見出し画像

掌編集「a man with NO mission」一挙掲載版

冷笑と不適合、妄執と未遂の小さな物語集『a man with NO mission』をまとめたページです。100編目指して更新中。 *ヘッダー画像はすてられちゃったいぬさん


1 犬を介した出会いについて(179字)

ある男が公園で犬を連れた女と知り合った。男は彼女を気に入り、彼女の犬のことも同じように気に入った。二人は連絡先を交換し、週末になると連れ立って犬の散歩をするようになった。

二人が恋仲になるのに時間はかからなかった。あるとき、男が犬を撫でながら「人が死ぬより犬が死ぬ方が悲しいよね」と言った。彼女は曖昧な微笑みを返した。その日を境に彼女とは連絡がつかなくなった。

2 頼まれごと(305字)

喫茶店のトイレで小用を足しているときのこと、男は卵ともやしとさつま揚げを買ってくるよう妻に頼まれていたことをふと思い出した。読書に夢中になっているうちにすっかり忘れてしまったのだ。

およそ二時間後、二軒目の喫茶店でトイレに入ったときのこと、男は妻に頼まれた買い物のことを今また思い出した。読書に集中しているうちにまたぞろ忘れてしまったのだ。

帰りに立ち寄ったスーパーで、男は頼まれたもののことをぼんやり考えながら売り場をうろついた。卵、もやし、さつま揚げ。男は頼まれたものとは別のものを買った。なぜそうしたのか自分でも分からなかった。

家に帰ると、男はこんな簡単な買い物もできないのかと言って妻にねちねちなじられた。

3 自転車にのって(520字)

ある男がバンドをやっている友人にライブに誘われた。ライブハウスがあるのは最寄り駅と同じ沿線のA駅だった。当日、男はライブハウスまで自転車で行った。電車で十五分のところを四十分かかった。「自転車で来たのかよ」男は友人に笑われた。

男は今度は大学の同期の飲み会に誘われた。場所は都心のB駅だった。男は自転車で行った。電車で一度乗り換えて三十分かからずに着くところを、一時間十五分かかった。同期たちは待ち合わせ場所に自転車で現れた男を不可解そうに見つめた。

飲み会の席で男は酒を断った。アルコールに極端に弱い体質だからだ。男はそれでも二次会まで参加し、弱々しい笑みを浮かべて隅に座っていた。会計は割り勘だった。

夏になると、男は職場のバーベキューに誘われた。場所は県境にある大きな川の河川敷だった。男はやはり自転車で行った。電車で二度乗り換えて五十分かかるところを、道に迷ったこともあって二時間以上かかった。「どうして自転車で来たんだ?」ある同僚が不思議そうに訊いた。男はうまく答えられなかった。

同僚たちがバーベキューを楽しんでいる間、男は堤防を越えたところにあるコンビニまで歩いて行って地図で道を調べた。帰りは一時間四十五分で帰ってくることができた。

4 鞄の行方(385字)

駆け込み乗車に失敗し、ドアに鞄を挟まれたまま電車が動き出してしまった。男は鞄を追ってホームを電車と並走したが、結局何もできなかった。

三つ先の駅では友人が男の到着をやきもきしながら待っていた。次の電車が入ってくると、その友人はドアに何か見覚えのあるものが挟まっているのを見つけた。すぐに男の鞄だと分かったが、当の男は乗っていなかった。友人は、男がドアに手を挟まれたまま電車に引きずられて死んだのだと思った。

男の葬儀が営まれた。男は遺失物取扱所と散々やりあったあとようやく鞄を取り戻すと、あわてて自らの葬儀に駆けつけた。参列者はいずれも顔見知りだった。男はこれは何かの間違いだと訴えたが、誰一人耳を貸してはくれなかった。

男は仕方なく片隅で式の進行を見守った。やがて耐えきれなくなってその場をあとにすると、家に帰ってショックで寝込んでしまった。鞄は葬儀場に忘れてきてしまった。

5 サプライズ(572字)

スカイダイビングを愛好するカップルがいた。結婚を決意した男は、サプライズが好きな恋人のためにフリーフォールの最中にプロポーズをすることにした。

高度3,500メートルの地点でセスナ機から飛び出した二人は、うつ伏せ体勢になって手を取り合い、時速200キロのスピードで空中を落下していった。

男がポケットからおもむろに指輪を取り出してみせると、恋人は歓喜の叫びをあげた。男は身振り手振りで結婚を申し込んだ。恋人は目に涙を浮かべて繰り返しうなずいた。

男が恋人の左手の薬指に指輪をはめると、高度1,000メートルが近付いてきた。二人は口づけを交わし、見つめ合いながらパラシュートを開くのに安全な距離まで離れた。

開傘高度になり、二人は同時にパラシュートを開いた。開いたのは男のパラシュートだけだった。男が顔を下に向けると、恋人が必死にもがいているのが見えた。成す術はなかった。男は恋人が豆粒のように小さくなっていき、地面に叩きつけられるのを見た。

男は恋人からかなり離れたところに着地した。しばらく身じろぎもできないでいたが、やがてよろよろ起き上がると震える手でパラシュートを外した。男は重い足取りで恋人に近づいていった。生死を確かめるまでもなかった。男は恋人の傍らに膝をつき、左手から指輪を回収した。

一年半後、男は新しくできた恋人にその指輪をプレゼントした。

6 区廃‐1237号(358字)

ある朝、男が仕事に向かっていると、真新しいごみ収集車が彼を追い越していった。男はその青い車体に白い文字で区廃-第1237号とあるのを見た。

あっという間に十年が経った。男は仕事を二度変わり、住まいを一つ隣の駅に移していた。いまだ独り身だった。

ある朝、男は仕事に向かう途中の道でごみ収集車とすれ違った。ふと見ると、その青い車体に白い文字で区廃-第1237号とあった。あのときの車だった。男はまだ真新しかったそのごみ収集車を見たときのことをよく覚えていた。

その日は一日仕事が手につかなかった。この十年というもの、男の生活にはそのごみ収集車のこと以外、記憶に残るようなものが何一つなかったのだ。男はどうしようもない虚しさに襲われた。

男は定時に仕事を上がると、まっすぐ家に帰り、カーテンレールで首を吊った。うまくいかなかった。

7 帰郷(275字)

親危篤と連絡があり、男は十数年ぶりに帰郷した。両親とは長らく疎遠になっていた。駅から実家までは歩いて三十分の道のりだった。田圃の間の道を抜けていくのだ。

炎天下を歩いていると、道端で何匹もの蛙が干からびて死んでいるのが目についた。幼い頃に毎年見ていた光景だった。故郷は昔と少しも変わっていなかった。

うだるような暑さだった。畑の脇にはもぐらの死骸が転がっていた。雀の死骸もちらほら見かけた。道路では牛蛙が車に轢かれて潰れており、小川の岸には骨になりかけた猫の死骸があった。

どこもかしこも死だらけだった。男はふいに立ち止まると、踵を返して駅に戻っていった。

8 回廊(412字)

男は、職場のエレベーター回りの廊下をぐるりと一周すると、自分の歩幅でちょうど百歩であることを発見した。刺激に乏しい日々の業務の中で、この発見は大きな喜びをもたらした。

その日以来、男はちょっとした隙間時間を見つけると、いそいそ席を立ってエレベーター回りを歩きに行くようになった。ただ歩くためだけに、業務を中断して離席することもあった。

いち、に、さん、し。男は歩きながら頭の中で唱えるように数えた。一周して百まで数えると、仕事では感じたことのないような充足感を得るのだった。

まもなく、あのいつも廊下をぐるぐる歩き回っているやつは誰だと噂がたちはじめた。男は、他の社員たちから不躾な視線を向けられるようになった。ある女性社員など、男とすれ違うときにまるで汚物を避けるように遠巻きにした。

男はあっという間に居場所を失い、仕事をやめざるをえなくなった。最後の出勤日、男は廊下を続けざまに三周して三百まで数えた。気持ちは満ち足りていた。

9 撮影(705字)

知り合いの知り合いから映画を撮影するので部屋を貸してほしいと頼まれた。

男は気乗りしなかったが、交渉にきた助監督を名乗る男に何度も頭を下げられて断りきれなかった。助監督は現状復帰を約束し、連絡先を教えてくれた。撮影が済んだら向こうから電話をくれる手筈となった。それほど時間はかからないということだった。

男は駅前をほっつき歩いて時間を潰した。することなどなかった。商店街の目立たない場所に座り込み、通りかかる人を観察して過ごした。

電話はなかなか鳴らなかった。半日が過ぎたあと、男はしびれを切らして自分から電話をかけた。助監督は交渉のときとはうって変わった横柄な態度で、まだ何カットか残っていると苛立たしげに言った。いつ頃終わるか訊こうとすると、助監督は「こっちからかけるって言ってるだろ」ときつい口調で遮り、一方的に電話を切った。

乱暴な言い方に傷ついた男は、心を落ち着けようとして隣駅まで歩いた。そして、駅の北側と南側をくまなく歩き回ったあと、再び最寄り駅に引き返していった。

助監督からようやく連絡があったのは、男がファミレスで四杯目の紅茶を淹れているときのことだった。深夜一時を過ぎていた。あわてて帰ってみると、部屋はまるで物盗りにでも遭ったような様相を呈していた。

家具は倒され、そこらじゅうに物が散らばっていた。床や壁には黒くてねとついた正体不明の液体が撒き散らされていた。窓はひび割れ、天井灯はなくなっていた。現状復帰の約束などまるきり無視されていた。

男は怒りに任せて助監督に電話をかけた。何度かけ直しても通じなかった。男はこの部屋で一体どんな映画が撮影されたのか推測してみようとした。まったくの無駄だった。

10 橋の上から(499字)

男が橋の上から景色を眺めていると、下流で誰かが溺れているのを見つけた。男のいるところからは少し距離があった。橋は飛び込むには高すぎたし、岸に回り込むには時間がかかりすぎた。

今から通報していたのでは間に合わないことは確実だったが、男は泳ぎが得意なわけでもなかった。誰かに知らせようと周囲を見回したが、人の姿はどこにも見当たらなかった。

そのとき、男は溺れている人もまた橋の上の自分の存在に気がついたということに気がついた。相手はまさに藁をも掴むようにして必死で助けを求めてきていた。

男は恥ずかしいような情けないような気持ちになった。してやれることは何もなかったのだ。

そのことを分かってもらおうとして、男は肩をわずかにすくめてみせた。それくらいでは伝わらないようだった。今度は頭の上で手を交差させて大きく×印を作ろうとした。しかし、追い討ちをかけるだけのような気がしてためらわれた。

男は、橋の上で身動きが取れないまま、溺れている人が水面に沈むまでの一部始終をただ眺めているより他なかった。たっぷり三分もかかったように思えた。急いで岸に回り込んでいたら間に合ったかもしれないと思ったが、もはや手遅れだった。

11 矢(442字)

ここ数日、男は体の不調を感じていた。どこがどうとはうまく言えなかったが全身を気だるさが覆っていた。商店街を歩いているときのことだった。男は偶然通りかかったクリーニング屋のウィンドウにふと目をやると、そこに映り込んだ己の姿を見て愕然とした。

頭に矢が刺さっていたのだ。

矢は右耳の後ろから左のこめかみ辺りに向かって斜めに貫通していた。先端には見るだけで痛みを感じるほどの鋭い矢尻がついていた。いつの間に刺さったのか、まったく身に覚えがなかった。いくら引き抜こうとしてもびくともしなかった。

男はうろたえて道行く人に助けを求めた。人々は男の頭に矢が刺さっていることに気がつくと、指をさして嘲笑った。勝手に写真を撮るものもいた。石を投げてくるものもいた。男はしまいに泣き出してしまった。

男はその場から逃げ出そうとして、路上の段差につまずいて転んだ。人々が取り囲み、一斉に笑いを浴びせかけた。ある母親が「ああいう大人になったらダメよ」と言って子供の手を引いていった。男は道にうずくまって泣き続けた。

12 失敗一(526字)

長い下り坂の途中に、あまり見通しのきかない交差点があった。信号機はついていたが交通量は少なく、歩行者や自転車は無視することも多かった。ときどき事故の起こる交差点だった。

男はいつもその坂道をブレーキをかけずに自転車で下った。目をつぶって交差点に突っ込んでいくのだ。悪ふざけなどではなかった。車に轢かれようとしていたのだ。死んで楽になりたい気持ちからしていることだった。

しかし、話はそう簡単には進まなかった。ひやりとすることは一度か二度あったが、ぴったりのタイミングで車が飛び出してくることはなかなか起きなかったのだ。

それでも幾度となく試みていると、ある日ついにそのときが来た。

男は耳をつんざくような車の急ブレーキ音に目をかっと見開いた。すぐ脇に乗用車が突っ込んできているのが目に入り、もう避けようがないことを悟った。

だがその瞬間、ある不吉な考えが男の脳裏をかすめたのである。

自分自身のスピードと車のスピード、車の形や直接ぶつかりそうな場所。もしかしたら一思いに死ねないのではないか……。

はたして、結果は男が予測した通りになった。男は一命をとりとめ、残りの一生を寝たきりで過ごすこととなった。死んで楽になりたい気持ちは、その後も少しも和らぐことがなかった。

13 診察券(775字)

男は朝早くから病院の待合で座っていた。昼休みが近づいても名前が呼ばれないので、何かおかしいと思った。診察券を出し忘れていたのだ。財布を探ったがそこに診察券は入っていなかった。家に忘れてきたらしい。男はいったん取りに帰ることにした。

途中、男はそもそもなぜ病院に行ったのか思い出すことができないことに気がついた。何か心配事があったはずだった。考えているうちに、ふいに別のことを思い出した。朝家を出るとき、玄関の鍵をかけ忘れたのだ。近所で空き巣被害があったばかりだった。慌てて帰ると鍵はしっかり閉まっていた。勘違いだった。

部屋に入ると、男はあちこちの引き出しを開けて診察券を探した。心配事が何であったにしろ、それがなければ診てもらえないことに変わりはないのだ。

ところが、どこを探しても診察券は見つからなかった。そのうち、男は部屋が思っていた以上に汚く、不要なもので溢れていることに気がついた。男は一晩かけて部屋をきれいに片付けた。不要なものはすべてゴミに出した。

風呂場で汗を流しているとき、男は途中から診察券のことをすっかり忘れてしまっていたことに気がついた。その一方、そもそもなぜ病院で診てもらおうとしたのかは思い出せないままだった。

そのとき、どこからか笛を吹くような甲高い音が聞こえてきた。男はやかんを火にかけたままだったことを思い出し、慌てて風呂を出た。注ぎ口から水蒸気が勢いよく吹き出していた。火を止めると、中身はほとんど蒸発してしまっていた。

男はふいに診察券をしまった場所を思い出した。壁にぶら下げた安物のウォールポケットの中に入れたのだ。男は水滴をしたたらせながらそちらに足を踏み出し、はたと立ち止まった。それは前に住んでいた部屋で診察券をしまっていた場所だったのだ。

男は急いで体を拭いて服を着ると、以前住んでいた部屋がある街に出かけていった。

14 ホームセンターで(826字)

男が椅子に座って考えに耽っていると、警備員がやって来てそこに座るなと言った。家具売り場で売り物の椅子に座っていたのだ。

男は、ホームセンターの中をほっつき歩きながら、何か新しい趣味を見つけなければと考えた。それは簡単に見つかるようなものではなかった。気がついてみると、男は店の売り物を手当たり次第ポケットに突っ込んでいた。そうしていると面倒なことを考えないで済むからだった。

男は熱帯魚のコーナーでふと足を止めた。途端に、部屋に大きな水槽を置いて色とりどりの熱帯魚を飼うというイメージが思い浮かんだ。それを新たな趣味にしようと思ったが、水槽と魚それぞれの値段を見てすぐに諦めた。男はため息を一つつくと、店員が見ていない隙に水槽に手を突っ込んで熱帯魚を一匹捕まえた。

ホームセンターを出ようとしたところで、男は警備員に呼び止められた。椅子に座っていたところを注意してきた警備員だった。事務所に連れていかれると、男は店のマネージャーにポケットの中身をすべて出すよう迫られた。大人しく言われた通りにした。

蛍光マーカー、ダイヤル式チェーン、流しの三角コーナー用ネット、おがくず一袋、腕時計、フリスク、靴用の消臭剤などが次々に出てきた。最後に出てきたのは背中に青いラインが入った小さな熱帯魚だった。そのままポケットに放り込んでいたので呼吸ができずに死んでいた。

警備員が今にも殴りかからんばかりの勢いで男に悪態をついた。男は黙ってうなだれるしかなかった。マネージャーにねちねちと説教をされたあと、男はすべての商品を買い取ることを条件に解放された。

部屋に帰ると、男は調べられなかった上着の内ポケットから一匹の亀を取り出した。やはりあの熱帯魚コーナーで失敬したものだった。

男は畳に腹這いになり、亀と視線の高さを合わせた。あらぬ方を向いてじっと動かない亀を見ていると、男は自分が昔からこの生き物を好きだったことを思い出した。男は亀を飼うことに決めた。それが新しい趣味となった。

15 同級生(670字)

男には高校を卒業してから十五年以上にわたって年賀状を交換している同級生がいた。特別親しい友人というわけではなかった。ただ同級生とだけ言うのがちょうどいいような間柄だった。

いつも向こうが元日に届くように年賀状をくれ、男がそれに返事を書いた。新年の挨拶に近況を一言添え、今年もよろしくと結ぶのが恒例だった。

今年もよろしくなどと言っても、会うことはおろか連絡を取ることさえなかった。高校卒業以来、年賀状の交換以外のどんな関わりも持ったことがなかったのだ。

ある春の休日、男は都心の繁華街で偶然その同級生を見かけた。何しろ十数年ぶりのことだった。記憶にある姿とはだいぶ変わっていたが、それでも一目で彼と分かった。

同級生は、家電量販店の大きな紙袋をぶら下げていた。一人だった。高校時代に交流がなかったわけではないし、こんな偶然など滅多になかった。男は懐かしさを込めて同級生の名前を呼びかけた。

