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宮台真司のこと。

東京都立大学教授で、社会学者の宮台真司(1959年生まれ。以下、宮台さんという)について、思うところを思いつくままに書いてみたくなった。まとまった話になるかは分からない。


1.きっかけは西部邁

宮台さんは、私の記憶史に、西部邁(1939-2018)の論争相手として登場する。

西部邁は私に大きな影響を与えた人だ。学問的には社会経済学、すなわち、経済学に社会学の知見を導入して、この学問を大学という無菌室から社会の荒野に解き放った人、とされている。私個人にとっては、社会や人生の味わい方を多く教えてくれた人でもある。

宮台さんはそんな西部邁の論争相手だった。その意味は、二人は同じ土俵の上に立っていたということである。学問を、思考を、社会という荒野に解き放って、ある種の「試練」を与えなければ、現代世界に充満する無数の空論は消え去らないのではないか。この共通の土俵がなければ、論争など成り立たない。

そんな宮台さんによる、西部邁追悼のためのラジオ出演(「荒川強啓 デイ・キャッチ!」2018年1月26日放送)は良かった。彼にしか出来ない、愛と理解(そもそも愛がないと理解もないが)にあふれた追悼だった。

まず、西部邁は宮台さんと同じく「お花畑」を嫌ったという。
 ・ アメリカが日本を守ってくれる
 ・ 社会が良くなれば人は幸せになれる
などは「お花畑」の典型である。

また、西部邁は宮台さんと同じく「愛の大切さ」を説いたという。大衆は損得勘定から来る不安により正しさを主張しているだけだが(権益確保と自己正当化が目的)、本当の正しさは愛に由来する。そのようにして、大衆社会論に愛の思想を含意させたのである。

さらに、西部邁は宮台さんと同じく「合理(知識)で人は幸せになれず、不条理を選び取る自由の中にこそ人間的な幸せは宿る」と主張していたという。
 ・ 保守的漸進主義
 ・ 反米主義
 ・ 自裁死
などのトピックは、西部邁の実存的な問い(合理や知識や制度改革なんぞで人は幸せになれない)を踏まえなければ、正しく評価できない。保守的漸進主義は人間理性への懐疑を、反米主義はアメリカ的=合理主義的との判断を、自裁死は不条理を選び取る自由の肯定を、それぞれ前提にしているからだ。

こうした内容を淡々と語りながら、自身もまた西部邁の影響を強く受けていると告白する宮台さんの姿勢に、私は少なくない感動を覚えた。特に「社会が良くなれば人は幸せになれるというお花畑」と闘うことが、宮台さんの終生の課題であることは明らかで、やはり二人は正しい意味で論争相手だったという思いを強くした。故人を追悼する行為の目的が、故人を忘れないことに尽きるのだとすれば、「故人が遺した問い」を自分なりの仕方で受け継ぐことが、その最良の方法であることは間違いない。


2.事件現場にて

2022年11月29日、宮台さんは、自身が勤める東京都立大学南大沢キャンパスの敷地内で、面識のない男に後頭部を殴打された上、刃物で首を含む複数個所を刺され重傷を負った。警察は犯人の特定を急いだが、結局、判明したのは世を去ったあとだった。自殺と見られる。

2023年7月1日、現地を訪れた。武蔵野の原風景を所々に残していて、大学の構内にも勿体ないくらい豊かな自然がある。シンプルに良い大学だと思った。

事件現場(推定)

新聞その他の報道に基づいて、宮台さんが刺されたとおぼしき現場に立つ。道路を挟んで学生向けの集合住宅が林立する、校門のそばで事件は起こった。

クズ、とんま、へたれ、ブタ。宮台さんの頻出語彙である。いってみれば「宮台節」だ。待ち望むファンもいるだろうが、それ以上に反感を抱く人のほうが多いのかもしれない。犯人の遺留物からは、「学者は最も人の上に立ってはならない人種」で、そんなやつが「偉そうな物言いをしてはならない」などと書かれたメモが見つかった。

はて?私の思考は立ち止まる。果たしてそうなのか?偉そうなのはむしろ、一般庶民に分からない呪文のような言葉(学術用語)で固められた文章で、社会を大所・高所から論じている、象牙の塔の住人(凡庸なインテリ)ではないだろうか?意図的に品位を落とした言葉はむしろ、社会学の知見(社会の中でより良く生きるにはどうしたら良いのか)を、その知見を最も必要とする人々(一般庶民)に届けるために敢えてする、「慈悲心」から発せられているものではなかったか?

