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わたしは父に腕枕をしてもらいながら話をきくのが好きなパパっ子だった。腕枕だけではない、その枕になる腕でしっかりとわたしの身体を包み、ぎゅっとして欲しいタイプだった。その腕がパタンと布団に落ちると父を睨みつけるくらいちゃんと、ぎゅっとして欲しかった。

その腕の先を見ると父の小指は関節が曲がらないということに気付いた。「なんでパパの小指曲がらんのん?」

当時、小指を立てる仕草というのは【恋人】を指すものだった。わたしが男の子と歩いていると、おばちゃんやおじちゃんがニヤニヤして拳をかかげて小指を立てそれをクイっと何度もお辞儀させていたら【恋人か?】のサインである。

「拳で殴る時はな、まず小指を無理やり折ってから手を握る」とか言っていた。それは父の幼少期に竹藪で喧嘩した時の怪我だそうだ。

竹藪で喧嘩したら小指曲がらなくなるんだ。竹藪怖いな。竹藪って何やろ。ーと思った。筋肉と骨を繋ぐ腱というのがあってな。ー というような話をきくことはうちではなかった。そんな就寝前のたわいもない話がとても好きだったことを覚えている。

父は母と二十歳近く離れている。わたしは父の再婚した母との娘にあたる。就寝前には、「パパはあと数年で死ぬ、必ずママより早く死ぬ」と言いきかされていた。きょう、わたしが一児の母になった今なら言える。父は寝かしつけがとても下手だということを。

寝る前に死ぬ死ぬ宣言とその報告を聞いた当時のわたしは泣きながら「ほんまに?パパいつ死ぬん?」というと、側で聞いていた母は「何言ってんのよ。やめや、はよ寝ぇ」と言う。いつ死ぬかの具体的な時期をきくことができなかったわたしはやや寂しい気持ちになる。しかしわたしの本心はまたか…と慣れを感じていた。そして眠りにつく。幼い頃から父はうちらよりも早めに死ぬんやな。とどこかでいつも思っていた。いま思えば普通に考えたらほとんどの親が子どもより早く死ぬだろう。

六十歳は老人だと思っていた。
友達のお父さん達は金髪でかっこいいスキニージーンズを履きこなす、英語の文字がかいてあるタンクトップとかシャツをきてかっこいいごっつい時計とか宝石をまとっている。おしゃべりも上手で、かっこいいお父さん達だった。

一方、父は無口だった。ニカっと笑うことはあっても、あまり会話という会話をしているところをみることはあまりなかった。

もちろんわたしも自分がそんなに明るいかと言われたらそんなこともないし宝石なんて持っていない。笑うと目が線になるし歯茎なんかもおもっきし出てしまう。父に似てると言われると複雑な気持ちになった。なんでやねん。性別もちゃう。パパはパパ、わたしはわたし。ちんちくりんで老人でスキニージーンズなんて履けないパパに似てたまるか。という気持ちだった。

当時の親友の美咲に電話で確認したいことがあった。
「なぁなぁ。美咲。私ってかわいい?」と、電話できこうと思った。
いまなら、返事が怖い質問ほどしてはいけないものはないと思う。でもどうしても確認したかった。人はやっぱり美しいものが好きだ。美味しいものも好きだし、見た目がいいものが好きだ。みんなかわいくてきれいなものをみて幸せになる。できたらわたしだってそうでありたい。ー

美咲は私の鳴らす電話を五秒くらいで取ってくれる。お母さんかおばあちゃんがまず出て理由を聞いてから美咲にかわってくれる。家電はなんて便利なんだろうと思っていた。家に行かんくてもいい。便利な時代や。

「もしもしーまい、どうしたん」
「もしもし、なぁなぁ、わたしってかわいい?」

母が仕事でお弁当を作れない日があった。父が朝から私のお弁当をこさえてくれた。

学校のお昼休みに弁当を開けるとなんかの肉とフレッシュトマトの汁がまだ生ぬるい白飯に染み込んだお弁当だった。

なんか見たことあるわ。と思ったら、美咲と美咲のお母さんと奈良の生駒山まで車でドライブに行った時、ピザポテトとかビスケットとかそういうお菓子を食べて車酔いして途中下車して吐いたときのげろの色やった。今でも生駒山に行くとそれを思い出す。

とにかくそのお弁当はとても食べられるものではなかった。なんかの肉とフレッシュトマトとその水分で濡らされた茶色まだ生ぬるいご飯に、あとはなんかわからんソースがかかってる。弁当。