二、三度呼びかけて人波越しに手を振ると、同級生はようやく気づいて男の方を振り返った。目が合い、向こうも男を認めたことが分かった。

男は改めて手を高く振ると、そちらに足を踏み出した。ところが、相手はまるで何も見なかったかのようにすっと顔を背け、そのまま行ってしまったのだ。

男はもう一度同級生の名前を呼んだ。しかし、相手は聞こえないふりで遠ざかっていくばかりだった。男は軽い裏切りにあった気分でその後ろ姿を見送った。

年が明けると、まるでそのときの出来事などなかったかのように、同級生から年賀状が来た。散々迷った挙げ句、男もまた何事もなかったようなふりで返事を出した。

16 足し算(163字)

恋人がふいに「7+5が好き」と言った。「8+9はちょっと苦手」

「7+5ね」男は言わんとすることが分かったというように応じた。「おれは3+8もけっこう好き。6+7はなんか苦手だけど」

「3+8、いいよね」

「いいよね。逆だとちょっと違うけど。8+3だと何て言うか……」

「分かる」

「あと4+9とか?」

「それも好き」

「いいよね、4+9」

17 失敗二(768字)

コーヒーの乗ったトレイを持って席に向かっていたとき、男はうっかりカップをひっくり返してしまった。

すぐに店員が飛んできて、こぼれたコーヒーを拭いてくれた。火傷をしなかったか、荷物は大丈夫だったかなどと気遣われ、男はすっかり申し訳ない気持ちになってしまった。

無料で入れ直すという店員の愛想のいい申し出を、男は頑なに固辞した。代わりに、罪滅ぼしの気持ちから、これまで一度も頼んだことのない生クリームがたっぷり乗った飲み物を新たに注文し直した。コーヒーの倍以上の値段だった。同じ店員がその飲み物を作ってくれた。

受け渡しのときだった。すっかり恐縮していた男は、指を滑らせてカップを掴みそこねてしまった。

カップはカウンターの縁に当たり、下に落ちていった。男は反射的に足を出した。衝撃を緩和するつもりが、むしろ蹴るような具合になってしまった。盛り上がった生クリームを覆うようについていたドーム状のふたが衝撃で弾け飛んだ。

プラスチックのカップは横にくるくる回転しながら放物線を描いて飛んでいった。ショーケースや近くの客たちにクリームを撒き散らした挙げ句、カップは鈍い音を立ててフロアに転がり落ちた。

男は言葉を失って立ち尽くした。カウンターの向こうの店員もまた身を乗り出したまま表情をなくしていた。店内の誰も何も言わなかった。足を出すなどという余計なことをしなければ、ふたのおかげで被害は最小限で済んだかもしれなかった。

男は、ちらりと伺った店員の顔にかすかな殺意が浮かんだのを見てとった。それ以上その場にいられなかった。男は一言も発しないまま、逃げるように店をあとにした。

それ以来、男は二度とその店に立ち寄ることはなかった。その店がある通りにも近寄らなかった。まもなく引っ越したのは、その店がある街に住んでいると気持ちが落ち着かなくて仕方ないからだった。

18 デモ(331字)

昼休みが終わろうとする頃、男は社員食堂のテレビで新宿でやっているというデモの中継を見かけた。中東で起きている内紛への、先進諸国の武力介入に対する抗議デモだった。

空爆で多くの市民が犠牲になっていることを知った男は、居ても立ってもいられない気持ちになり、自分も何か声をあげなければと会社を飛び出していった。

中継場所となっていた新宿東口に来てみると、デモはどこにも見当たらなかった。一万人を越える規模と言っていたからすぐに見つかるだろうと、男は通りを探して走り出した。

ところが、一時間かけてメインの通りを駆けずり回っても、デモの気配すら見つけることができなかった。「デモはどこでやってるんですか?」男はしまいに通行人に尋ねて回った。みんな眉をひそめて男を避けていった。

19 葬儀(1612字)

友人が急逝し、男は葬儀に参列した。

坊主が読経している間、見知った顔が順々に焼香をあげていった。友人は内臓のどれかが機能不全になり死んだということだった。なぜか分からないが、男はそのことが次第におかしく思えてきて仕方がなかった。

弔問客用のパイプ椅子に座って順番を待つ間、男はうつむいて笑いをこらえた。落ち着いて深呼吸をしようとふと気を緩めたとき、鼻からぶふっと笑いが漏れた。小鼻がひくつき、残りの笑いが一気に噴出しそうになった。男は太ももにぐっと爪を立て、なんとか笑いを飲み込んだ。ぎりぎりセーフだった。

ふいに周りを見てはだめだということが意識にのぼった。いったん意識してしまうと、もう見ないではいられなかった。男は視線をあげて周りを見た。

儀式めいた雰囲気の中、黒い服の集団が沈んだ表情ですすり泣きをしていた。のっぺりした棺が供花に囲われ、坊主がまるでコントでも演じているかのような大袈裟な唸り声をあげていた。遺影の中の友人は、これでは死んでも仕方ないような半笑いの間抜け面をしていた。

男には、すべてがわざと自分を笑わせようとしているように思えた。そうとしか思えなかった。男は自分で自分の笑いを押さえ込むかのように椅子の上で体を右に左によじった。

焼香の順番が来ると、男はくしゃみと放屁を交互に我慢しているような歩き方で、一歩また一歩と前に進み出た。喉の辺りがやけにくすぐったかった。それが全身に広がって行くような気がした。

そうしてはだめだと分かっていたのに、男はまたしても顔をあげて正面の遺影を見た。まるで対比効果を狙ったかのような、バカ丸出しの顔をした友人の写真が飾られていた。

己に強く禁じれば禁じるほど笑えて仕方なかった。力を入れて口を閉じると、笑いはすべて鼻の穴から出ていった。大量の空気とともに鼻水の飛沫が飛んだ。男は唇まで垂れた鼻水をあわてて袖でぬぐった。

男はこの友人がある有名タレントの物真似を披露した過ぎし日のことを思い浮かべた。憐れと言ってもいいくらいのひどい出来だった。そのくせ本人は得意げなのだった。この友人はまったくどうしようもない愚か者だった。本当を言うと、心の内では友人だと思ったことなどなかった。借りた金を返さずに済んでラッキーだった。

男は友人が物真似をした有名タレントももはや故人となったことを思い返した。みんな死ぬのだなと思った。そう考えるとこれ以上ないおかしさが込み上げてきた。男が再び吹き出すと、焼香台の香木が四方八方に飛び散った。絵に描いたような見事な飛び散り方だった。それがいっそうおかしさを誘った。

もうだめだった。男はこれ以上の被害の拡大を防ごうとして、両手で顔を覆った。声をあげて泣き真似をすることで笑いを打ち消そうとしたが、自分自身以外の誰もごまかせていなかった。

男はおかしさにぷるぷると震える手を焼香台に伸ばしたが、そこにはもう香木は残っていなかった。自分がやったのだった。

男は、見れば笑いが込み上げてくると分かっている遺族たちの顔を絶対に見ないようにした。男は親族たちを見た。彼らが、まるで奇怪なものを見るような目で自分を見てくるその目つきがおかしくてたまらなかった。

堤防は崩れ去った。男はひいひい言いながら膝をつくと、そのまま床に身を投げ出した。床の上を転げ回りながら、まるで壊れた水道管のように笑った。

男は、それでもまだすべてを諦めていないかのように、這いつくばって席に戻った。その途中、込み上げた笑いを飲み込んだ拍子に屁を放った。濁音混じりの大きな音がして、男は思わず自分で笑った。

儀式は何事もなかったかのようにしめやかに進行した。男はその後もたびたび笑いの波に襲われたが、椅子にしがみついて何とかこらえた。本当のところ、男はまったく笑いをこらえられていなかった。

参列者たちが送迎バスで火葬場に移動すると、男は遺族や他のものたちの手で火葬炉に放り込まれ、火をつけられた。

20 事件(502字)

ある日、男が住む部屋に突然警察が訪ねてきた。ドアの叩き方で警察だと分かった。男は要心してドアを開けなかった。

警察は近所で起きた強盗事件のことで話が聞きたいと言った。ドアを開けて顔を見せてほしいと言われると、男はこれは罠だと気がついた。

捕まるわけにはいかなかった。男は急いで窓のところへ行き、ベランダから逃げ出した。すでに警察が回り込んでいた。男は裏の畑であっけなく捕らえられると、車に押し込まれた。

警察は自分たちは警察のような格好をし、警察がやるようなことをしているが、本当は警察ではないのだと言った。男は自分がどこへ連れて行かれるのか知りたかった。警察のふりをした連中は教えられないと言った。なぜと問うと連中はむっつり黙り込んだ。

男はなぜ自分が捕まえられなければならないのか、その理由も知らなかった。

男の家の近所では、男が忽然と消えたことを誰も不審がらなかった。翌週、男の部屋に見ず知らずの男がやって来て、何食わぬ顔でそこに住みはじめた。近所の誰も、やはりこのことをおかしいと思わなかった。

その男は、部屋にあった家具や家電を自分のもののように使った。もといた男の痕跡はあっという間になくなってしまった。

21 鏡の中(860字)

洗面台で髭抜きをしているとき、男はふいに不穏なものを感じた。何かおかしいと思って鏡を覗き込むと、そこに映った自分の姿が自分自身の動きに対応していないことに気がついた。

ありえないと思った瞬間、鏡の中の自分がこちらに手を伸ばしてきた。手が鏡をすり抜けて飛び出してきたのだ。男はあっと驚いて目をつぶった。目のすぐ上辺りを掴むようにされたと思った次の瞬間、ガムテープを勢いよく剥がすような音がした。

「眉毛はもらったぞ!」

我に返って鏡を見ると、そこには眉毛を片方なくした自分が映っていた。

男はしばらく片眉で過ごした。新しい眉毛はいくら待っても一本も生えてこなかった。眉毛が片方しかない顔はいかにも締まりがなく、そのせいでたびたび決まりの悪い思いをすることとなった。男は一生この顔で過ごさなければいけないのかと思い悩んだ。

数ヶ月後のある朝のことだった。

洗面台で髭抜きをしているとき、男はまたしても不穏なものを感じた。もしやと思って鏡をよく見ると、そこにいたのはあのときの男だった。そいつは男から奪った眉毛を自分の片方の眉毛の上に張りつけ、憎たらしげににやりと笑った。異様な顔だった。

男は盗られたものを取り返そうとして、本能的に鏡の中に手を伸ばした。鏡の中の男の方が一瞬早かった。男は手を払いのけられ、今度は鼻に掴みかかられた。栓が抜けるような音がして何かが引っこ抜けた。鼻だった。

その途端、男は激しい羞恥心に襲われた。眉毛が片方しかないのはまだ耐えることができる。しかし、鼻がなければどうにもならなかった。鼻なしの顔など恥さらし以外の何物でもなかった。

「はっはっは! お前の鼻はもらったぞ!」

鏡の中の男はそう言って右に消えていった。

男は逃がしてたまるかと鏡の中に飛び込んだ。思ったようにすり抜けることはできなかった。男は鏡に勢いよくぶつかり、床に落ちた。鏡は無残にひび割れてしまった。

男はやがて惨めな気持ちで立ち上がると、震える手で水をすくって顔を洗った。鼻があった部分から凹凸がなくなってしまい、指が滑り抜けるような変な感じがした。

22 上の階の住人(867字)

夜中だった。男は部屋の玄関ドアががちゃがちゃ鳴る音で目を覚ました。酔って帰宅した上の階の住人が、階を間違えてドアを開けようとしたのだ。

以前にも何度か同じことがあった。男は寝ぼけまなこで玄関へ行くと、階を間違えていることをドア越しに伝えた。

ドアノブを回そうとする音がやんだ。数秒の沈黙のあと、ドアの向こうの相手が玄関から離れていく足音が聞こえた。ず、ず、と引きずるような音だった。

数日後の夜中、またしても男は部屋のドアを開けようとする耳障りな音に眠りを妨げられた。

やはり上の階の住人だった。男は同じようにドア越しに対応した。また、ず、ず、と引きずるような足音が遠ざかるのが聞こえた。

同じことが何度か続いたあとだった。またしても部屋のドアを開けようとする音に起こされた男は、今度こそ面と向かって文句を言ってやろうと布団から飛び起きた。

勢い込んで玄関に向かい、鍵を開けてドアノブに手をかけた瞬間だった。男は唐突にあること思い出した。忘れていたことが信じられないくらい重大なことだった。

階を間違えているのはドアの向こうの相手ではなかった。男の方だったのだ。

ドアの向こうの相手こそ、実は今男がいる部屋の本当の住人だった。そして、男こそが上の階の部屋の住人だったのだ。

あんなに苦労して入れ替わったというのに忘れてしまうなんて――。男は自分の愚かさを呪った。

鍵を閉め直すにはもう遅かった。ドアは予想外の力強さで外から開け広げられた。男は抵抗を試みたが、無理やり廊下に引きずり出されてしまった。

すかさず、黒い影が入れ替わりに中に入り込んだ。ドアは男の目の前で閉ざされ、重い施錠音が廊下に響いた。

いくら叩いても反応はなかった。男はしばらく粘ったが、やがて諦めてドアに背を向けた。

階段をのぼる足取りは重かった。上の部屋に帰りたくなかったのだ。あの部屋には何か出るからだった。男は見るからにつらそうな様子で、壁に手をついてのぼっていった。

一段ずつゆっくりとのぼりながら、男は明日になったらまた部屋を替わってもらえないか交渉してみようと思った。たぶん夜中に。

23 追憶の殺人(681字)

ある夜、男は終電に近い私鉄の駅でホームの端をふらふら歩くスーツの中年男性を見かけた。かなり酔っているようだった。

電車が入って来ると、男は引き寄せられるようにしてその見ず知らずの相手に近づいていった。そして、何を思ったか、すれ違いざまに背中を肩で強く押したのだった。

中年はバランスを崩してあえなく線路に落下した。直後に急ブレーキの音が響いた。周囲に他に人はなく、男は振り返ることもなくその場を去った。

ほんの出来心だった。中年は轢死し、男は捕まることもなかった。

数年後、そのときのことはどちらかと言えばいい思い出として男の中で記憶されていた。なぜそんな風に記憶しているのか、自分でもよく分からないくらいだった。

あるとき、男は付き合いが深まりつつあった女と英国式庭園が見えるレストランに出かけた。ゆっくりできる窓際の席だった。結婚を申し込むつもりだった。

食事中、二人の間には常に笑いが絶えなかった。絶品のバジルソースのパスタに気をよくした男は、ふと数年前の駅での出来事について話しはじめた。
女は興味津々で話にうなずき、男も興に乗った。最後の部分まで話し終えると、二人で一緒に笑い合った。

男はプロポーズを切り出す前にいったんトイレに席を立った。用を足している間も上機嫌で、いい返事をもらえると確信していた。

席に戻ると女がいなくなっていた。彼女もトイレかと思い、男はエスプレッソのおかわりを注文した。自分のした話の余韻に浸りながら、男は一人にやけてそれを飲み干した。

三杯目を飲み終えたところで、男はようやく女がもう戻らないのだということに気がついた。男は四杯目を注文した。

24 高原デート(335字)

初めてのデートで高原に牛を見に行ったときのことだった。男は自信満々で恋人に言った。

「好きな動物、当ててやろうか?」
「え?」女は不意打ちをくらったように言った。
「牛」
「違うけど」

会話はそれきり途絶えた。

二人は売店にソフトクリームを買いに行った。搾りたてのミルクで作った濃厚な一品だった。450円した。

男は遠くの牛を眺めながら、しばらく押し黙ってソフトクリームを舐めた。やがて、自ら沈黙を破った。

「分かった、羊だ」
「違うし。何決めつけてんの。バカじゃない」

その言い方にかちんときた男は、恋人の顔にソフトクリームを押しつけ、ぐりぐりした。相手の顔がべったりと、真っ白になった。

「お前、オペラ座の怪人みたいだぞ」

男は声をあげて笑うと、恋人を置き去りしてレンタカーで帰っていった。

25 火事(662字)

ショッピングモールで買い物をしていたとき、男は突然腹を下した。お昼に食べたものが当たったのだ。

あわてて近くのトイレに駆け込むと、個室はすべて埋まっていた。空くのを待っている余裕はなかった。男は大急ぎでフロアの反対側にあるトイレに向かった。

「避難した方がいいな」

すれ違いざまに誰かが言うのが聞こえた。その言葉に続くようにして、他の買い物客たちがぞろぞろと出口に向かいはじめた。

火事だって。その中の誰かが言った。

男はちょうど人波に逆らうような格好になった。むしろ都合がよかった。これなら絶対にトイレは空いているはずだ。

「そっちはダメだ!」

誰かに呼び止められたが、構っている余裕などなかった。もう出かかっていたのだ。

男は脂汗をにじませながら、トイレマーク目指してテナントを突っ切って走った。

思った通り、トイレには誰もいなかった。男は便座に座ると同時に大量の便を放出した。際どいところでセーフだった。

ふおお、むう。

誰もいないと思うとつい声が出てしまった。少し間を置いて第二弾と第三弾が出ると、ようやく危機は去ったように感じた。

男は大きく息を漏らし、その場でぐったりとなった。

ふと見ると、備えつけのサイドボードに雑誌が読み捨てられていた。

何気なく手に取ると、男の好きなゴシップ記事満載の週刊誌だった。おまけに袋とじも未開封だった。男はほくほく顔でアイドルの密会記事から読みはじめた。

すぐに夢中になり、次に気がついたときにはもう手遅れだった。

翌日、男は焼け焦げた週刊誌を手にしたままの状態で消防隊員に発見された。袋とじは開けられていた。

26 分かれ道(88字)

一本道を進んでいくと、道が二手に分かれていた。

右の道は地獄行きと案内が出ていた。

左の道には案内はなかった。

男は左の道を選んだ。

地獄よりもっと悪かった。

それが新たな基準となった。

27 犬を介した再会について(1241字)