むろん、手段の意味(目的)が誤解される危険(時には命にかかわる危険)は常にあって、古くはイエス・キリストにも見受けられる。イエスは神の慈愛を伝える手段として、伝道の途中から「奇跡の実演」を自らに禁じた。人々はそれを、彼が神の子ではない証拠とみなして、大衆を扇動した罪で処刑した。

よくあることだ。だから別に、誤解された宮台さんを可哀そうとは思わない。でも、間違った認識(最も偉ぶらない学者を偉ぶった学者と誤解したこと)に基づいて殺人未遂を犯し、自殺までしてしまった犯人は、じつに「とんま」だった。

「とんま」と言えば、事件についてのインテリ連中の言動もそうだった。寡聞にして知らないだけかも知れないが、私の眼には「暴力による言論の封殺を許すな」という論調一色に世間が染め上げられたように見えた。

たしかに、自らの発言によって暴力を受けるかも知れないと思って、言論空間が萎縮(自主規制)するような状況は望ましくない。しかし、それは発言者の覚悟次第ではないか。正しいことを主張しようと思えば、誰かの誤りを指摘せざるを得ない状況が生じる。当然ありうることであり、言論に危険がつきものなのは常識である。発言は正しく理解されることのほうが少なく、いちいち誤解を恐れていたら何の発言も出来ないのは自明である。それが、「言葉に責任を持つ」という慣用句における「責任」の中身であって、そうした危険を百も承知で発言を続ける「変わり者」のことを、本来の学者と呼ぶんじゃないか。

インテリ連中のとんまぶりは、こんな危険があるのだったら過激な発言などやってられないという「敗北宣言」をしたことに、本人でさえ気づいていない所にある。言うまでもないが、思想の価値を過激か穏健かで判断してはならぬ。ましてや、発言によって襲撃されたから宮台さんは間違っているとか、偉いとかいう話ではない。思想の価値を判断する唯一の基準は正しいか、正しくないかだけだ。

そういえば、事件の第一報を聞いた時、すぐさま連想されたのは、安倍晋三元首相の暗殺事件だった。あの時も、「暴力による解決は民主主義の否定」といった類いの、珍妙な説が飛び交ったのだった。

寝ぼけたことを言うな、と言いたい。三島由紀夫の言葉を引こう。これは1968年6月16日に一橋大学の大学生たちと行った、当時の政治状況についての討論会での発言で、アメリカのロバート・ケネディという政治家が暗殺されたことを受けての、三島の感想である。

結論を先にいってしまうと、私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの昔から、殺されたのは一人で、六十万人が一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。これは虐殺であります。どうして暗殺だけがこんなにいじめられるのか。私は、暗殺の中にも悪い暗殺といい暗殺があるし、それについての有効性というものもないではないという考え方をする。たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。やはり身辺が危険だと思うと、人間というものは多少は緊張して、日頃は嘘つきでも・・・まあこういうところで私が嘘をついていられるのも、皆さんの中にまさか私を殺す人がいないからであります。もしこれが、あなた方の中に人相が多少悪くて、懐ろに匕首でものんでいるような人がいれば、私ももうちょっと真面目な話をするのです
(三島由紀夫「文化防衛論」ちくま文庫、2006年、183-184頁)

社会主義陣営が度重なる「粛清」によってしか維持できなかった国家を、時々の「暗殺」程度で維持できていることに、民主主義陣営は満足すべきなのだ。暗殺がなければ尚更に良いじゃないか、などと寝ぼけたことを言わないで頂きたい。暗殺は必要【悪】ですらない。民主主義にとって、暗殺は端的に必要である。実際に命を落とすことはなくても、命の危険があると分かっていて、それでもなお発言する時の言葉であればこそ「重い」のである。逆に、命の危険があるからと萎縮し、発言を差し控える程度の言葉なら、元々その言葉は、発言する価値もないほど軽かったのである。民主国家の政治家に暗殺のリスクが全くないとしたら、緊張感のない弛緩した言葉が蔓延し、辺りには衆愚政治の腐臭が充満するだけだろう。


3.感情の劣化

前項の話は、宮台さん自身の言葉とも符合する。

重松清さんの『青い鳥』という短編集があります。最近映画になりました。主人公の先生は強度の吃音です。その先生が、子どもたちを「いじめ」から遠ざけるための、極めて大切なメッセージを語ります。「本気で話したことは本気で聞かなくちゃいけないんだ」という印象的なセリフです。先生の本気が、生徒たちに「感染」していきます。人の「尊厳」を傷つけ、そのことで「自由」を奪ってしまうのが、なぜいけないことなのか。それは「理屈」ではありません。「社会の中で人が生きる」ということを支える前提です。なぜそんな前提があるのか、誰にも分かりません。だから「ダメなものはダメ」なのです。「みんなが言うからダメ」とか「誰かをいじめれば君もいずれはいじめられる」などと説教するのはクダラナイ。「ダメなものはダメ」を伝えられるのは「感染」だけです。「感染」を引き起こせるのは何であるのかを、『青い鳥』はよく描いています。心底スゴイと思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、初めて理屈ではなく気持ちが動くのです
(宮台真司「日本の難点」幻冬舎新書、2009年、51頁)