帰宅後、父にきかれてもないのに「めっちゃ不味かった」と言った。不憫である。
「…」
父は無口だ。

翌日も母がお弁当を作れない日だった。またか。と思いつつ(父が作るくらいなら)いらないと言った。「購買でパンを買うわ」とお金をもらって鼻息を立てながら家を出た。

その午前中、なんだか悪いことをした気がして学校の公衆電話で父に電話をした。父は二秒くらいで電話に出てくれる。
「もしもし、パパ、二時間目の終わり休憩時間に学校の前で待ってるから弁当持ってきて」父は「分かったよ」と言い電話を切った。

休み時間に学校の門の向こう側にお弁当を持った父が立っている。
なんかえらいたいそうな紙袋に弁当入ってんなあ。ーと思った。

それを教室に持ち帰り、机の横に袋を掛ける。
授業が始まった。すると、やたらいい匂いがしてくる。多分だが、それは私のお弁当の匂いだ。授業中にも関わらず、クラスの男子が「うわ!待って待って待って、めっちゃ美味しそうな匂いすんねんけど!」と大きな声がクラスに響く。

私は赤面し顔を伏せた。キーンコーンカーンコーンとお昼休みの鐘が鳴ると一斉にみんながガーガーガーッと机と椅子を動かしてグループを作り、仲良し同士でお昼ご飯を食べ始める。一人で食べることはあまりなかったと思う。なんらかのグループを作ってなんらかの話をして一緒に飯を食う。一緒に飯を食うというのは相手を受け入れることでもある。一緒に食べないといけない理由などないけれど、食べないと拒否されたかと思う。わたしたちはだれかと一緒に食べることが好きだ。なんかサクッと相手のことを受け入れた気になれる。もちろんそんなことに気付かないし仲間はずれはけっこうやっぱりしんどい。ー

わたしは机の横に掛けておいた紙袋から弁当を取り出す。
なんとそれは鰻重だった。

匂いで興味津々だったクラスの子達がわたしの弁当を覗く。彼らは「めっちゃリッチやんけ〜!」と言うが、わたしにとっては生まれて初めて食べる鰻重だった。リッチと言う意味がわからなかった。ただ言えることは、父は鰻重というものがリッチということを知っている。

シャネルやスタバの袋を見栄を張るためにリサイクルショップで買うようなエコな子もいたクラスだったが、私も鰻重弁当で注目を浴びることは少し嬉しかった。見た目がいい。美しい。美味しいものに出会うのは縁だ。一方でまったく見た目がいいということに縁がないひともいる。わたしのような、笑ったら歯茎が出て乾くくらいやのに、歯茎が出るやつはプライド高い象徴やとか言われる。なんでやねん。

わたしは歯茎は目立っていたが存在は目立つタイプではなかった。と思う。足も遅いし。だが、水泳だけは得意だった。水の中に入る時は夢の中にいるようで自由に水に手足を、身体を水に委ねることが好きだった。競争は嫌いだった。美咲に誘われて途中入部した音楽部もコンクールやコンサートには出ることができず「吹き真似」をする補欠部員だった。自分が恐ろしいほどに下手という自覚はなかったが、吹き真似するくらいなら吹けたほうが楽しいやろな。とは思っていた。

それからメンバー入りすることができるようになると父はいつでも演奏会に来てくれていた。終わっても感想を言うまでもなく相変わらず無言で車で送り迎えをしてくれた。中学から高校の六年間、まちの小さな青少年会館などから、舞洲アリーナ、森ノ宮ピロティーホール、御堂筋パレード、大阪城ホール、あましんアルカイックホール、普門館、東京ディズニーランド。それから外国のどっかの国、パラレルワールド、ルネッサンス、ロマンチック、アフリカ、バブル期、マチュピチュ、サントリーニ島、ホワイトヘブンビーチ、過去、現在、未来。

わたしが演奏で悔しい思いをした時には帰りに喫茶店へ美味しいものを食べに連れて行ってくれた。ズル休みで早朝に喫茶店に寄ってから学校に行ったこともある。不道徳教育。体力を使うマーチング練習の帰りには、わたしと友達分のおたふくソースとマヨネーズがたっぷりかかったスタミナがつきそうなキャベツ焼きを買ってから迎えに来た。