男は今でも小学生のときの苦い記憶を思い出すことがあった。

ある日、一緒に遊んでいた同級生のFが目の前で犬に咬まれたのだ。自分と同じくらい大きな体をした凶暴な野良犬だった。

男は怖くなって、泣きわめくFを見捨てて逃げたのだった。Fは腕に十針以上縫う大怪我をした。

後にも先にもあんなに怖い思いをしたことはなかった。

その一件のあと、男は例の野良犬以上にFの存在を恐れるようになった。Fと目が合うと、あのとき逃げたことを責められているような気がしたのだ。自分の意気地のなさを。

男は、残りの学校生活をFを避けるようにして過ごしたのだった。

それから二十年以上が経った今でも、男の心には当時のことが引っ掛かっていた。

ある日、男は一言謝りたいという抜き差しならない思いに駆られて衝動的にFを訪ねた。本当はずっとそうしたかったのだ。

今も実家で暮らしていたFは、突然の訪問に面食らい、いくらか警戒した様子で門扉越しに対応した。

それも最初だけのことだった。男が昔のことを謝りたいと言うと、相手の態度も心なし和らいだ。

ところが、門扉を開けて敷地に通してくれたかと思うと、Fは突然態度を翻した。敵意もあらわに男を罵りはじめたのだ。

卑怯者。根性なし。お前のせいで大怪我をした。お前のせいでおれは不具者だ。一生が台無しだ。

男はすっかり萎縮して批判されるままになった。どれだけ責められても当然の報いだと思った。

突然、Fが勝ち誇ったような笑い声をあげた。もしやと思って振り返ると、男の後ろに放し飼いの大型犬がいた。罠にはまったのだ。

大型犬は今にも咬みつきそうな様子で牙を剥き出しにして唸り、飼い主の命令を待ち構えていた。

「このときを何年も待っていたぞ。この傷の恨みを忘れるはずがないからな。そいつは羊を何頭も噛み殺したこともある凶暴なロットワイラーだ。今こそ復讐を果たしてやる。行け、ソルティ!」

Fは犬をけしかけてきた。

男はわっと目をつむり、飛びかかってきた犬を無我夢中で払いのけた。

宙を舞った犬は、庭の隅にあるDIY用具がまとめられた一角に突っ込んだ。板や工具が大きな音を立てて犬の上に崩れ落ちた。

犬はそれらを自ら押しのけて立ち上がったが、その胴体には芯材で使うような鉄の棒が二本突き刺さっていた。犬はなおも立ち向かってこようとしたが、もう脚が言うことを聞かなかった。

Fは犬に駆け寄り、歯軋りしながら男を振り返った。

「おれに何の恨みがあるんだ!」

男はうろたえて許しを乞うた。決してこんなことをするつもりではなかった。

Fは絶対に許さないとわめきながら殴りかかってきた。男は甘んじて殴られながら、ただひたすら頭を下げた。

Fは何度も殴った。途中からは角材を使って殴った。

次第に、男はいくらなんでもやりすぎだろうという気持ちになって、思わず一発殴り返した。

Fの歯が折れた。

Fは血相を変えて再び掴みかかってきた。

男は今度は受けて立った。二人は狭い庭先で上になり下になりの大乱闘を演じた。

そうこうしているうちに犬は死んでしまった。

28 オフィスサプライ(1268字)

昼食から戻ると、男はさっそく午後の仕事に取りかかった。書類がきちんと規定に沿っているかどうかを確認する単調な業務だった。

はかどりはじめた頃、デスクの隅に押しやるように置いてあった水色のテープカッターが男にもそもそ語りかけてきた。

「たまには埃くらい拭いてくれよ」

昔ながらの重量のある卓上型テープカッターだった。男はまさかと思って手を止め、辺りを見回した。こんなものが喋るはずがない。

同僚たちはそれぞれ自分の仕事に従事しており、誰も話しかけてきてなかった。でも、まさか。

男はそっと手を伸ばし、テープカッターの水色のボディを指先でつついてみた。反応はなかった。指の関節のところで軽く叩いても反応はなく、少し持ち上げて揺すってみても同じことだった。

「そうじゃねぇよ。掃除だよ、掃除」

男は驚いて声をあげそうになった。やはりこいつだったのだ。しかも、なんだか品の悪い感じだ。

男は少し腰を浮かせて重い台座を両手で掴むと、テープカッターを目の前に持ってきた。椅子に座り直して、そのどっしりとしたボディを改めてじっくり眺めた。

埃をかぶっていることはときどき目についていたが、掃除をしたことなど一度もなかった。

数年前の配置換えでこのデスクを使いはじめたときから置いてあったものだが、業務で使う機会がほとんどないせいもあり見て見ぬふりをしてきたのだ。

よし、一丁やるか。

男は軽く腕まくりをし、デスクの一番上の引き出しから使い捨てのお手拭きを取り出した。

男には、喫茶店やファミレスでもらったお手拭きを使わずに持ち帰って溜め込む癖があった。何ヵ月も放置して乾燥させてしまうのがいつものオチだったが、今こそ役に立つときが来たのだ。

男は開封したお手拭きを指でつまみあげると、もしやと思って一瞬それを見つめた。これも喋るかもしれないと思ったのだ。

残念ながら、お手拭きは喋らなかった。

それでも、男はこのときのために自分はお手拭きを集めていたのだと何か合点が行くところがあった。

男はテープカッターの拭き掃除をはじめた。いったんはじめてしまうと、もう隅々までやらないではいられなかった。

お手拭きはすぐに真っ黒になり、二袋目三袋目と開けなければならなかった。使用済みのものは足元のゴミ箱に捨てた。

リールを外して溝の部分を掃除することも忘れなかった。もちろん、リール自体の汚れもきれいに落とした。

男はお手拭きを惜しまず、ひたすら丹念に部品を磨いた。磨きながら、セロテープとテープカッターの単純で無駄のない構造に思いを馳せた。

これを考えた人間は天才に違いない。

結局十枚以上のお手拭きを使った。すべて終わったときには、テープカッターは新車のような輝きを放っていた。

男は満足げな表情でそれを愛でると、その文具が何か言うのではないかと思って少し待った。もしかしたら、お礼か何かを。

テープカッターは何も喋らなかった。

少し残念に思ったが、男はこれでいいのだと自分を納得させた。それからその文具をもとのデスクの隅に戻した。

ちょうど終業を知らせる音楽が流れた。男は爽やかな気分で職場をあとにした。

29 天地反転(632字)

目を覚ますと、首から下が土に埋まっていた。おまけに天地が逆さまになっていた。

男は天を埋め尽くした地面の底に、頭を下にして突き刺さるようにして埋まっていたのだ。眼下には底なしの空が広がっていた。重力だけはもとのままだった。

男はついにこのときが来たと思った。長い間、予感だけはあったのだ。

見回すと、他にも大勢の人々が土から頭だけを出して下向きに垂れさがっていた。すべて予言通りだった。

男は予言を繰り返し唱えながら、時が満ちるのを待った。

風が地表をなで、近くに埋もれたものたちの髪がそれになびいた。男はある髪の長い女に視線を引きつけられた。

よく見ると、それは女ではなかった。マネキン人形だった。男ははっとなって他のものたちを見回した。みんなマネキン人形だった。騙されたのだ。

男は大声で助けを求めた。誰も来てくれないことは分かっていると思うと、声は余計に大きくなった。

そのとき、声の振動が伝わって近くの土が剥がれ落ちた。そこに埋まっていたマネキンが、土と一緒に眼下の無限の空間に落ちていった。

男はあっと口をつぐみ、マネキンが音もなく小さくなっていき、ついには見えなくなってしまうのを最後まで見送った。

男はもう声を出さなかった。

やがて、また別のところで土が剥がれ落ち、マネキンが一体こぼれ落ちていった。それも見えなくなったかと思うと、次だった。

男は脱出しようと体をもぞもぞ動かしたが、土が崩れそうになったのですぐにやめた。もはや時間の問題だったが、できることは何もなかった。

30 耳垢(678字)

「ちょっとこっち来て」

男は心なし浮き立った声で女を呼んだ。見たこともないほど大きな耳垢が取れたのだ。

女が部屋の戸口のところに姿を現した。何か作業を中断してきたらしく、ゴム手袋をはめたままだった。やらなきゃと言っていた風呂場の排水溝の掃除かもしれない。

「耳垢、すげーでかいのが取れた」

男は耳垢の乗ったティッシュを手のひらに乗せ、得意気に女に見せた。

女は汚れがつかないように手のひらを外側に向けて腰に手を当て、すがめた目をちらりとティッシュに向けた。

「で?」女が言った。

で、と言われてもこれだけだった。でかい耳垢。男はもっとよく見てと言うように、手をもうひと押し前にやった。

女は感情のこもってない目でティッシュを一瞥すると、ものも言わずに行ってしまった。

男は、女のその態度にまた何か間違えてしまったらしいと気がついた。「捨てるから」男はあとを追うようにして言った。

しかし、一人になって改めて耳垢を前にすると、やはり捨てるには忍びないという気持ちが沸いた。それほどの大きさだった。

その日、男は耳垢の乗ったティッシュを机に広げたままにして布団に入った。

翌朝目が覚めると、男は真っ先に机のところに行った。ティッシュはそのまま置いてあったが、肝心の耳垢は消えてしまっていた。

男は焦って辺りを見回した。耳垢はどこにもなかった。這いつくばって床をしらみつぶしに探したが、見つかるのはゴミだけだった。

風に舞うとか虫に食べられるとかしてしまったのだろうか。男はしばらくくよくよ考えた。はっきりしたことは何も分からなかった。

午後になって、男はようやく女にあれは捨てたと報告した。

31 階段落ち(1044字)

男は下り階段の最初の段で足を踏み外し、前のめりになって転げ落ちはじめた。三階から一階へとぶち抜きで続く、デパート正面の豪奢な長い階段だった。

一度転がり出したが最後、途中でとまることはできなかった。男は階段の角に体中を打ちつけながら速度を上げて転がり落ちていった。

無傷で済むはずがなかった。まず最初に頬骨が折れた。すぐあとに左肘の関節が砕け、続けて右足の脛が折れた。

踏ん張ろうとしたせいで余計に弾みがつき、少し浮き上がったあと腰骨を強く打ちつけた。体の中でそれがひび割れる音が響いた。

指の骨も何本か駄目になった。実際に何本折れたか、転がりながら数えることはできなかった。そうこうしているうちにも、頭蓋骨が陥没し、膝のお皿が真っ二つに割れた。

階段はまだ半分残っていた。不幸中の幸いは、痛みを感じる暇もなかったということだった。無事なところは全身のどこにもなかった。

男はちょっと足を滑らせたくらいで情けないと心のどこかで己を笑う余裕があったが、首がありえない方向にねじれて自分の背中が見えるようになるといよいよそうも言ってられなくなった。

それに、こんなにやかましい音を立てて落ちていたらみんなの注目の的にもなってしまう。男は晒し者にはなりたくなかった。

その心配には及ばなかった。

男は下から五段目で大きく跳ねると、弧を描くようにして宙を舞い、頭のてっぺんから一階フロアに着地した。

着地の衝撃が頭から胴体を伝って、最後に足先がぷるぷると震えた。男の意識はその衝撃波のうちにかき消えたのだった。

頭で倒立した男の体は、体操選手のようにその状態で一瞬静止し、客や販売員などその場に居合わせた人々がはっと息を飲んだあとゆっくり傾いていった。

誰も一歩も動けなかった。男の体は根元から折れた塔のように横ざまに倒れ、フロア中に大きな音を響かせた。

一拍おいて、人々が一斉に男を取り囲んだが、誰もその傷だらけの体に触れようとするものはいなかった。

どこからともなくデパートの支配人が現れ、輪の中心に割って入った。

「お買い物中のみなさま、大変お騒がせしております。はっはっは、ときどきあるんですよ。ドジなお客様がいらっしゃいましてね。あとはこちらで対処いたしますので、みなさま、引き続きお買い物をお楽しみください」

支配人がぱちんと指を鳴らすと、脇からディスプレイ用の大きな布を持った販売員が二人現れた。販売員たちは、その大きな布をすっぽりと男に被せた。

人々は散り散りになって買い物に戻っていった。デパートに平和が戻った。

32 箱(231字)

男は前に進もうとした。何か見えない壁に阻まれて一歩も前に行けなかった。

右に行こうとしても左に行こうとしても、見えない壁が立ちはだかっていた。

来た道を戻ろうと後ろに下がった。いつの間にか後ろも行き止まりになっていた。

考えあぐねた末、男はその場で軽くジャンプしてみた。見えない天井があって頭をぶつけた。

いつの間にか狭い箱のような空間に閉じ込められていたのだった。足元を探ってみたが、どんな抜け道もなかった。

あとは死を待つだけだった。もう死んでいるのかもしれなかった。

33 ペットボトルの蓋(1504字)

男はペットボトルの蓋が落ちているのを見つけると後先考えずに拾う癖があった。拾った蓋は家に持ち帰って集めていた。

なぜと訊かれても答えようがなかった。しいて言えば何かに使えそうな気がするからだったが、その「何か」とは何なのか、分かっているわけではなかった。

男は蓋を拾うと決まって上着のポケットにしまい込んだ。一つ増えるたびに、布地の上からぽんと叩いては感触を確かめた。一日に五つ以上拾うと何かいいことが起きるような予感がするのだった。

「蓋です。ペットボトルの蓋。キャップと言ったりもしますね。今日はもう四つも拾いました」

男は頼まれもしないのにその日の成果を報告することがあった。

一日がかりで出かけたのに一つも見つけられないときには、がっくりと落ち込んだ。そんなときは、せめて一つ見つけるまでと夜遅くまで近所を蟻のように歩き回るのだった。

当然のごとく、男の部屋はペットボトルの蓋で溢れることとなった。あるとき、男はうず高く積み上げられた蓋を見てひらめいた。

この蓋で家を作ろう。

男はさっそく仕事に取りかかった。ペットボトルの蓋は今やただの蓋ではなかった。それは大きな仕事を成し遂げるために必要な部品だった。

男は今まで以上に真剣に蓋集めに精を出した。集めた蓋はきちんと水洗いし、色ごとに分けてかごに納めた。

休日になると、近くの広場で時間を忘れて家作りに取り組んだ。設計図は書かなかったが、頭の中には完成したときのイメージがはっきりとあった。

男はあくまで蓋だけで作ることにこだわった。タイル貼りのように、モルタルの下地にペットボトルの蓋を押しつけていくというやり方は邪道に思えた。

男のやり方は、蓋に錐で穴を開け、ワイヤーを通して繋ぎ合わせていくというものだった。どうしても必要な箇所でのみ接着剤を使った。

蓋に穴を開けていくのは途方もなく手間のかかる作業だったが、男は幼い頃に熱中したパズルのように蓋を使った家作りに熱中した。

三ヶ月後、ようやく家が完成した。

一般の住宅よりは一回り小さいが、人が中で過ごすのに十分な大きさのある二階建ての家ができあがった。

家具やベッドも家と一体化するようにして作ってあった。制作途中から自ら住むことを考えるようになり、臨機応変に形を変えていったのだ。

男は一階と二階を行ったり来たりし、表に出て外観をとっくり眺めたりしながら、この家に移り住む決心を固めた。

その夜、関東地方にその年はじめてとなる超大型の台風が上陸した。

男は完成した家を木にくくりつけるために慌てて広場に向かった。一足遅かった。家は男の目の前で強烈な風に吹き飛ばされた。

ペットボトルの蓋でできた家は軽く、家の形のまま空高くに巻きあげられた。追い打ちとなる強風が吹きつけると、家は近隣の高層マンションの壁にぶつかって空中で分解した。

ワイヤーがちぎれ、ばらばらになったペットボトルの蓋は、むなしく風にさらわれていった。

あっという間の出来事だった。嵐はますます強まり、男は広場にある子供用の遊具の中に避難した。

一夜明け、男は重い体を引きずるようにして遊具から出た。風はすっかり収まっていた。家を作る夢はまだあきらめてなかったが、一からやり直しかと思うと気が遠くなる思いだった。

ふと見ると、広場のあちこちにペットボトルの蓋が落ちていた。家を作るのに使ったのとは別物だった。強風でどこからともなく飛ばされてきたのだ。

男は気落ちしながらも一つ、また一つと拾ってはポケットにしまっていった。上着のポケットはすぐに右も左もいっぱいになった。

近くの通りに出てみると、蓋はまだいくらでも落ちていた。男はポケットをぽんと叩き、思わず顔をほころばせた。

34 陳列棚(2149字)

道を歩いていると、通りの反対側にドラッグストアがあった。男はその店の軒先に出ている商品の陳列が一箇所、棚ごと大きくずれていることに気がついた。

その陳列棚は高いところに洗剤や何かがこんもり山積みになっていて、子供の上に倒れでもしたら大変なことになりそうだった。

男は車が途切れたのを見計らって通りを渡り、小走りで店に向かった。

網かごが三段重ねになったキャスター付きのラックだった。

一番上のかごに入っていたのは袋タイプの詰め替え用液体洗剤で、容量が1キロ近くあった。中段はスナック菓子、下段には徳用の使い捨てカイロが入っていた。

どう見てもバランスが悪く、中身を入れ換えた方がよさそうだった。

幸い、ラックはかごごと引き出せるタイプだった。男は辺りに誰もいないことを見てとると、ささっとやってしまうことにした。

まず一番上の液体洗剤のかごを取り出し、いったん地面によけた。次に、一番軽いスナック菓子のかごを中段から取り出して上段に移動した。

あとは下段の使い捨てカイロを中段に移動し、洗剤を下段に入れるだけだった。そうすれば下に行くにしたがって順に重くなり、ずっと安定する。

「ちょっと」顔を覗かせた店員が男の行為を見咎めて声をかけてきた。「あんた、何してんの」

「あの、これ、ちょっと入れ換えようと思って……」男はちょうど引き出したスナック菓子のかごを抱え持ったままどぎまぎして言った。

「は? なんで?」店員は不審そうに言いながら外に出てきた。

「ずれてたので」

「ずれてた」店員はおうむ返しに言った。

「それで道路渡って」男は自分が来た方向を手振りで示した。

店員はそちらをちらりと振り返り、改めて男に問い詰めるような眼差しを向けた。

「ずれてたから、危ないと思って」男は詳しく説明する必要を感じて言った。

「ずれてたって何が」

「こいつです」

男はちょうど手がふさがっていたので、つま先で陳列棚をちょんとつついた。それからすぐにその言い方は失礼だと気がつき、抱え持っていたかごごと棚を示して言い直した。

「これです」

幸いと言うべきか、その陳列棚はまだはみ出したままの状態になっていた。

店員は、それが元からずれていたのか、男が故意にずらしたのか、見極めるようにして棚と男を交互に見た。

「ぼくじゃないですよ」

男は疑われていると感じ、あわてて否定した。

店員はぼんやりうなずいたものの、あまり信じている様子はなかった。

「倒れたりしたら、子供とか」

「子供なんかいませんよ」店員は冷ややかに言った。

「いや、もしいたら……」言いかけて、男は自分が抱え持っているものにふと目を落とした。

それは店の商品だった。よく見れば、男の好きなポテトチップスのコンソメ味だ。液体洗剤の入ったかごもまだ地面に置きっぱなしになっていた。これでは物盗りのように思われても仕方なかった。

