私
こんにちは、そしてこんばんは。
鳥海 花です。
15回目はいい子について。
ここ最近はたくさん本を読んで自分自身の考え方や行動について、理解を深めるようにしている。
私の1番の特徴で、苦しんでしまう理由の1つに、自分の感情や快/不快で行動することができていないことがあげられる。
とにかく他人ファーストで、周りの状況や環境から自分のすべき言動を察知したり考えて、行動している。
その時、私の感情に対しては見て見ぬふりや、私が我慢すれば丸く収まるからしょうがないとスルーしてしまっていた。
しかしどうやら、そんな人間ばかりではないということは、生きていくなかでどんどんわかってくるわけで。
やりたいからやる、やりたくないからやらない、気のむくまま、感情のままにという人も大人でもたくさんいて。
私はずっとそんな人達のことを、どこか子供っぽくて幼い印象を覚えていた。
聞き分けが良く、わがままを言わず、首尾よく察知し行動し、困らせたり迷惑を掛けないこと。
妹たちが産まれてから、私はずっとそうして生きてきた。
それが、姉として、人として、大人へと成長することの大切な条件だと思って生きてきた。
実際に、両親や祖父母、親戚、友人たちの親、先生など周りの大人からは、”いい子”としてすごく褒められていた。
妹たちがわがままを言って両親を困らせているのもみて、大変そうだから大人しくしておこうと思っていた。
不思議なことだが、妹たちはそんなわがままを言っていても、もちろん両親にも私にも愛されているのはわかっているはずなのに、自分に対しては、わがままを言って困らせたら不要の長物になってしまうと本気で思っていた。
自分が認められるためには、いい子であればいいのだと、幼心に習得したのだと思う。
それが自分のアイデンティティだとも思っていた。
だから、その考え方の癖が抜けなくて。
他人からどう思われるかを、失望されたくない恐怖心をずっと胸に抱えながら、自分の感情に耳を貸さずにいることが多かったと思う。
もちろん、瞬発的な感情はわかるし、何でもかんでもスルーしていたわけではないけれど、自分自身だけのことではないと、本当に無意識のうちに他者を優先してしまうのだ。
自分に優しく、友達のように振る舞ってあげよう。
などと良く聞くが、一人の時ならそれは出来るのに、他者がいると、目の前の実在する他者のほうが優先的だと思ってしまう。
つまり、私は私の中で実在していないことになっている。
考えている私は実在はするのだけれど、優先すべき私は実在していない。
我思う故に我あり。をぶち壊す考え方である。
実在していない、というより、
優先すべき私という存在を自分自身が認めていない
ということになるのだと思う。
…………書いていて、すこし悲しく、かなり寂しくなってしまった。ごめんね、私。
自分で自分を認められないのは、もっともっと根深いところにあるのは気が付いている。
無価値感、自己否定の根源は、幼少期の性被害からきている。
自分を許すことが未だにできていない。
小学生だった私の負い目は全くないし、被害者であるはずなのに、罪悪感や自己否定をずっと抱いている。
他者や社会、生きることへの信頼感が一瞬のうちに崩れ落ちた。
そんな中でも、生きていくために、いい子でいることは私の価値を底上げする意味のあることだった。
そうして、辛うじて社会に対する信頼感を取り戻していった。
ただ、自己否定や罪悪感などがクリアできなくて、生きているなかでたまにこうして辛くなってしまう。
信頼性を失うと、とても心が揺さぶられる。
でも、今まで生きてきてくれて本当にありがとう。
これからは少しずつ、ちゃんと認められるようにするからね。
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