本気で発せられた言葉は、本気になって聞かなければならない。いじめをなくすための方策について述べた文章の一節だが、いじめがなくならない現実がある以上、次のように問うてみることに、何の問題もないだろう。「私たちが本気で発言しなくなったのは何故なのか?」「そうすることで私たちはどんな利益を得ているのか?」と。

これだけ流動性が高く多元的になった社会では、「深くコミットする」「相手の中に入る」といった営みはリスキーです。逆に言えば、過剰さを回避しないと、人間関係を安定的に維持できなくなります。そうした社会状況への適応のために、浅く表層的に戯れようとするのでしょう。ところが、近代の性的領域においては、「偶然を必然に変換すること」あるいは「内在に超越を見ること」でタダの女(男)を運命の相手と見做します。この作法がドイツ流の民族ロマン主義に対するフランス流の性愛ロマン主義で、それが近代の家族形成原理になったんです。近代社会では、性愛と国家の両領域で、ロマン主義を必要としてきました。普通の女(男)を運命の相手と見做すことで家族形成が可能になり、ただの集団を崇高なる故郷と見做すことで国民国家形成が可能になるからです。両者は並行して19世紀に育て上げられました。「ただの女(男)を運命の相手と見做すことは如何に可能か」。18世紀末以来のフランス恋愛文学における基本的問題設定です。回答として見出されてきたのは、相手の心に映るものを自分の心に映すこと、そしてそれを前提に時間をかけて苦難に満ちた関係の履歴を積み上げること。そう。表層的な戯れの延長上に、必然的な関係なんかできるはずもないんです。「諦めて世間に従っている」のではダメです。互いに相手の心に深くダイブする者たちだけが、性愛を通じて絆を作り、それをベースに家族を形成し、ホームベースを作ってきました
(宮台真司「社会という荒野を生きる。」ベスト新書、2018年、298-299頁)

みるからに、私たちの「恋する力」が萎えてきている。フロイトの精神分析の考え方によれば、「恋する力」とは「感情転移能力」の一種であるから、己の感情を他者の感情に転移させる能力が衰えてきている。たとえば、「至上の喜びとは他者の喜びを喜ぶことだ」(三島由紀夫)という心の不思議な働きが、分からなくなってきている。心はある意味では機械と同じで、普段から働かせなければ駄目になる。感情は劣化する。

最近、宮台さんの発言で、「感情の劣化」と「言葉の自動機械」という言葉が目立つようになった。厳密な定義を聞いたことはないが、この二つはセットで意味を十全に発揮する言葉だと思う。

晩年の小林秀雄が、大学生と対話して言っている。「きみは簡単にルノワールが好きだなんて言うけどな、ルノワールがどんなに繊細に色を識別できていたか、きみはどれほど分かっているの?」

本居宣長が、自らの源氏物語論の結びで読者に語りかけている。「きみは月は面白く花は哀れであるなどと言って、いにしえの歌人と同じ感情を表現したかのように錯覚しているみたいだが、古代人が月や花といった歌の対象に接した時の感情がどんなに深かったか、想像できているのか?」

上に挙げたのは、たまたま両方とも芸術鑑賞についての話題だったが、それに限ったことではない。新聞・TV・雑誌・ネットから拾ってきた当たり障りのない即席の話題で、対象についての見識もクソもないままに(つまり批評精神を介在させずに)、受け売りの情報を反復することを会話とは言わない。劣化した感情から出た言葉は、自動機械から生み出された商品のように退屈(ワン・パターン)である。たしかに、そうした言葉の応酬は誰も傷つけることがない。関係の維持に大いに貢献することだろう。しかし、だ。そもそも人間関係の究極的な目的は関係の維持だったか?宮台さんが最も伝えたいことは、恐らくそこである。

劣化した感情を鍛え直せ。他人の感情にきちんと向き合って本気の言葉を語れ。強靭な人間関係を作ってそこをホームベースにしろ。クソな社会に失望するあまり、別の社会を夢見るな(オウム真理教信者のように)。社会は元々クソなのだから、どこに行ってもあなたは失望しつづけるだけだ。あなたが拠り所とすべき場所は、自らが努力して作り上げる、ホームベースの他にない。

宮台さんの社会学の真髄は、ここにある。反社会的な社会学。きちんと恋をする、家族を作る、長い時間をかけて濃い人間関係を作り上げる。それだけがあなたの本当の財産だ。それだけがあなたを守る。

社会という荒野から。


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