「違いますよ。違います」男は釈明した。

「何が」

「これは、上が重いと思って。倒れたら子供とか危ないし……」

「いないんで、子供」店員は強い口調になってさえぎった。

「そうなんですけど……」男はごにょごにょと言った。

「勝手に入れ替えられたら困るんですけどね」店員は男にまともな理由がないのを見て取ると、わざとらしく口調を変えて詰め寄ってきた。「警察呼びますか」

「あの、いえ、すいません」

男はおとなしく非を認めた。棚がずれていたことはともかく、中身を勝手に入れ換えようとしたのは間違いだった。自分は店のスタッフでも何でもないのだ。

「元に戻しますか?」男は下手に出て言った。

店員は、言われなきゃ分からないのかよとでも言うように、これ見よがしなため息をついた。

それでもなお、男は己の気がかりを振り払えなかった。

「でも、子供とか……」

「いねぇんだよ」

「やります」

男はすごすごと引き下がり、かごを元通りに戻した。

上段が液体洗剤、中段がポテトチップス、下段が徳用の使い捨てカイロ。どう考えてもバランスが悪かったが、もうどうしようもなかった。

店員に見張られながら、男はまるで使えないバイトになったような気分で棚を壁沿いに納めた。

少なくとも棚がずれているのを直したことだけは自分の手柄だった。男はほんの少しだけ自尊心を回復して店員を見た。心のどこかで一言礼を言ってもらえるものと期待していた。

「ストッパー」店員は不機嫌そうに言った。

「え?」男は何のことか分からなかった。

店員はむすっとしたまま棚の足元を指さした。

それでようやくキャスターの部分にストッパーがついていることに気がついた。それを効かせれば棚は動かなくなるのだ。

男は言われるままにストッパーを踏み込んだ。キャスターがしっかりとロックされる手応えがあった。

もともと棚がずれたのは店の人がこれをやり忘れたからだと気がつき、男は同意を得ようとして今一度店員を見た。

だが、店員は男が規律を乱す不届き者と決めてかかるような目で男を見ていた。

男は自分の発見を共有したかったが、何を言っても無駄だろうと出かかった言葉を飲み込んだ。そろそろ立ち去る頃合いだった。

男はぎこちなく頭を下げると、もと来た道を戻っていった。

通りを横断するときにちらりと振り返ると、店員はまだじっとこちらを見ていた。ドラッグストアが完全に視界の外に消えるまで、男は店員の視線を感じ続けた。

35 心に残る作品(556字)

若い頃、男はある映画を見た。とてもつまらなかった。最後まで見ても褒めるところが一つも見つからないくらい、ひどい出来映えだった。

あまりのひどさに、その後数日間その映画のことばかり考えてしまうほどだった。いくつかの具体的なシーンが思い出されると、あそこは特につまらなかったとため息が漏れた。タイトルを口にするだけで活力が奪い取られるような気さえした。

一年経っても二年経っても、男は何かにつけてその映画のことを思い出した。五年十年経っても忘れられなかった。

思い出す頻度の多さから、ときどきむしろあの映画は面白かったのではないかと疑問が生じるほどだった。男はそのたびに自分の中で再点検して、そんなことはないと改めて結論を下した。あれはただただどうしようもない、金を返せと言いたくなるようなひどい映画だった。

定期検診で病気が見つかった。精密検査のあと、医者に余命三ヶ月と宣告された。その宣告を聞いている間、男はなぜかあのつまらない映画のことを思い出していた。あそこまでひどい代物はそれまでもそれからも他に見たことがなかった。

病床で男は毎日のように昔見たその映画のことを思い出した。男にとって、それだけが唯一はっきりと思い出せる人生の記憶だった。今際の際に、男は看護師に最期の言葉を残した。

「もう一回あの映画を見たかったな」

36 行方不明(540字)

男の遺体が行方不明になった。棺から消えたのだ。

調べてみると棺の底に穴が開いていた。誰かが男はそこから逃げたのだと言った。別の誰かが死んでいるのにどうやってと反論した。確かに一理ありそうだった。遺体が盗まれた可能性もあったが、誰が何のためにと考えると皆目見当もつかなかった。

よくよく話し合ってみると、誰も男が死ぬところを見ていないことが分かった。死因も伝えられていなかった。来たときにはすでに棺に蓋がされた状態で安置されていたので、実際に遺体を見た者もいなかった。

葬儀の予約はいったんキャンセルされた。協議の結果、キャンセル料は当事者である男のもとに請求されることとなった。

騒ぎをよそに男はぴんぴんしていた。葬儀のことなど何も知らずにドーナツを食べに出掛けていた。電話を取ると葬儀社からだった。担当者は当日キャンセルなので100%支払うか、予定通り葬儀を行うかだと迫った。

男は葬儀を行うことを選んだ。今月は皿洗いのバイトで皿割りの新記録を達成していた。もうやっていけないという気持ちだった。男は自ら棺に入り、内側から自分で釘を打ちつけた。

いったん帰ってしまった人々が戻ってきて、男が釘を打つ音に合わせて踊り出した。宴会がはじまった。棺は特別強力な炎で燃やされた。すべてが灰になった。

37 失敗三(633字)

男が趣味で小説を書いていることを知ると、女は強い興味を示して読みたいと言った。男は最初渋ったが、しつこく言われるとやがて根負けした。翌日、さっそく原稿用紙で百枚ほどの長さの小説を渡した。読んで感心してほしいと思っている部分もなくはなかった。

次の週末に会ったとき、男は小説の感想を求めた。女は「まだ読めてなくて」と軽くかわした。あんなに読みたいと言ったくせにと思ったが、男は不満は口にしなかった。

その次に会ったとき、女は男が何を言うより前に「ごめん、時間なくてまだ読めてない」と多忙ぶりをアピールしながら言った。男はいつでもいいよと余裕を見せた。

しばらく間が空いて数週間ぶりに会ったとき、女はどこか小説の話題を避けるようなところがあった。男はあえて自分からは訊かないことにした。二人は忙しさを理由に会う頻度が減っていき、そのまま自然消滅した。

数年後、男は街中で女とばったり再会した。女は元気そうだった。簡単に近況報告をしあったあと、男はあのときの小説はどうしたかと尋ねた。女はあれねと苦笑いして言った。

「なんか思ってたのと違った」

やはり読んでいたのだ。女はさらに何か批判めいたことを口にしかけたが、すぐに言葉を引っ込めて次のように言うに留めた。

「小説のこととかよく知らないから」

男はなぜあのときすぐに読んだことを言わないのかと問い詰めたかった。自分たちが疎遠になったのは、あの小説のせいだったというのか。

薄々分かっていたことだった。女はじゃと軽く手を振り去っていった。

38 拉致(アブダクション)(1091字)

深夜のことだった。部屋の窓から突然まばゆいばかりの光が差し込み、男は眠りを妨げられた。何事かと起き上がるとベッドの脇に影が立っていた。それは怪しげにゆらゆらと揺れ、こちらを見定めるようにしていた。

影にわっと襲いかかられた次の瞬間、男は何もない真っ白な空間に連れていかれていた。光源もないのに隅々まで煌々と明るい場所だった。すべてが白く、壁や天井の境目も分からなかった。

自分がどこにいるのか見当もつかなかった。台の上に寝かされた男は、縛りつけられているわけでもないのに身動きが取れなかった。強力な磁石で台に張りつけにされているかのようだった。

さらわれたのだという答えにたどり着くのに時間はかからなかった。一体誰がそんなことをと考えると、男の脳裏に受け入れがたい考えが浮かんだ。宇宙人だ。宇宙人にさらわれたのだ――。

ふいに目の前の空間が裂け、そこから浮き上がるようにして影が現れた。一つではなかった。いくつもの影が立て続けに現れ、男をぐるりと取り囲んだ。

輪郭のぼやけたその存在は、はっきり見ようとしても焦点を合わせることができなかった。影たちが代わる代わる揺らめく様は、まるで何事か相談をしているかのようだった。

男は俎上の鯉のような気分だった。このまま生きて帰れないのではないかという恐ろしい考えが頭をよぎった。

そのとき、影たちの輪郭のない体から触手のようなものが生え、うねうねと伸びはじめた。

「何をするつもりだ!」

男は恐怖にひきつった声で言った。影たちは何も答えなかった。否応なく、人体実験という言葉が思い浮かんだ。

触手はそれ自体が別の生き物のような動きをして、時が満ちるのを待つかのように宙をのたくった。男はなんとか逃げ出そうとしたが、体をわずかに浮かせることさえできなかった。

「やめ、やめろっ」

聞き届けられるはずもなかった。触手が一斉に男に襲いかかった。何本もの触手が寝間着の隙間という隙間から入り込み、そして――、一斉に男の体をくすぐりはじめた。

「……ひゃ、ひ、あひゃ、ひへへへへ、や、やめっ、やめれへへへへ、あひゃひゃ、うひっ、やめっ、やめてやめて、むりむり、ひ、いひ、うひゃひゃひゃ――」

男はさっき逃げようとしたときよりもずっと本気で身をよじって脱出しようとした。無理だった。やめてくださいもう無理です死んでしまいます。懇願したが、影たちはやめなかった。

「むりむり、やめっ、いひっ、あひゃひゃひゃ、むぐっ、んぶっ、えへれへれへれ、えへへへれ、ひひ、ひっ、もうやめ、んひっ、ちょっ、げへげへへへ、あへあへひへはへ――」

男の狂ったような笑い声が、真っ白な空間にいつまでも響いた。

39 更地(584字)

男は更地を見つけるたびに写真を撮った。地面以外に何も写っていない、殺風景な写真だ。撮るたびにSNSにアップしたが、反響はほとんどえられなかった。

更地は少し自転車でうろつくだけで簡単に見つかった。駅前まで行って帰ってくるだけで三つも四つも新たに見つけてしまうようなこともあった。

ときどき、慣れた道に突如として更地が出現することがあった。そういうとき、男は立ち止まってそこに何が建っていたのか考えてみるのだった。一度として分かった試しはなかった。

更地だった場所にいきなり住宅やマンションが出現するということもあった。建設中のところを見た覚えもないのに、いつの間にか完成した状態で建っているのだ。

SNSを通して、ぽつぽつと更地の情報が寄せられるようになった。男は時間を見つけては近い場所から順に足を運んだが、一週間でも間が空くとそこにはすでに新しい建物が建っているのだった。

ある日、男の家の隣が更地になっていた。取り壊し工事にはまったく気がつかなかった。毎日のように目にしていたはずなのに、どんな建物が建っていたのかも思い出せないのだ。男はいそいそとその更地を写真に撮り、仕事に出掛けた。

その日は遅くまで残業だった。夜更けに帰宅すると、隣に新しい家が建っていた。朝には更地だったその場所にだ。

男は奇妙な思いにとらわれながら家に戻ろうとした。男の家があったところは更地になっていた。

40 遊園地(1111字)

男が一人で遊園地に来たときのことだった。

子供たちに風船を配っていた園のマスコットの着ぐるみが、男に気づいて手招きをした。自分にもくれるのかと思って近づくと、男は待ってましたとばかりに殴り倒された。びっくりして起き上がると、着ぐるみは向こうの方で風船をねだる子供たちに囲まれていた。

男がベンチでポップコーンを食べながら次にどのアトラクションに乗ろうか考えていると、ふいに影が差した。先ほどの着ぐるみが、隣に立ってこちらを覗き込んでいた。何か用かと訊こうとすると、着ぐるみはポップコーンの容器を持つ男の手を下からぐいと押し上げた。男はポップコーンを顔面に浴びてベンチもろとも後ろ向きに倒れた。あわてて起き上がると、着ぐるみは向こうの方で風船をねだる子供たちに囲まれていた。

ジェットコースターに乗ったときのことだった。コースターがじわじわと急な坂をのぼり、男が安全バーにしがみついていると、眼下にあの着ぐるみがいるのが目についた。着ぐるみは何かきらりと光るものを男にかざして見せた。安全バーを固定するネジだった。男はまさかと思って安全バーをがたがた揺らしてみた。それは簡単に外れてしまった。

何度もきりもみ回転するジェットコースターだった。男は振り落とされないように必死でシートにしがみついた。泣きながら止めてくれと叫んでいると、眼下に着ぐるみが若い女の子たちと一緒に写真を撮っている姿が目に入った。

気を取り直してゴーカートに乗った。園の外周沿いに走る全長一キロほどのコースだった。快調に飛ばしていると、後ろから煽ってくる車がいた。例の着ぐるみだった。逃げようとしたがダメだった。着ぐるみは男を煽っては後ろからわざと追突してきた。

ふいに着ぐるみが車をぴたりと横につけてきた。横目に見ると、着ぐるみはまるで謝罪の印だとでも言うようにソフトクリームを差し出し、首をかしげて男を見ていた。その姿には園も請け合いの愛嬌があった。

男は受け取ろうとして手を伸ばした。すると、着ぐるみはそれをさっとかわし、身を乗り出してソフトクリームを男の顔に押しつけてきた。目がつぶれて前が見えなくなった。男はカーブを曲がり損ね、壁に激突した。

夕方、そろそろ帰ろうとするとゲートのところにあの着ぐるみがいた。着ぐるみは帰っていく子供たち一人ひとりとハイタッチをしていた。みんな笑顔だった。男の番がきた。着ぐるみは同じようにハイタッチを求めてきた。男が応えようと手を上げると、着ぐるみはがら空きになった男の腹にえぐるようなアッパーを放った。

うずくまった男が起き上がると、すでにゲートは閉まっていた。着ぐるみも子供たちも園のスタッフも、もう誰もいなくなっていた。

41 バンド(985字)

ふと手に取った音楽雑誌でバンドメンバー募集の広告を見つけた。楽器経験のない素人でも歓迎で、どんな音楽をやるかは集まったメンバー次第だとあった。

男はこれこそ自分が探していたバンドだと直感し、さっそく連絡した。すぐに採用が決まった。

集まったメンバーは五人だった。最初のミーティングでそれぞれの担当楽器を決めた。目立つポジションがよかった男は、ギターならコードをいくつか押さえられると主張した。すると、タンバリンをあてがわれた。革を張ったタイプのタンバリンだった。他はギターが二人、ベースが一人、パーカッションが一人だった。

バンド結成を呼びかけた、ベース担当のリーダーが男に言った。

「このタンバリンをギターのように鳴らしてくれ。きみのポジションはいわばサードギターだ。きみはこのバンドを影で支える重要なメンバーだ」

影で支えるという部分が気に入った。

男は個人練習にのめり込み、タンバリンを使って生まれて初めて曲を書いた。タンバリンだけでどうやって曲が書けたのか、本人にも分からなかった。

男は興奮が冷めやらぬうちにみんなに曲を聴かせた。メンバーたちは最後まで聴いたあと、揃って沈黙した。男は感動で口も聞けないのだと思った。ヒットを確信し、この曲でデモテープを作ろうと誘いかけた。メンバーたちはぱらぱらと相づちを打った。

バンドの活動場所は市民球場の無料で入れる外野席だった。あるとき、痛烈なライナー性の打球が外野席に飛び込んできた。男はとっさにタンバリンで跳ね返そうとした。うまくいかなかった。ボールは革を突き破って顔面に直撃した。男は気を失い、メンバーたちはホームランを打った選手に喝采を浴びせた。

「運び込まれたとき、これも一緒に」

看護師が男の枕元に革の破れたタンバリンをそっと置いた。胴回りの小さなシンバルがちゃっと音を立てた。

「バンドやってるんです」男は沈んだ声で言った。

「すごい。じゃあタンバリンを――」

「ギターです」

「え?」

「サードギター」

看護師は意味が分からないと言いたげな表情を浮かべたが、それ以上何も言わなかった。

青春は終わった。男は壊れた楽器を見てそのことを悟った。それを証明するように、メンバーに連絡してももう電話は通じなかった。四人ともだ。

男は枕に伏せてむせび泣いた。自棄になって壊れたタンバリンを投げつけると、それは壁で跳ね返り、男の顎に当たって床に落ちた。

41 野次馬(588字)

男は火事を見物することが何よりも好きだった。燃え盛る炎を見ると、体中からアドレナリンが吹き出して異常に興奮するのだ。より広い面積を焼く、被害の大きい火事ほど興奮は高まった。

消防車のサイレンを耳にすると、男はいてもたってもいられなくなり仕事を放り出して現場に駆けつけた。

いつも最前列で鎮火まで見物するので、男の髪の毛は常にちりちりだった。近くで食い入るように炎を見つめるため、目も焼けて視力も落ちる一方だった。ついにはほとんどものが見えなくなってしまった。

それでも男は火事場見物をやめられなかった。肌で炎を感じようとしてますます火に近づくようになったのだ。

あるとき、男は川向こうで起きた二階建て木造住宅の火事の現場に駆けつけた。規制線の最前列で火の粉と灰を浴びてうっとりしていると、燃え盛る建物から火だるまになった犠牲者が飛び出してきた。

犠牲者が助けを求めて突っ込んでくると、野次馬たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。目の見えない男は一人逃げ遅れた。男は犠牲者に抱きつかれ、もろとも火だるまになった。

男は自分でもわけが分からないまま叫び声を上げたが、それは苦痛と歓喜の入り交じったものだった。気がつくと、男は二度と離すものかと言わんばかりに相手をきつく抱き返していた。

二人の頭上に炎が渦巻いた。男は途切れることなく苦痛と歓喜の入り交じった声を上げ続け、立ったまま焼かれた。

43 空き地の出来事(1177字)

裏通り沿いにある空き地に、半ば草むらに埋もれるようにして木箱が打ち捨てられていた。ビールケースくらいの大きさのみすぼらしい箱だった。粗大ゴミまがいのものだったが、不思議と目を引くものがあった。

空き地は人目につきにくい場所で、木箱はしばらくそのまま放置されていた。男は前を通りかかるたびに気にして目をやった。木箱がまだあることを確かめるために、わざわざその道を通ることもあった。

あの箱には何か秘密があるのではないか。そんな気がして仕方なかったが、近寄って中身を確かめるのは憚られた。男には木箱が自分を呼んでいるようにも感じられた。

数日後、大雨が降った。男はこのときを待っていたかのように、レインコートに身を包んで例の空き地へ向かった。この雨なら誰に邪魔されることもないだろう。男は周囲に人通りがないことを確認すると、おもむろに草むらに足を踏み入れた。

木箱は変わらずその場にあった。植物が成長したせいで、以前にも増して草に埋もれているように見えた。上部に蝶番のついた蓋があり、鍵はついていなかった。雨に濡れているせいか遠目に見るより重々しい印象で、どこかゲームに出てくる宝箱を思わせるところがあった。

男はごくりと唾を飲み込むと、恐るおそる腕を伸ばして蓋に指をかけた。

そのとき、中で何かが動く気配がした。

男はびくっとして思わず手を引っ込めた。

中は空ではなかったのだ。何となくそんな予感はしていた。だが、一体何が入っているというのか。何か生き物が閉じ込められているのか。それとも――。

再び木箱に手を伸ばすと、指先がわずかに震えた。ここまで来てやめるわけにはいかなかった。男はごくりと唾を飲み込むと、一思いに蓋を開けた。

中から猛烈な勢いで何かが飛び出し、男に襲いかかった。男は声にならない悲鳴をあげて後ろ向きに倒れ、尻餅をついた。あわてふためいた男は、そのまま這いつくばるようにして濡れた草むらの上を逃げた。驚きのあまり腰が抜けてしまっていた。

追撃はなかった。男は木箱から数メートル離れたところまで来ると、正体を確かめるために恐るおそる後ろを振り返った。途端に謎が解けた。

それぞれ別の方向を向いているぎょろりとした大きな目玉、べろんと垂れ下がった長い舌、つんと突き立つ数本の硬い毛、手を模した棒と軍手――。

手製のお化けの縫いぐるみを取りつけた、バネ仕掛けの飛び出すおもちゃだった。今まで見た中でも一番大掛かりなやつだ。

男は腹の底から抜けていくような安堵を感じた。それとともにパンツの中に生温い不快感が広がった。ちびってしまったのだ。

立ち上がることもできないまま呆然とお化けの縫いぐるみを見つめていると、次第に己の失態が客観的に理解されてきた。男の顔が雨の中でもはっきり分かるほど赤く染まった。男はレインコートについたフードで顔を隠すようにして空き地から走り去った。

44 電信柱(1048字)

男はかねてから興味のあった市民劇団に入った。

初めての舞台で与えられたのは電信柱の役だった。顔の部分を丸くくり貫いた筒状の衣装に身を包み、上演中じっと身動きしないでいるのだ。台詞はなかった。

初心者ながらも精一杯やると、みんなから褒められた。きみのように電信柱の役をうまくこなせるやつなんて他にいない。今まで見た中で最高の電信柱だ。

散々おだてられたあと、気がついてみると男は衣装を着たまま道端に立たされていた。

「さあ、これを持って」

演出家はそう言って男に架線を握らせた。

「それを高く掲げて。そう。そのまま動かない。きみは電信柱なんだから。これは最高の栄誉だぞ。何しろ演技でやっていたものが本物の仲間入りをするんだから」

男は電信柱として道に設置された。

一時間もしないうちに架線を掲げ持つ腕がぷるぷる震え出した。男は役をまっとうしなければという責任感から何とか持ちこたえた。

前と後ろには本物の電信柱が立っていた。少しでも気を緩めれば架線が地面についてしまう。そうなれば電信柱の名折れだ。そんな失態を演じるわけにはいかなかった。

役になりきるのだ。男は自分にそう言い聞かせた。腹が減っても尿意を催しても、電信柱がそんなものを感じるはずがないと一蹴した。

だが、どんなに気張ってみても時間とともに意識が朦朧としてきた。やがて幻覚や幻聴にも襲われはじめた。それでも自分の役を演じ切るのだと心は折れなかった。

立ったまま何度か失神しながら、なおも踏ん張っていると、あるときふいに一線を越えた。意識が完全に電信柱に同化したのだ。

男は今や電信柱だった。もう何も辛くなかった。意識しなくても体が自然に電信柱になるようになったのだ。

雨の日も風の日も、男は微動だにせずにただそこに立って架線を掲げ持った。

通りすがりの誰も、それが電信柱ではなく人だということに気がつかなかった。犬猫や鳥や虫たちさえ、それが本物の電信柱であるかのように振る舞った。

ときどき演出家が道を通りかかった。演出家はいつもガムをくちゃくちゃ噛みながら、男に目もくれずに通り過ぎていった。

男にその場所にいるよう命じた者の目にさえ、もはやただの電信柱としか映らなくなっていたのだ。男は役者の道こそ己の天職だと悟った。

ちょうどその頃、区議会で男が立っている道沿いの電信柱を地中化する計画が承認された。

計画は直ちに実行に移された。

何台もの工事車両がやってきた。作業員たちの誰一人としてそれが本物の電信柱ではないということに気がつかないまま、男は地中深くに埋められた。

45 日射し(436字)

強い日射しを浴びているうちに体が溶け出してしまい、気がついたときには男はスライム状の生命体になっていた。たいして不都合はなかった。男は、骨も関節もないこの体なら、どんな狭い隙間でも通り抜けられそうだとぼんやり思った。

真っ先にひらめいたのは女子更衣室に侵入することだった。思考も単純化され、いったん思いつくと頭の中はそのことだけになった。

男はドアについた足元の通気孔から更衣室に侵入した。あっけないほど簡単にいった。おっぱいを求めて辺りを見回すと、ちょうど今下着をはずしたところらしい女の子が一人でいた。もってこいの肉付きだった。

男は伸びあがるようにして女体に飛びかかった。床に押し倒すと、相手は手足をばたつかせて抵抗した。それも最初のうちだけだった。女の子は男のひんやりした肌の感触を気に入ったらしく、むしろ積極的に行為に参加してきた。

男は男でいつも以上に密着度の高い感触に感動を覚えていた。二人はぴたりとくっつき合ったまま床の上で愛し合った。

それは素晴らしい時間だった。

46 分裂病(286字)

ビルの屋上から飛び降りて地面に激突すると、男は千体に分裂した。あわてた千体の男たちはもう一度死のうとして同じビルから飛び降りた。地面に激突すると同時に、千体がまたそれぞれ千体に分裂した。

男の数はあっという間に百万体に膨れ上がった。その一方で、死にたいという気持ちは何一つ変わらなかった。百万体の男たちは、またしてもビルから飛び降りた。心のどこかでどうせまた死なないのだろうとたかをくくっていたが、今度は全員死んだ。

死体を片付けるのは強制収容所よりも大変だった。土の中から新たな男たちが生まれた。一体の男から一体ずつ、百万体の男たちだ。彼らは皆、生まれたそばから死にたかった。

47 500円貯金(510字)

男は昔やった500円貯金のことを唐突に思い出した。あの貯金は一体どうしたんだっけ。使った記憶はなかったが、どこにやったのかいくら考えても思い出せなかった。

男は部屋をひっくり返して貯金箱を探した。側面に「10万円貯まる!」と大書きされた缶型の貯金箱だった。半分以上貯まっていたことは間違いない。とすれば、五万円は下らないということだ。

男は押し入れの奥を漁りながら、最後に見たのはいつだったかを必死に思い出そうとした。八年前に引っ越しをしたときか。あるいは五年前に家電を買い換えて部屋のレイアウトを一新したときだったか。

家中を探しても貯金箱は出てこなかった。過去に付き合った女たちの誰かがこっそり持ち出したのではないかと疑い、男は一人ずつ電話をかけていった。全部で二人だった。どちらもつながらなかった。

男は難しい顔になって座り込み、もう一度記憶をたどり直した。すると、ある日の出来事に行き当たった。ほんの戯れに、頭に貯金箱を乗せたままいつまで落とさないでいられるか試してみようと思ったのだ。することがなくてあまりにも暇なときに思いついた遊びだった。

もしやと思い、男はそっと自分の頭の上に手をやってみた。貯金箱はそこにあった。

48 監視(760字)

男の仕事はある人物を監視することだった。もう何年もその仕事に従事していた。誰のためにやっているのかも、何のためにやっているのかもよく分からなかったが、好きな仕事であることに間違いはなかった。

対象は通り向かいに住んでいる人物だった。そのため、家にいながらにして仕事ができた。男は自室の窓際から片時も離れることなく、通り向かいの家を眺めて毎日を過ごした。

朝から夜まで休みなく監視を続けると、一日の終わりには几帳面な字で日報を書いた。この仕事のもっとも好きな部分だった。報告すべきことがないときでも、同じ文面にならないように工夫を凝らした。報告するに足るような出来事はなかなか起きなかった。

ある年、男は病に倒れた。薬の副作用で常時痺れるような痛みと吐き気に襲われるようになったが、それでもベッドを窓際に持っていって仕事を続けた。病状は重かった。やがて末端が壊疽しはじめ、両手足を切断しなければならなくなった。男は不屈の闘志でこれを乗り越えると、すぐに仕事を再開した。日報はペンを口でくわえて書いた。

その後も病気は無慈悲に進行した。視力が次第に衰えていき、ついには何も見えなくなってしまった。男は、それでもなお研ぎ澄まされた勘を頼りに監視を続けた。

ある日、男の部屋に死神が訪れた。男はもう一日待ってくれ、もう一日待ってくれと言って、最期のときを限界まで引き延ばした。死神は一日につき歯を一本もらい受けることを条件に手を打った。その間も、通りの向かいの部屋では報告するに足るような出来事は何一つ起きなかった。

男はついに息を引き取った。日報を書こうとしてペン立ての上に倒れ込み、ペンが顔中に突き刺さったのが直接の死因だった。

男は、死んだあとも地獄の底から通りの向かいの部屋を監視し続けた。その部屋はとっくの昔に空き部屋になっていた。

49 名所(468字)

男は週末のたびに海岸沿いにある大きなレストランにやってきた。

そのレストランの駐車場からは、少し離れたところに海に突き出るようにしてできた切り立った崖が見えた。自殺の名所として知られる崖だった。

男はレストランで食事をするわけではなかった。崖の方に向けて車を停めたまま、ただ車内で音楽を聴いてじっとしているのだ。そうして崖の上に人影が現れるのを待つのである。

何時間も無為に過ごしたあと、ようやく人影が現れると、男はわずかに身を乗りだして成り行きを見守った。

たいていの場合、志願者はすぐに決心するということはなかった。男は遠く離れた車の中から、片目をつぶって人影に焦点を合わせ、人差し指で背中を押す真似をして遊んだ。

何回かに一度、本当に人が身投げする場面に出くわすことがあった。

そうすると、男は車から降りて海面が見える柵のところまで行き、落ちた人が二度と波間に浮かび上がらないことを確かめるのだった。

しばらくすると、男は再び車に戻り、また音楽を聴きながら次の志願者が現れるのを気長に待った。

帰り道のハンドルを握る男の顔は、いつもにやけていた。

50 息子(1468字)

ある日、男の前に息子を名乗る人物が現れた。思い当たる節はあった。男は、かつて一度、ある女と情を通じたことがあったのだ。

暑い夏の日の出来事だった。

男がデパートで買い物をしていると、通路の奥の方から何かうめき声のようなものが聞こえてきた。ひょいと覗くと、トイレの手前のところに髪の長い女が苦しそうにうずくまっていた。大丈夫ですかと声をかけた途端、その女は豹変し、男の手を掴んで女子トイレに引きずり込んだ。

そのあとの出来事はまるで嵐のようだった。女とはそれきりで名前も知らないままだった。あのときに子供を授かっていただなんて、男は知りもしなかった。

息子に一緒に住みたいと言われると、男は断ることができなかった。

奇妙な共同生活がはじまった。

生活時間の違いから、二人が顔を合わせることはめったになかった。そうでなくても息子は部屋にこもりがちで、学校に通っているのか働いているのかも不明だった。

男の家で奇怪なことが起こるようになったのは、それからまもなくのことだった。

天井裏から何か大きな生き物が這い回るような音が聞こえてきたり、郵便物がびりびりに千切られて庭に散乱していたり、風呂場に蛇の死骸がぶら下げられていたりするようになったのだ。

男は何か心当たりがあるのではないかと思い、息子がトイレに入った隙を捉えてドアの前で待ち構えた。待てど暮らせど、息子は出てこなかった。諦めかけたそのとき、突然、トイレとは逆方向にある居間の押し入れが開き、そこから息子が何食わぬ顔で出てきたのだ。男は言葉を失って部屋に戻っていく息子の背中を見送った。

数日後のある晩、男は息子と台所で鉢合わせた。息子は練乳のチューブに直接口をつけてちゅうちゅう吸っていた。自分に似たかとも思えるようなその悪癖に、男は胸を締めつけられるような思いがした。その一方で、改めて顔をよく見ると、息子は自分とたいして変わらない年齢のようにも見えるのだった。

男は、ふと気になって母親が今どうしているのか訊ねてみた。息子は風俗に売り飛ばしたきりあの女とは会っていないと答えた。もう日本にはいないだろうということだった。息子は母親を売った金で上等の鰻を食べたと言って笑った。

また別の晩、男は風呂上がりの息子の背中に大きな傷跡があるのに気がついた。それはどうしたのかと訊くと、息子は暗い目になって戦争で受けた傷だと言った。どの戦争か見当がつかずに重ねて訊くと、息子はむっつり黙り込んでそれきり口をきかなくなった。

日ごとに男の家から物が一つ、また一つと消えていった。どうやら息子が持ち出して質に入れるかどうかしているらしかった。男が問いただすと、息子は突如地の底から響くような声で笑い出し、やがてむせ返って息をつまらせた。少し休んで呼吸を落ち着けた息子は、「貴様おれを殺す気か」と言って男を責めた。

男が出張で数日家を空けたあと戻ってくると、家は見ず知らずの大勢の若者たちによって占拠されていた。男は、若者たちの間を分けいるようにして探し、ようやく空の浴槽にうずくまって何事かぶつぶつ呟く息子を見つけ出した。彼らに出ていくように言ってくれと頼むと、息子はこの家は神に捧げられたのだと言って浴室にゲロをぶちまけた。

男はそのまま旅に出て、二度と家に戻らなかった。

旅の途中で、あの女と出会った例のデパートにふらりと立ち寄った。思い出をたどろうとして女子トイレに足を踏み入れると、あっという間に警備員に取り押さえられた。床に組み敷かれながら、男は悔恨の涙を流した。警備員は気持ち悪がって男を滅茶苦茶に殴りつけた。

51 ウラLGBT(1941字)

 男は最近よく耳にするLGBTというものを理解しようと思い、手作りした男性性器の模型をおでこにくっつけて外出した。
「それはLGBTとは違うぞ」
 駅前で待ち合わせた友人Yにさっそく指摘された。
「違うか」
「それはただの猥褻物陳列罪だ。デカイほくろだなんて言っても通じないぞ」
 Yは男のおでこについた男性性器を指で弾き、半笑いで言った。
「自分のがモデルかよ?」
 男は外人のモノをイメージして作ったのだと説明した。棒の部分は魚肉ソーセージ六本をゴム風船に詰めこみ、玉の部分は家のおもちゃ箱に眠っていたお手玉を活用した。自分でも思いのほかリアルにできた。
「こんなデカイわけないと思ったぜ」
 Yは軽く鼻を鳴らして指先でモノを弄んだ。
 男の目の前でそれがぶらんぶらん揺れた。かなりの大きさというか長さがあるため、視界が遮られるのが難だった。道路を渡るときなど、長い前髪をよけるようにそれをよけなければならないのだ。いずれにしろ、Yによればこの模型のせいでどんな苦労をしようがLGBTとは何の関係もないという。
「じゃあこっちもダメか?」
 男は恐る恐る自分の口許を指差した。
 それは口ではなかった。女性性器の模型だった。半ば開きかけたヴァギナだ。
「うお、なんだそりゃ!」
「こっちも作った」
「くそ。なんでそんなことをした」Yは怒ったみたいに言った。
「だからLGBTを――」理解しようとして。だが、男はそれを縦にくっつける勇気がなく、横向きにしたのだ。
「よくできてやがる」Yはぐっと顔を近づけてそれをまじまじと見つめた。
「従兄弟が3Dプリンター持ってるから」
 男性性器は男が自分で工作したものだったが、女性性器はちょうどうまい具合にネットにデータが落ちていたため3Dプリンターで作ることができたのだ。
「ちょっと触らせろ」
 Yは、男が許可しないうちにべたべた触ってきた。男性性器のときよりもずっと遠慮がなく、場所によってタッチも異なるようだった。
「これもダメか?」男はたじろぎながら言った。
「もちろんダメだ。お前は何か大きな勘違いをしているぞ」
 男はこれではLGBTのことを理解できないのだとがっかりした。そればかりか、Yによれば見る人に不快感を与えるだけだという。
「これって届くのか?」
 Yは男性性器と女性性器を交互につついて言った。男にも言っている意味が分かった。
「どうかな。そこまで考えてなかったから」
「ちょっと貸せよ」
 Yはやおらおでこの男性性器を掴んだかと思うと、下に引っ張って女性性器に突っ込もうとした。二つが離れていたため、かろうじて先端が触れ合うのが限度だった。
「くそ。なんだよこれ」Yは焦ったように言った。
 男はYの手を払いのけるべきか、それとも手伝うべきか迷っているかのように両手を宙に漂わせながら、されるままに突っ立っていた。
「一回はずすぞ」
 Yは言うや否や男性性器を無理やり引っこ抜き、それを男の鼻につけかえた。予想外にぴたりとはまり、見た目にもよりマッチした。まるで象の神様だ。
「ちょっと顎を上に向けろ」
 男は角度を合わせるように協力を強いられた。すると、棒の先端が女性性器の穴の部分にめり込むようにして入った。
「うほっ」
 Yはおかしな笑い声をたてて喜び、楽しげに男性性器を女性性器に出し入れした。
 男は、そのたびに自分の本当の唇に棒の先端がびたびた押しつけられるのを感じて不快感に顔を歪めた。
「こ、これでLGBTが理解できるか?」
 男は口をもごもごさせながら訊いた。
「もうほとんどLGBTみたいなもんだろ」
 Yは言ったが、執拗に手を動かすその目つきはどこか狂気じみていた。
 男はというと、我が身に起きていることが次第に他人事のように感じられはじめていた。
「くそ。変な気分になってきやがった」
 Yが口をへの字に曲げて言った。
「だ、大丈夫か?」
「うるせえ、こっちへ来い!」
 Yは首根っこを掴むようにして男を駐輪場裏の物陰に引っ張り込んだ。
 人目につかない場所だった。男は壁に両手をつかされると、顔についた両方の性器に後ろから手を回され、荒々しくしごかれ、かき回された。抵抗しようにも手足の自由が利かなかった。
 やがて、股の間に何か硬い棒のようなものを挟み込まれたと気づいたときにはもう遅かった。Yにやめるように言うと、男は顔面を壁に叩きつけられた。
「くそっ! くそっ!」
 Yは、悪態をつきながら乱暴に腰を動かし、一分ももたずに果てた。男は鼻血を垂れ流しながら、どうにもできずに耳元にYの荒い息づかいを感じていた。
「お前が悪いんだからな。鼻からちんこなんかぶら下げやがって」
 Yはあわただしくズボンをあげると、吐き捨てるように言って去っていった。
 一人駐輪場の裏に打ち捨てられた男は、少しだけLGBTのことが理解できたような気がするのだった。

52 ユニコーン(338字)

ある夜のことだった。

男は、パプアニューギニアから男性が股間に装着する角型ケースを輸入して、ポニーにつけてユニコーンと偽って売ると大儲けできるという、お告げのような夢を見た。

さっそく実行に移した。

自分でもびっくりするほど売れず、男は大量の角型ケースとポニーを抱えて破産した。

その頃、パプアニューギニアのある部族の間では、角型ケースと引き換えに送られてきたユニクロのボクサーパンツが一大ブームを巻き起こしていた。男たちはパンツ一丁でこれ見よがしに熱帯雨林を闊歩し、互いにパンツを自慢し合った。

日本では、すべてを失った男が再起をかけて角型ケースを本来の目的通りに使うものとして改めて売り出した。

自らも普段から股間につけて生活するなど商品PRに励んだが、びっくりするほど売れなかった。

53 愛について(1223字)

男は愛を失った。どうやら電車に置き忘れてきてしまったらしい。たいして惜しくもないと思い、そのまま放っておくことにした。

翌日、職場でいきなり後ろから殴りかかられた。衝撃はなかった。相手の拳は男の背中をすり抜け、胸へと突き出た。N田だった。

「心にぽっかり穴が空いてるぜ」

N田は他の同僚たちにも聞こえるようにわざと大きな声で言った。

本当だった。胸のところに拳より一回り大きいくらいの穴がぽっかり空いていたのだ。言われるまで自分でも気がつかなかった。

同僚たちが「愛をなくしたのかよ」と囃し立てた。その場にいた全員が男が愛をなくしたことを知ってしまったのだった。恥ずかしくなった男は、手で穴を隠すようにして会社を飛び出した。

胸の穴にタオルを丸めて詰め込むと、急いで駅に向かった。

遺失物取扱所に愛は届いていなかった。

「バカだな。あれはいったんなくなったら二度と見つかりゃしませんよ」

駅員はにべもなく言った。

すぐに手を打つべきだったのだ。男はかえすがえすも悔やんだが、なくしたときにはこんなことになるなんて思いもしなかった。男は、もはや愛がどういう姿形をしているのかさえ覚えてなかった。探そうとしても何の手懸かりもなかった。

身も心もぼろぼろになって海にたどり着くと、浜辺に瓶詰めの手紙が打ち上げられていた。中の紙切れを広げてみると、愛の筆跡で次のように書かれていた。

愛とは決して後悔しないこと。

男は手紙を破り捨てた。

数ヵ月後、男はドヤ街で身を持ち崩していたところを流しのテキヤに拾われた。世話をしてもらう代わりに、仕事を手伝わされることになった。案山子のように磔にされ、客が投げたボールが男の胸に空いた穴を通ると景品が当たるというゲームだった。ひとゲーム、三投で三百円。

ボールが穴を通るたび、男はおぉーんと悲しみを帯びた声で哭いた。そのゲームはどこの祭りに行っても人気が出なかった。男はもうどうなろうとかまわなかった。

テキヤとともに地方の夏祭りを渡り歩いていたときのことだった。男はどこか見覚えのある女がボールを手に自分に狙いをつけていることに気がついた。愛だった。すっかりいい女に成長していた。声をかけようとするとボールが飛んできて口に挟まった。

「ははっ、ヘタくそ」

愛の隣に見ず知らずの男がいた。褐色の肌をしたやたら背の高い外人だった。南米系らしい。二人は恋人同士のようにいちゃいちゃ寄り添った。なんとかしてボールを吐き出した男は、テキヤに横面をひっぱたかれた。

「案山子が動くんじゃねぇ」

愛は続けざまにボールを投げた。一つは男の目に当たり、もう一つは股間を直撃した。愛と南米系の男は残念賞の飴を受け取ると、楽しそうに笑いながら去っていった。男は目に涙をにじませ、力のない声で呼び止めようとした。すると、またテキヤに殴られた。

「ちっ、ボケ雑魚どもが」

テキヤが二人の後ろ姿に嫉妬をみなぎらせて言った。

次の客が投げたボールが穴を通り、男はおぉーんと悲しげに哭いた。

54 ひとり暮らし(745字)

男は昔住んでいたアパートを見に行こうとして道に迷った。

五年も住んだ街だからよく知っているはずだったが、昔とはどこか違っていた。いずれ知っている場所へ出るだろうとかまわず歩き続けたが、見覚えのある風景や建物には一向に出くわさなかった。

ふいに角から老人が現れた。老人は憎しみに歪んだ顔でこちらを睨みつけてきた。

「ようやく家賃を払う気になりやがったか」

それは男が昔住んでいたアパートの大家だった。

男は延滞していた家賃半年分を踏み倒して引っ越したのだ。その額は四十万円以上にものぼった。

男はとっさに逃げ出した。段差につまずいて、蓋の空いていたマンホールに転げ落ちた。

大家は地下水道まで追ってきた。方向も分からずに逃げ回っていると、ふいに足首のところに鋭い痛みを感じた。ネズミがかじりついていた。あわてて蹴り払うと、どこかで見たことがあるネズミだと気がついた。

「伝染病をうつしてやったぜ」ネズミが喋った。

それは男が昔住んでいた部屋によく出没していたネズミだった。食材を買い置きしておくと、片っ端からかじられてしまったものだった。

「悪い悪い伝染病だ。もがき苦しんで死ぬがいい」

男は恐怖に駆られて叫び声をあげた――。

と同時にはっと目が覚めた。そこは男が昔住んでいたアパートの一室だった。いや、昔というのは夢の中でそう感じていただけのことで、本当はその部屋から引っ越してなどいなかったのだ。

部屋のドアが乱暴に叩かれ、外で誰かがわめきはじめた。大家が家賃の催促に来たのだ。男はしばらく前に失業し、家賃を滞納していた。

テーブルの上で何かが動いた。見ると、弁当の食べ残しにネズミが顔を突っ込んでいた。ネズミは一瞬顔をあげたかと思うと、男を無視してすぐまた食事に戻った。

今日もまた素敵な一日がはじまろうとしていた。

55 ある結婚(193字)

その女と結婚したとき、男は彼女のことをほとんど何も知らなかった。女もまたあえて自分のことを話そうとはしなかった。二人には隠すような秘密もなかったが、互いに相手に踏み込まないことに決めるともなく決まった。彼らは常によそよそしく、触れ合うことを嫌った。同じ部屋にいても目を合わすことさえなかった。その結婚は、相手がそれなりに満足しているということを互いに知りえぬまま、片方が死ぬまで続いた。

56 戦争一(344字)

自国が戦争に巻き込まれると、男は真っ先に兵隊に志願した。与えられた武器は缶切りが一つだけだった。

いざ戦場に出てみると、自軍の兵士も敵軍の兵士もスマホから片時も目を離すことがなく、戦闘はなかなか盛り上がらなかった。男は缶切りを右手から左手へ、左手から右手へと忙しなく持ち変えながら、敵がミンチになるまで滅多打ちにするという野蛮な夢想に浸って時間をやりすごした。

戦争が終わると、男は精神病院に送られた。窓に鉄格子のついた狭い病室で、男はゴムでできた缶切りを渡された。

医者が来ると、男は「出撃命令はまだか?」と言っては戦況を知りたがった。医者は男に合わせて戦争が続いているふりをしてやった。男は「もっといい武器をくれ。このままじゃやられちまう」と懇願したが、その願いが叶えられることはなかった。

57 海(121字)

道で出くわした女に、海はどの方角かと尋ねた。女は面倒そうな顔をしてずっと北だと答えた。男はちらりと北の方を見ると、女に軽くうなずきかけ、それからくるりと向きを変えて南に向かって歩いていった。面白いことに、南にまもなく行ったところに海はあった。

58 生きる喜び(464字)

男は、突然尻を丸出しにして人を驚かせることを無情の喜びとしていた。立ち話をしているときなどにいきなり後ろを向き、ズボンとパンツをいっぺんに下ろして尻を突き出すのだ。人々が面食らったり悲鳴をあげたりすると、男は何とも嬉しそうにひゃっひゃっと笑うのだった。

ある日、男は街で偶然同級生と再会した。道端で思い出話をしていると、また例の衝動が込み上げてきた。男は同級生に突然尻を突き出して見せた。相手は一歩後ずさったかと思うと、ふいに男の尻に顔を寄せてきた。そして、尻の真ん中にあるほくろから毛が生えていることを指摘した。

手を回して確かめてみると、ひょろひょろと伸びた長い毛だった。男は自分の尻にほくろがあることさえ知らなかった。それ以来、男は人に尻を見せて回るのをやめた。働きもせずにふらふらする生活に区切りをつけ、堅い仕事についた。

今、同じ職場にいる人間で、男のかつての嗜好を知るものは一人もいなかった。ときどき、男はトイレの個室に入ったときなどに、懐かしい気持ちになってあの毛はまだあるだろうかと尻に手を回して確かめてみるのだった。

59 不吉な子(248字)

男が歩いていると、あとから子供がついてきた。六、七歳くらいのおとなしそうな男の子だ。振り返ると立ち止まってじっと見返してくるが、声をかけても返事もしない。どこか気味が悪かった。

男は置き去りにしようと足を早めたが、引き離すことはできなかった。怖くなった男は、曲がり角で待ち伏せてその子を突き飛ばした。子供は転んだはずみに植え込みの角に頭をぶつけて死んだ。男はその場で逮捕された。

裁判がはじまっても、子供の保護者は一度も姿を現さなかった。子供の名前さえ明らかにされなかった。男は終身刑を言い渡された。

60 穴(488字)

壁に小さな穴が空いていた。脇に「絶対に指を入れないでください」と注意書きがあった。男はいかにも面白いものを見つけたというように、にやにやしながら人差し指を突っ込んだ。ほんの冗談のつもりだった。

指は穴にぴたりとはまった。奥へ吸い込まれるのを感じた次の瞬間、男は宇宙空間に浮かんでいた。

穴は宇宙に通じていたのだ。呆気にとられて辺りを見回すと、そこにはたくさんの地球ゴミが漂っていた。みんなあの穴から捨てられたものらしい。

少し離れたところに、薄汚れたうさぎのぬいぐるみが浮かんでいた。男が子供の頃からいつも肌身離さず持っていたうさこちゃんだ。三年前、母親が勝手に捨ててしまったものだった。男は決して許すことができず、母親をブラジル旅行に連れ出し、ピラニアだらけの川に突き落としたのだった。

宇宙空間を掻くようにして泳いでいくと、男はぬいぐるみをしっかりと掴んだ。もう二度と会えないものと諦めていた。

「うさこちゃん」

名前を呼んで抱き寄せると、男は泣きながら頬をすり寄せた。

うさこちゃんの他に男の心に安らぎを与えられるものなど何一つなかった。このまま二度と帰れないとしてもかまわなかった。

61 注射(317字)

男は流行りの伝染病にかかり注射を打つことになった。抵抗したが、医者は打たなければ命の保証はないと言った。

看護師に三人がかりで押さえつけられると、男は絶対に打つな、やめてくれと泣いて頼んだ。医者は「ちょっとちくっとするだけだからね」と子供を宥めるように言って腕を取った。男は最後の最後まで抵抗をやめなかった。

針が刺さった瞬間、男は、ぱぁぁぁん!と凄まじい音を立てて風船のように破裂した。リノリウムの床にちぢれた皮のようなものが落ちた。男の残骸だった。

気まずい沈黙のあと、医者は何事もなかったかのように「次の人呼んで」と言った。看護師の一人が診察室を出ていった。一人は床のものを医療用トングで掴んでゴミ箱に捨てた。もう一人は床を消毒した。

62 二週間の歌(449字)

月曜日、男は生まれた。
火曜日、男の腰のところにイボができた。
水曜日、そのイボから男がもう一人生まれた。切り離せない双子だった。
木曜日、イボから生まれた方の男が男を殴った。
金曜日、男はイボから生まれた方の男を殴り返した。二人とも死んだ。
土曜日、二人は地面に掘られた一人分の穴に、ぎゅう詰めにされて葬られた。
日曜日、男の遺産から二人分の葬式代がさしひかれた。

次の週の月曜日、二人が埋められたところに一輪の花が咲いた。人を捕まえて食べる人食い花で、強烈な悪臭を放っていた。
火曜日、人食い花は通報を受けた役所の手によって焼き払われた。
水曜日、花の灰がロケットに積まれ、宇宙に捨てられた。
木曜日、宇宙を漂う灰の中から再び男が生まれた。
金曜日、男の腰のところから、男がもう一人生まれた。今度は切り離されており、仲も悪くなかった。
土曜日、それぞれの男の腰のところにイボができ、そこからさらに男が一人ずつ生まれた。
日曜日、男たちがまた同じようにして別の男たちを生んだ。

男はそうやって増えていき、やがて宇宙に満ちた。

63 フクロウ(954字)

ある朝、男は目を覚ますと朝食に湿気たせんべいを食べた。熱い緑茶をすすり、口の中を火傷した。口蓋から垂れさがった薄皮を舌先で弄りながら身支度を整えていると、もう出かける必要はないのだということに思い至った。昨日、仕事をクビになったのだ。

男は都内のあるフクロウカフェにフクロウの珍種として勤めていたが、着ぐるみをかぶって隅でじっとしている男に客たちは近寄ろうともしなかった。表向きには他のフクロウたちと打ち解けないことが解雇の理由とされた。

男はフクロウの着ぐるみを着たまましばらく何をするでもなく立っていた。やがて、台所の流しの下の収納棚に入ってみることを思い立った。この手狭なアパートにあっては押し入れの上の段がもっとも居心地のいい場所だったが、仕事をなくしたからにはそうしたことも変えていかなくてはならなかった。

流しの下は暗くじめじめしていて、思った以上に快適だった。男は、試しに一日ここでじっとして過ごしてみようと思った。その矢先、誰か訪ねてくるものがあった。のそのそ這い出て玄関を開けてみると、新興宗教の勧誘だった。

「ちぇっ、フクロウが相手じゃしょうがねぇや」

相手は言った。男としては興味を引かれないでもなかったが、訪問者はくるりと背を向けて行ってしまった。

昼下がり、男が餌を探してベランダを行ったり来たりしていると、下の通りで何やら人々がざわつきはじめた。気にも留めなかった。男は手すりのところにカマキリを見つけると、口でくわえあげ、上を向くようにして一気に飲み込んだ。好みの味だった。その拍子に口蓋の薄皮がちぎれ、男はそれも食べた。

地元の猟友会がやってきて、ベランダの手すりの上でくつろぐ男に猟銃の狙いを定めた。男は首をかしげて銃を見返した。銃声が鳴り響いた。男は地面に落ち、周りに人々が群がった。

それがフクロウではなく人間だということに気がついたものもいたが、誰もはっきりとは口に出さなかった。誰かが「こいつ、フクロウカフェで見たことある」と言うと、一堂はやはりフクロウでよかったのだと胸を撫でおろした。

男は動物専門の火葬場で焼かれた。骨は細かく砕かれて灰になった。フクロウカフェで一緒に働いていたアルバイト店員が山へ行き、その灰を崖から撒いた。そのとき谷底から風が吹き上げ、男は初めて空を飛んだ。

64 展望台(345字)

男はのぼりのエスカレーターに乗った。丘の上の展望台へ出る、所要時間二分の長いエスカレーターだった。歩き疲れた男は、乗ると同時に目をつむり、束の間の休息をはかることにした。

頭の中でたっぷり一分も数えたあと目を開けると、男は一向に上が見えてこないことに気がついた。さらに十秒、二十秒経っても状況は変わらなかった。何かがおかしかった。

あっという間に所要時間の二分が過ぎた。降り口はまだ影も形も見えなかった。男の脳裏に「永遠に着かないエスカレーター」という言葉がよぎった。どうにかして次元の狭間に迷い込み、永遠に着かないエスカレーターに乗ってしまったのだ。このまま二度ともとの世界に戻れないのではないか――。

男はあわてて辺りを見回した。すぐ後ろに乗り口があった。それは電源が入っていないだけだった。

65 戦争二(1297字)

ある朝、男が部屋から一歩外に出ると戦争がはじまっていた。

一人の若者が駆け寄ってきて、飛び交う銃弾にかき消されないような大声で「お前はどちら側につくんだ!」と訊いた。男はわけが分からないまま「有利な方!」と答えた。

若者は「ついてこい!」と言って男を本部へ連れて行った。昨日まで地域の児童館として使われていた建物で、本部と呼ぶにはあまりにもみすぼらしかった。男は本当にこちらが有利な側なのか疑ったが、声に出して訊ける雰囲気ではなかった。

「お前の役目は敵情視察だ」

大佐と名乗る男はそう言うと、男に無線と双眼鏡を与えた。

男は本部を出るとすぐさまそれらを故買屋に売り払った。かろうじて運行していた電車に乗ってできるだけ遠くへ逃げようとした。

隣に座った老人がじっと前を見たまま「どっちにつくか決めたかね?」と訊いてきた。男はなるべく口を動かさないようにして「有利な方」とささやいた。老人は感心するようにうなずくと、思いがけない強い力で男の手を掴んだ。老人は変装した大佐だった。男は次の駅で電車から放り出されると、あっという間に敵の手に落ちた。

敵の本部は公園の公衆便所から地下に潜ったところにあった。

「我々は地底人になるぞ。地上の阿呆どもはこれで一掃だ」

総帥を名乗る盲目の男は、狂乱した様子で核爆弾のスイッチを押した。頭上で身の毛もよだつような長く恐ろしい地響きが続いた。

やがてそれが収まると、男は兵士たちに取り押さえられて額に焼き印を押された。いつも使っているスーパーのロゴにそっくりの焼き印だった。男は首輪をはめられて最下層に連れていかれ、素手で地面を掘るように言われた。

それから数年間、男は地中でもぐらのような生活を送った。虫を食べ、自らの糞尿にまみれて眠った。地中深く掘り進んで行くと、やがて開けた空間に出た。地下都市だった。そこには地底人たちがいた。

「おれたちが本物の地底人さ。この二番煎じのすっとこどっこいどもが」

地底人は泥だらけの男たちを見て大笑いして言った。

総帥はその場で自決し、男は失意のうちに地表に戻った。

戦争はとっくの昔に終わっていた。文明は滅び、残された人類が細々と暮らしていた。

狩りをしているグループと木の実を採集しているグループがあった。どちらも言葉らしい言葉を失っていた。

男が川辺で途方に暮れていると、狩りをしているグループの若者と採集をしているグループの若者がやってきた。それぞれ男に仲間に加わるように身ぶり手振りで申し出た。

男は二つのグループが互いに手を組んだらどうかと提案した。そうすれば少しは生活が向上するだろう。若者たちは途端にいきり立ち、お互いに威嚇しはじめた。やがて、その矛先は男に向かった。場を収めるためにはどちらかを選ぶより他に方法はなさそうだった。

男は急かされるようにして肩を何度もどつかれると、やけになって二人に殴りかかった。瞬く間に返り討ちにあい、体を引き裂かれた。文字通り、真っ二つだった。

男の上半身は狩りをしているグループが、下半身は採集をしているグループが、それぞれ奪い取った。頭は舌を引っこ抜かれてその場に打ち捨てられた。地底人たちは正しかった。

66 ゴミ収集マニュアル(1107字)

男は家の中でうるさく駆け回る子供たちを捕まえて殴りつけると、両手両足を縛りつけて口をガムテープでふさぎ、一人ずつごみ袋に入れた。自治体指定の容量45リットルのごみ袋だった。

翌朝、男は子供たちをごみに出した。ちょうど燃えるごみの日だった。回収してくれるかどうか分からなかったが、仕事帰りに収集所を覗いてみるとごみはきれいさっぱりなくなっていた。「回収してくれたみたいだな」男が報告すると、妻は黙ってうなずいた。

数日後、男はまたしても自分のクレジットカードを使って勝手に買い物をした妻を、やはりごみに出すことにした。何度言ってもやめようとせず、買うものもいつもろくでもないダイエットグッズだった。効果があった試しもなかった。

妻は抵抗することもなく、自ら用意された袋に入った。体を亀のように丸めさせると、なんとか70リットルのごみ袋に収まった。男は袋を二重にし、口を念入りに縛りつけた。仕事帰りに収集所を覗いてみると、ごみはしっかりと回収されていた。

それからというもの、日々の暮らしは気楽で愉快なものとなった。男はより快適な環境を求めて仕事もやめた。

何もかもが男の思い通りとなった。男は近隣の家や店から金品を強奪し、邪魔するものがあれば暴行に及んだ。好きなときに起き、食べたいものを食べたいだけ食べ、寝たくなった女と無理やり寝た。

やることは次第にエスカレートしていき、気に入らないやつがいれば殺し、ときにはそいつの住んでいる街ごと焼き払った。住むところをなくした女たちをいいように奴隷にした。男は街を焼き払うのがいたく気に入り、次から次へと家に火をつけて回った。休む暇もないほどだった。

ある日のこと、男は冷蔵庫のドアに貼ってあった自治体のごみ収集マニュアルにふと目をとめた。何が書いてあるのか気になり、マグネットをはずして詳しく読んでみた。

それによると、この自治体では指定のごみ袋さえ使えば中身を問わず何でも捨てられるということだった。自分で燃やして処分することも大いに推奨されていた。

妻子をごみに出すことも、街を焼いて回ることも、すべて許されたことだった。すべてはここに書いてあったのだ。男はもっと早くこのマニュアルを読んでいればよかったと思った。と同時に、今まで誰一人としてこれを詳しく読んだものはいないに違いないと確信した。

男は自らを偉大な先駆者のように感じた。そればかりでなく、自分はルールを守ってごみ出しをする優良市民でもあるのだ。この二つが両立することはなかなかあるまい。男は焼け野原に響き渡るような高笑いをした。それから記念にまた一つ街を焼きに出かけた。燃え上がる街を眺めながら食べるドーナツは格別だった。

67 横断(727字)

男は道路を横断している途中で忘れ物を思い出し、家に引き返そうとしたところ、いや、忘れずに持ってきたのだったと思い出してもう一度道を渡ろうとしたのだが、忘れず持ってきたというのは実は勘違いで、あれはただ忘れないようにしなければと出がけに頭の中で再確認しただけだったと確信をもって今また思い出し、再び来た道を引き返そうとしたが、今度は取りに戻るほどのものではないかという面倒な気持ちがわいてきて、そんなことより約束の時間に遅れないことの方が大事だとまた道を渡ろうとして、しかしあれがあれば間がもたなかったときに助かるかもしれないとつまらない考えが働き、やはり取りに帰ろうと思い直したところで、それよりもガスの元栓を締めたかどうかの方が気になりはじめ、いやいや、そういうことをいちいち気に病む自分から卒業しようとしているのではなかったかとこれをなんとか断ち切って再び道を渡ろうとしたが、やはりというかなんというか、そもそも人と会うのが憂うつで行かないで済むのであれば行きたくなかったし、だんだん玄関の鍵をかけたかどうかも怪しくなってきた上に、忘れ物のこともどうしても気がかりだからと来た道を惜しそうに振り返り、しかし遅刻してはならないという生真面目な義務感のようなものもあって、上半身で家に戻ろうとしながら下半身は自分の弱さに抗うように道を渡ろうとしたところ、突っ込んできた四トントラックに撥ね飛ばされた。

罪に問われたトラックの運転手は、殺意は認めようとしなかったものの、道の真ん中でダンスの練習なんかしてるやつが悪いんだ、ドヘタくそが、と証言し、法廷を大いに沸かせた。運転手は交通刑務所でバカを一人轢いてやったぜと自分の手柄をさんざん吹聴し、三年で出てきた。

68 鼻(1199字)

草むらに人間の鼻が落ちていた。

拾い上げようとして膝を折り曲げた次の瞬間、男はその鼻の穴の中に入り込んでしまった。体が縮むかどうかしてしまったようだった。振り返ると遠くに外の世界が見えたが、引き返す気にはなれなかった。男は暗くじめじめとしたでこぼこ道を奥へ進んだ。

途中で何者かが苦しげにうずくまっていた。男が声をかけると、その人物は鼻が詰まって息ができない、助けてくれと言った。見てやると、確かに鼻の奥に何かが詰まっていた。

「頼む。取ってくれ」

相手はあえぐように言った。

道具などなかった。仕方なく直接指を突っ込んで引っこ抜こうとした次の瞬間、男はその鼻の穴の中に入り込んでしまった。

さっきよりも狭く、あちこちにヘドロのような小さな沼のある洞穴だった。どちらを向いても出口は見えなかった。ふと誰かに呼ばれたような気がして、男は声のする方向に歩いていった。

やがて、壁に寄りかかって何事か不平不満をつぶやいている、見るからに薄汚い男が現れた。そいつは饐えたような悪臭を放っていた。

「なんだてめぇは」

薄汚い男はこちらを見るなり言った。男が自分を呼びはしなかったかと問うと、相手はちっと舌打ちした。

「おれは誰もこっちへ来るんじゃねぇと言ったんだ」

とりつく島もなかった。男は話を変えて、この先に何があるのか訊いてみた。洞穴はまだ奥へと続いていた。

「バカめ。何にもありゃしねぇ。この世にはもうおれとお前のたった二人きりしかいねぇんだ。うへぇーへっへっ。嬉しいか」

薄汚い男は狂気じみた笑い声をあげると、両方の鼻の穴から飛び出したたわしように太い鼻毛をぶちぶちと引っこ抜き、ふっと空中に吹いた。鼻毛はくるくると宙を舞ったかと思うと、その一本一本が人の形に変身した。

十体ほども現れた鼻毛人間たちは、驚いたことにいずれも男にそっくりな姿形をしていた。どこかその薄汚い男に似てなくもないようだった。男にはまるでわけが分からなかった。それが何を意味するのかなど知りたくもなかった。

「忘れたのかよ。おめぇはおれの鼻毛から生まれた鼻毛人間よ。真実が分かって嬉しいか。うへぇーへっへっー!真実がよ!しんじ、っつ、うがっ、んげっ!」

薄汚い男は、喉奥で蛇口が詰まったような濁った音を立てると道端に痰を吐いた。

「あーくそ。鼻毛野郎が調子に乗るんじゃねぇぜ」

薄汚い男は、新たに生まれた十体あまりの鼻毛人間を引き連れて洞穴の奥へと去っていった。

一人取り残された男は、途方に暮れて立ち尽くした。自分が実は鼻毛人間なのだと分かった今では何の望みもなかった。おもむろに自らの鼻毛を引っこ抜き、綿毛を飛ばすようにふーっと吹いてみた。鼻毛はひらひらと宙を舞い、地面に落っこちた。何も生まれたりしなかった。

男は前を向いた。後ろを向いた。ここがどこなのかも分からなかった。男は鼻がむずむずしはじめたかと思うとくしゃみを連発した。くしゃみは洞穴によく響いた。

69 ビニール袋(443字)

男は仕事帰りに少し遠回りをして電線に引っかかったビニール袋を見に行った。何週間も前の風の強かった日に引っかかって以来、ずっとそのままになっているのだ。その行為は習慣となりつつあった。

数日後、男は以前から気になっていた同僚の女子社員Y沢と二人で遅くまで残業になった。ようやく仕事が終わると、男は一緒に見たいものがあるのだけどと彼女を誘った。Y沢は気軽にオーケーの返事をよこした。

男は例のビニール袋の下の歩道に立つと黙って上を見上げた。Y沢は男の視線を追い、見るべきものを探した。分からなかった。

「どれ?」

男は頭上を指さした。Y沢は空のことかと思った。

「違うの? どれ?」

男は改めてビニール袋を指さした。Y沢は電線のことかと思った。

「違う? どれよ?」

男は辛抱強くもう一度指先をビニール袋に合わせた。Y沢は見当違いのマンションの窓を見た。はるか上空に飛行機が浮かんでいた。

「あれか」

そうではなかった。

「全然分かんないんだけど」

男は分かってもらえない悲しみに打ちのめされ、一人その場をあとにした。

70 物体X(384字)

川底に何か黒ずんだ大きな塊が沈んでいた。男は五人の友人たちと協力してそれを水から引き揚げた。ゼリーのようにぶよぶよした卵形の物体で、ほんのりと異臭を放ち、触ると手についた。

地べたで観察しても、何か黒ずんだ大きな塊としか分からなかった。もう一度川に投げ捨てるのも煩わしく、その場に放置して帰った。

翌日、同じ場所に行ってみると、その物体は潰れてぺしゃんこになっていた。トラックか何かに轢かれたようだった。強烈な日射しを浴びて海苔のようになって干からびていた。

それ以来、引き揚げを手伝った友人たちに次々と不幸が降りかかった。一人はドライヤーで感電死し、もう一人はエレベーターに挟まれて圧死した。一人は忽然と姿を消し、もう一人は電車に飛び込んだ。五人目は突如として人体発火を起こし、黒こげになった。

残るは男一人だった。男が肉まんを買いにコンビニに行くと、それは売り切れていた。

71 大転落(707字)

放課後、校舎の屋上でクラスメイトたちとふざけあっていたときのことだった。男がノリでTの背中を押したところ、Tは縁に足を引っかけてバランスを崩し、地面に転落した。

男たちは慌てて下を覗いたが、眼下にTの姿はなかった。探してもどこにも見つからず、それきり行方不明となった。警察にも事情を話したが、Tの痕跡自体が何一つないため、事件性なしとされた。ただ罪の意識だけが残った。

男はその後も学校生活を続け、やがて大学に進学した。大学を卒業したあとは人並みに就職した。事件のことは折に触れて考えたが、理屈にあった答えはどこにもなかった。

三十五歳になり、未だ女性経験もないまま悶々とした日々を過ごしていたある晩のことだった。男がベッドに横になっていると、突如天井の辺りの空間が歪み、時空の割れ目が出現した。身動きもできずに見ていると、そこにぼんやりと人の姿が浮かび上がった。Tだった。

Tはこちらの世界に放り出されてきたかと思うと、そのまま男の上に落下した。まさに真上だった。二人はちょうど向き合うような形になり、はずみで唇と唇が触れ合った。焦った男はすぐにTを押しのけたが、その瞬間、自分の中に妙な気持ちが芽生えたのに気がつかないわけにはいかなかった。

Tは屋上から転落したときと同じ高校の制服姿で、見た目も十代のままだった。おまけに、この十数年間の記憶が一切なかった。校舎の屋上から落ちた瞬間から今このときへと、時空を越えてやってきたということになるらしい。

衝撃の再会から半年後、男はTとともに同性婚が認められている自治体に引っ越し、籍を入れた。生まれた年は同じなのに歳の差カップルに見えるとして、同級生たちから大いに祝福された。

72 写真(267字)

死体が見つかったと連絡があった。急いで現場に駆けつけると、思った通り妻だった。警察によると、妻は橋の欄干に乗って自撮りをしようとしてうっかり足を滑らせたのだという。無茶をしがちな女だった。スマホにはそのときにはからずも撮られたらしい、妻の振り乱れた髪と雲ひとつない青空が写った写真が残されていた。男はその写真をパネルに引き延ばし、事務所の壁に飾った。クライアントに何の写真かと問われると、男は決まって「あぁー」と叫び声をあげて谷底に落ちていく真似をして見せるのだった。相手がうまく反応てきないでいると、男は一人でにたにた笑うのだった。

73 タイムトラベラー(205字)

男の目の前に、どこからともなくある若者が現れた。若者は自分は百年先の未来から来たのであり、これから男の身に起きることをすべて知っていると言った。男は自分の未来について知りたかった。何歳まで生きられるか。死ぬまでにあと何人と付き合えるか。次の週末にどの馬券を買えばいいか。若者は大事なことを教えてやろうと言って男に後ろを向かせると、バットで後頭部を殴った。男が意識を取り戻すと、ポケットから財布がなくなっていた。

74 本(239字)

男は小説を出版した。自著にサインを入れ、付き合っていた女に贈った。二人の禁じられた関係のことを、自分たちにだけ分かるように本の中に書いていたのだ。世間は許さないとしても、特別な相手だった。

やがて、女はすべてを捨てて男と結ばれる決意をした。ところが、約束の日、女はいつまで経っても姿を現さなかった。それ以来、二人は二度と会うことがなかった。

数年後、男はたまたま立ち寄った古本屋の棚に自分の小説を見つけた。手に取って開いてみると、あのとき女に贈った本だった。男はその場で泣き崩れた。

75 電話(742字)

電話がかかってきた。知らない番号からだった。男は電話が嫌いだったので、じっと携帯を見つめたまま取らなかった。二時間後、同じ番号からまた電話がかかってきた。男はなるべく携帯から離れようと部屋の隅に行き、じっと立ったまま端末の振動が止まるのを待った。メッセージは残されなかった。

それから数日、その電話のことが頭から離れなかった。誰だったのか、なぜ番号を知っているのか、何の用件だったのか。電話はもう鳴りそうになく、男はついにその番号にかけ直すことにした。相手は電話を取らなかった。男は留守電のメッセージが流れるとすぐに電話を切った。

翌日、その番号から折り返し電話がかかってきた。買い物の最中だった男は、番号表示をちらりと見ただけで携帯を尻ポケットにしまった。買い物を終えたあと改めて携帯を開いたが、外では気持ちが落ち着かずにかけ直すことはできなかった。家に帰ると男は携帯を机に置き、その前に座り込んだ。いくら待っても鳴らなかった。風呂上がりにドライヤーを使っているときに着信を受けていることに気がついたが、取ろうとしたところで切れてしまった。かけ直そうとしたが、あと一歩のところで勇気が出なかった。

気がつかないうちに着信を受けていることが何度か続いた。三回に一回は男からもかけ直したが一向につながらなかった。どちらもメッセージを残すことはしなかった。そんなやりとりが二週間ばかり続いた。男は突然別れた妻のもとを訪ねた。「お前だな」「いきなり何」「いったい何の用だ」「何が」「今更謝る気になったのか」「何の話よ」「お前からかけてきたんだろ」「は?」「分かってるんだ」「帰って」押し問答の末、男は警察を呼ばれて捕まった。「向こうが先にかけてきたんだ」男は訴えたが、警察は聞く耳を持たなかった。

76 体幹(941字)

最近、体幹という言葉をよく耳にするなと男は思った。初デートで美術館に来たはいいが相手と何を話したらいいか分からず、考えは宙をさ迷っていた。

――体幹って何だ。体の中心のことか。それとも具体的な場所? バランス力みたいな?

ぼんやり絵を見ながら歩いていた男は、うっかり前の人にぶつかってしまいよろけた。あわてて体勢を立て直そうとして、自分の足につまずいた。デート相手の腕をつかもうとして手が空を切った。

っと、やばっ! と思う間もなく視界がくるりと回った。コケる。こんなところで。

男はばつの悪さをごまかすように半笑いを浮かべながら壁に倒れ込み、その弾みで絵が外れた。シュルレアリスムとフォーヴィスムが融合した歴史的傑作だった。男にはちっとも理解できなかったが、億以上の価値があった。

男は歴史的絵画もろとも床に崩れ落ちていった。その途中、ちらりと見た彼女の表情から次のデートはないということが読み取れた。それでも男は言い訳をしたかった。

ふわ、ふわ……。

男は何か言いかけたが、体幹が引っ掛かっていたせいか言葉か出てこなかった。ふわ、ふわ、付和雷同。じゃない。ふわふわふわ、不惑、不渡り、家庭不和。不可避節回し不眠不休不可解不揃い不老不死あー違う! ふわ! ふわふわふわふわ不破万作! ふわふわ、不破、不破、不破万作!

「ふわー!」

 男は言葉にならない叫びを上げながら、衝撃をやわらげようと下に手を突き出した。その手が、落下して壁に斜めにかかったキャンパスのちょうど真ん中を突き破った。

百年以上前の古い布が裂ける乾いた音がすると、館内は水を打ったように静まり返った。

誰も動かなかった。男は自分のしたことに気づくと、全身から魂が抜けていくような感覚を覚えた。と同時に、他の来館者たちが「ふわって言わなかった? ふわって何?」と視線を交わし合うのを感じて猛烈に恥ずかしくなった。

男は歴史的絵画に手を突っ込んだまま、微動だにできなかった。そのとき、唐突に自分の言いたかった言葉がひらめいた。不可抗力。不可抗力ということを言いたかったのだ。「ふわ」じゃなかった。全然「ふわ」じゃなかった。

男はこれはすべて不可抗力なのだと分かってもらおうとデート相手を探した。ちょうど他の来館者に紛れて立ち去ろうとする彼女の背中が見えた。

77 プリテンダー(380字)

男はこれまでずっと妻だと思っていた相手が、ただ妻のふりをしているだけの見ず知らずの女だということに出し抜けに気がついた。一緒に暮らしはじめてもう何年も経っていた。思えば、その女は家の中でも帽子を目深にかぶったり、サングラスをかけたりして、顔をはっきり見せたことがなかった。なぜこんなことをしたのかと問いただすと、面白そうだったからという答えが返ってきた。女がときどきわけもなく肩を小刻みに震わせていることがあったが、あれは笑っていたのだ。本物の妻はどこにいったと問うと、女はまさか本当に知りたいわけじゃないでしょと言った。そう言われると実はその通りだということに自分でも気がついた。男は相手が出ていくのを待ったが、女は細々した家事に手をつけて一向に出ていかなかった。男はいつもいつもありがとうございますと丁寧に礼を言った。女は後ろを向いて肩を小刻みに震わせた。

78 ランチタイム(3353字)

 職場で注文した弁当が男の分だけ足りなかった。同僚たちは皆もう食べはじめていた。弁当屋に問い合わせると、注文分は間違いなく届けたという。誰かが男の分を勝手に取ったのだ。同僚たちは素知らぬふりで黙々と食べており、騒ぎ立てるのはためらわれた。
 あきらめて外へ食べに出ることにした。近道となる裏路地に入ると、シャッターの降りたスナックの前で女同士が争っていた。血しぶきが飛び散るほどの激しい喧嘩だった。男は脇をすり抜けようとしたが、投げ飛ばされた女に巻き込まれてスナックの看板もろとも地面に倒れ込んだ。痩せた女なのに重かった。女の下からなんとか這い出すと、転がるようにして逃げた。
 看板の角にでもぶつけたのか、左の上腕に強い痛みがあった。男は痛むところを押さえながら地下にレストラン街がある商業ビルを目指した。そこに入っている洋食屋のオムライスを久しぶりに食べたい気分だった。
 裏路地を抜けたところの区画一帯で開発が進んでいた。どちらを向いても解体用シートに視界が遮られ、目指すビルは見つけられなかった。見覚えのある風景の一つも見当たらず、自分がどこにいるのかもわからなくなるくらいだった。コンクリートを削る音が耳の奥に直接響いた。
「おい」
 後ろから声をかけられた。以前働いていた会社の先輩だった。前置きもなく昼飯に付き合えと言われ、空腹の男は成り行きに任せることにした。
 古ぼけたビルの二階にある喫茶店だった。ブレンドコーヒーが600円とあり目を丸くしたが、奢りだというのでBLTサンドにセットでコーヒーをつけた。窓際の席だった。外に目をやると、通りの先の方に駅前広場がわずかに覗いていた。男は自分の居所がわかって少し安心した。
 先輩とはあちこちの民家や施設などを回って害虫駆除をしたのだった。ときどき、うっかりペットを殺してしまうようなこともあったが、いつも先輩が機転を利かせて助けてくれた。
 あるとき、強力な殺鼠剤を溶いた液体について、家主にそれは何かと問われたことがあった。先輩が冗談でソーダですと答えた。ところが、それを真に受けた家主は、男と先輩が目を離している隙にそれを飲んでしまったのだ。地下で血の泡を吹いて倒れている家主を発見した男と先輩は、パニックになってその場から逃げたのだった。
 あの家主がどうなったか、男は知らないままだった。おそらく死んだだろう。すぐに助けていたら一命を取り留めていたかもしれないと考えることもあったが、もう取り返しがつかなかった。
 男はそのあとすぐに仕事をやめ、先輩もそれに続いたはずだった。今どうしているのか気になったが、先輩は男がまったく興味のない釣りの話を延々と続けるばかりだった。
 そのうち、近くの席の客がマルチ商法の勧誘をしているらしいことが分かってきた。男はそちらが気になったが、先輩は気づく気配もないようだった。男の座る席からは、勧誘されている方の女の髪の長い後ろ姿しかわからなかった。男はなんとか警告してやりたいと思った。
「お前、腕どうしたの?」
 先輩が急に聞いた。
 男は怪我をしたところにずっと手を当てていた。骨に異常はなさそうだが、じんじんと脈打つように痛んだ。ちょっとぶつけてと口ごもると、先輩は「まぁ、たくさん食えよ」とやけに声を張った。励ましてくれているようだったが、どこかピントがずれていた。注文したものはなかなか来なかった。
 鮎釣りにハマっている先輩は、朝まだ暗いうちに家を出て神奈川や静岡の川まで行くということだった。鮎釣りは蚊がやばいと言っていた。
 男は、身振り手振りでキャスティングについて語る先輩に断ってトイレに席を立った。先輩は想像上の釣り針を男に引っかけ、トイレに行かせまいと懸命にリールを巻くふりをした。男は少しだけ付き合って釣られるふりをしてやった。
 用を足しながらあっと気がついた。あいつは狂っている。男は席に戻るのが少し怖くなった。
 トイレを出たところの狭い通路で、マルチ商法に誘われている女と行き合った。くりっとした大きな瞳が目を引くかわいらしい女だった。
「あの、あれ、ちょっと怪しくないですか」
 男は努めて立ち入りすぎないように言った。
「は?」
 女の表情が一変した。女は眉間に皺を寄せ、まるでイキがっている不良を思わせるやり方で男の顔を下から覗き込むように睨んできた。男は怯んで後ずさり、背中をトイレのドアにぶつけた。ドアノブが臀部に当たり、先ほど痛めたのは腕だけではなかったことを知った。
「いてっ」
「は? なんだお前」
 男はすいませんすいませんと頭を下げながら、わずかな隙間をすり抜けるようにして女から逃げた。今だかつて、初対面の人にこれほどあからさまに因縁をつけられたことはなかった。
 席に戻ってみると先輩の姿がなかった。店内を見回してもどこにもいない。テーブルの上にバインダーに挟むタイプの伝票が裏返しに置いてあった。店員に声をかけると、二人が注文したものはすべてテイクアウトされていた。
 逃げ場はなかった。仕方なく二人分の会計を済ませると、男は財布の中身が空になってしまった。
 臀部も怪我をしていると分かり、急に歩くのがつらくなった。壁に手をつきながらよろよろと階段を降りていくと、あっと気がついた。これは狂った人間には不可能な所業だ。男はまんまと二人分の昼飯代を支払わされたのだ。
 どちらにしろ手遅れだった。食事にありつけないまま、昼休みが終わろうとしていた。左腕を押さえて片足を引きずるようにして駅前広場を横切っていると、男はデスクの引き出しの中にチーズクッキーがしまってあるのを思い出した。虫の好かない同僚から旅行土産でもらったものだが、苦手な味なので奥に押しやったままになっていたのだ。あれを食べるしかなかった。
 職場に近づくと、何かがおかしいことに気がついた。なだらかにカーブする生活道路の行く手に見えてくるはずの見慣れた建物が一向に姿を現さないのだ。
 そのまま川まで来てしまった。職場の先にある、少し下ると暗渠になる小さな川だ。来た道を戻ってみたが、やはり職場は見つけられなかった。もう一往復しても同じ。途方に暮れた男は、通りかかりの近隣住民にこの辺りにあった建物について聞いた。小型犬を連れた老婦人だった。相手は怪訝そうな顔で犬を守るように抱えあげた。
 男は事務所の入っている建物のあるはずの場所、建物の特徴などを伝えた。利用者への暴力行為などで評判の悪い福祉事務所だったので名前は出したくなかったが、勤め先についても話した。老婦人の表情は固く、まるで話が通じていない様子だった。犬はぴくりとも動かなかった。死んでいるように見えた。いつか、男と先輩が害虫駆除の仕事で誤って殺してしまった犬に似ていた。
 何かおかしいと思っていると、ふいに辺りに煙が立ち込めはじめた。煙は足元からじわじわと這い上がってくる。老婦人はじっとこちらを見ていた。わけがわからずにいると、鼻がよく知っている香りに反応した。フローラル。フローラルな香り。男はそれが香りをつけられた害虫駆除用の燻煙だと気がついた。
 すでに遅かった。白い煙にすっぽりと包まれた男は激しく咳き込み、煙が染みてろくに目を開けることもできなかった。気配を感じて振り返ると、靄の中に先ほどの老婦人が棒のようなものを振りかぶっているのを目の端で捉えた。直後、後頭部に強い衝撃を受けた。
 見覚えのあるコンクリート打ちっぱなしの床に倒れ込んでいた。どこなのか思い出すよりも前に、隣にあのときの家主が血の泡を吹いて倒れているのに気がついた。そこはあの家の地下だった。害虫駆除用の燻煙が充満している。
「バカがよ」
 老婦人が脇にしゃがみ込んでいた。見た目は老婦人だが、声の響きは先輩だった。体中が痛かった。男は先輩に何度も殴られたことを思い出した。昼になって弁当を取り出そうとリュックを漁っているところを、古いシャッターの開閉に使う鉄の引っかけ棒で後ろから襲われたのだ。
「おれだってこんなことしたくねぇけどな」
 先輩が背中を踏みつけにしながら言った。頭を狙って棒を構えているのがわかった。男は助けを呼ぼうとしたが、煙で喉がやられて声が出なかった。
「お前、おれが依頼人のペットを殺したなんてチクりやがるからこういう目に遭うんだぜ」

79 先手(346字)

屋上に出てみると先客がいた。どうやらためらっているようだった。男は今のうちにとフェンスまで急ぎ、それを華麗に飛び越えると、そのままビルの谷間へ落ちていった。落下しながら振り返ると、件の先客が慌てたように身を投げるのが見えた。男は勝ち誇った笑みを浮かべた。ふと下を見ると、迫りくる地面に大きな×印があることに気がついた。スプレーか何かで書かれたものらしい。男は、それが自分のあとに飛び降りた後ろの男の手によるものだと気がついた。振り返ってみると、後ろの男が今度は自分が笑う番とばかりに勝ち誇った笑みを浮かべていた。男は何としても×印のところに落ちるわけにはいかなかった。だが、どれだけ必死に空を掻いても進路を変えることはできなかった。男は×印の上に落ちた。その直後、もう一人も同じ地点に落ちた。

80 読書感想(113字)

男は読んだ本の感想を求められ、特に何も思わなかったと感じたままを答えた。相手は、感想は長ければ長いほど、具体的であればあるほどよいと言った。男はどう返答すればいいのか分からなかった。もうどんな内容の本だったかも忘れてしまった。

81 二番煎じ(696字)

 とある怖いことがあった次の日、男は件の駅に降り立った。
 怖いことの真似をしようと思ったわけではなかったが、どういう巡り合わせか、その出来事に使われたのと同じ物を鞄の中に持っていた。刃渡り17センチのサバイバルナイフが二本。
 同じことをやるよう期待されているのだと思った。辺りを見回すと、人々は一様に怖いことをされたがっているようだった。唐突に、誰もが一度くらいは心底からの恐怖を体験したがっているのだとひらめいた。男は鞄から刃物を取り出すと、ニュースで何度も見て覚えた恐ろしい手順をなぞることにした。
 一番近くにいた若い男に狙いを定めて一歩を踏み出したそのとき、ふいに周囲の人々がぴたりと足を止めた。その場の全員が顔だけをこちらに向けて、無表情に男を見てくるのだった。まるで時が止まったかのようだった。
 人々が何か囁くように口元だけをわずかに動かした。やがて、一つひとつの小さな囁きが重なり合い、男の耳に言葉となって届いた。それは、二番煎じと言っていた。二番煎じ、二番煎じ、二番煎じ。
 違う。自分には自分のやむにやまれぬ動機がある。やっていることは似ていても、根本の部分が異なるのだ。男はそう否定しようとしたが、喉が締めつけられて声が出なかった。
 二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ二番煎じ。
 男の頭の中で囁き声がいつまでもこだました。

82 遅延(1447字)

 男は職場へ向かう電車に乗っていた。乗り換え駅で急行を待っていると、事故のため電車が遅れるというアナウンスがあった。復旧の目処は立ってないという。
 ホームで待っていると、駅のすぐ脇に突如として高層ビルが現れた。いつもは空が見える空間に、建設中のところを見た気もしないうちに建っていたのだ。
 男は不思議な気持ちでビルを見上げた。ふと、ホームの中ほどの改札がそのビルに直接つながっているという案内がいつの間にか出ていることに気がついた。男は吸い込まれるようにビルに入っていった。
 端まで見通せないほどワンフロアが広いそのビルには、多くの企業が入っていて活気があった。スーツ姿の人々が行き交う様子を興味深げに眺めていると、エレベーターホールの案内板に求人コーナーがあるのを見つけた。
 何気なく条件を読んでいると、後ろからここで働きたいのかと声をかけられた。男は適当にかわそうとしたが、ちょうど人手が足りないからと半ば強引にあるオフィスに連れていかれた。ところが、デスクと仕事を与えられると、不思議とやる気が漲ってくるのを感じた。いずれにしろ、給与も福利厚生も条件は悪くないのだ。むしろ、よすぎるくらいだった。男はパソコンを立ち上げ、さっそく働きはじめた。
 ビルの高層階は住居になっており、男はビル内に働き口を持つものの権利として一部屋を割り当てられた。食料品や衣料品などの商業テナントも入っており、娯楽施設も多く、生活はビルの中だけで事足りた。経済的な余裕も生まれて、男は今まで知りえなかったような満足のいく暮らしを送ることができた。
 まもなく、昇進と恋愛が同時にやってきた。相手は同じビル内に勤める二歳年下の女性だった。男と同じ頃にここへやってきたという。ジムで出会った二人はすぐに意気投合し、一緒に暮らしはじめた。
 仕事はますます面白くなってきた。男はチームを束ねていくつもの大きなプロジェクトに邁進した。職場環境もよく、仕事には刺激とやりがいがあった。忙しい毎日だったが、仕事も私生活も充実していた。
 やがて、子どもが生まれた。元気な男の子だった。その子は育児の苦労など瞬く間に忘れてしまうほどに、日に日に大きくなった。休みになると、男は子どもと連れだって屋上庭園に出かけた。そこには最高の見晴らしと、小さな子どもが楽しめるいくつもの遊具があった。360度のパノラマは、まるでそのビルが世界の中心であるかのような感覚を起こさせた。
 ビルは栄え、横にも縦にも絶え間なく増築されていった。仕事は増え、入居者は膨らみ、生活は豊かになる一方だった。男はさらに昇進するとともに、幸せな家庭生活を送った。二人目の子どもが産まれると、家族で広い部屋に移った。
 ある日、事故で長らく運転を見合わせていた電車がようやく復旧したという知らせが届いた。我に返った男は、仕事をやめ、妻子に別れを告げ、半ばパニックになってもともと目指していた以前の職場へと向かった。あの朝からどれほどの時間が経ったのか、もうわからなくなっていた。
 そこにはやりかけの仕事と新たに山積みにされた仕事、上司の叱責、取引先からの脅しのような要求、同僚からのいやがらせ、手当の出ない残業などがあった。上司は男が提出した遅延証明を破り捨て、男がいかに職場に迷惑をかけたかとねちねち文句をいった。しまいには、怒鳴り散らしながら物を投げつけてくる有様だった。
 男は来る日も来る日も帰りの電車がなくなるまで働かされ、何一つ得ることのないまま、やがて深夜の職場で一人きりで死んだ。



▼ヘッダー画像はすてられちゃったいぬさん


この記事が参加している募集

推薦図書

いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。