父が死んだ時、ひとりの友人が「マイのパパ、いままでほんまありがとう。これあの時のキャベツ焼きのお代やで」と言いお供えをした。

幼い頃からきいていた「すぐ死ぬ」は割と早く来た。いや遅かったかもしれない。


なにかを書こうとかつくろうと思うとなんかしらんけど感傷的になってしまうのはなぜだろう。実際はあいまいな記憶を辿ってなんかしらの理由をつけてこうやって文章にしてしまう自分自身の勝手さと衝動と欲求と癖の塊。それだけ。四半世紀生きてみてみたことときいたことと生きてきた事柄をこうやって心の底からここだけに留めておきたい。わかっておきたい。それだけ。今はまだよくわからないことが多いけれど、ずっとわからないままでいられるのはいつまでだろう。わかった気になってみてはじめてわからないと思える。それだけだ。いつかわかるときが来るのだろうか。

父と純粋に話した記憶が「拳の握り方」だとは思わなかった。本当に生前、父と何を話していたのか覚えていない。思い出す時がくるのだろうか。それもわからない。

最後に父と会った日はパリに帰る飛行機の出発日だった。早朝の電車に乗り遅れまいと急いでいた。わたしの家はビルみたいになっている。一階は母が経営する美容室、二階は貸していて、三階と四階が自宅になっている。病気をしていた父は四階まで上がるのがしんどいといって三階に母にソファーベットを動かしてくれと頼んで三階で柴犬サクと過ごしていた。母と父は二世帯住宅みたいな過ごし方をしていた。もちろん昔のように車も運転できない。
「もう行くからね!」と父に声をかけると部屋の奥の方から「行け。行け。」と二言、蚊の鳴くようなめっちゃ小さい声が聞こえた。父はめっちゃ声が小さい。これが父との最後の会話だった。

父の名前は「行く」と「生まれる」を組み合わせたものだ。行くところに生まれる。そう覚えてしまうと今でも「ゆきお」だったか「ゆくお」だったかと迷ってしまう。「行くところに生まれるものがある」と言っていたのを思い出すことがある。はっきりいって、行ってもなんにも無かったということが人生には沢山ある。でも、楽しみにしていたこととか、落胆したり怒ったり、拗ねたり、そういう感情も、持つことができたという事自体は自分のものになる。行った先に何もなくても【何もない】ということが【分かる】それだけだ。

父は病気をして性格は随分と変わった。母に当たり散らしたり、普段は弟から連絡くることは滅多にないのに「やばいで」と連絡が来ていた。

わたしは「フランスにいるから」と真剣に家族と関わって来なかった。経済的にも厳しかったらしい。一方、私は好き勝手やっていた。クレジットカードを使い、残高を見なかった。いつもメールやスカイプで「ちゃんと食べてるか、元気か」と連絡が来ていた。両親は月末に届くカード明細の中からかろうじて読める「K-mart」という文字を見て安心をしていたらしい。当時住んでいた家の近くのフランス韓国系スーパーマーケットの名前だ。

そんな自己中心的な態度と連絡不精のわたしに痺れを切らした父はある日「お前のことはもう忘れた。娘がいないと思って生きていく。」と言った。

当時は「はいはい、またや、またや。」そんなかんじだったと思う。わたしはわたしで生きるのに必死だった。あらゆる手段で生き残ろうと思っていた。生き残るには食べていかなければならない。生き残るには美しくあらねばならない。生き残るには….。

時には友人や先輩の力を借りた。いや、借りたとは言わないのだろう。もはや借りパクだ。しっかりと奪っていたという感覚がある。時間や恩や信頼を。そして両親からはお金を。クレジットカードでもなんでも使えるものは使った。もらえるからつかう。ただそれだけだった。もらえることがプラスになるとは限らない。わたしの場合、たとえば穴があってそこに入ったら落ちるのに深さは誰かが入ってみないとわからない。行くところに生まれるかどうかはわからない。と、そしてわたしは鬱になった。正式にはその診断はもう少し後になる。


父の葬式があった。近所の火葬場に母が問い合わせ、神式でできることを願った。
昔、父はわたしに「うちの宗教知ってるか」と問われることが一度あった。
「なに?いきなり」宗教なんてぜんぜん興味ないしなんでもいいわ。神さまも信じてないしおらんってことくらい知ってるわ。ーと思っていた。

「天皇陛下とおんなじやねんで。誇りを持ちなさい。」と言われた。「なんでやねん。天皇陛下とおんなじやからなんやねん」と答えたが、そういう一面が父にはあった。

バブル崩壊後に産まれた子どもあるあるだと思うが、両親の家のテーブルの上には札束が山程乗っかっていて、その札束を持って買い物に行く生活をしていたらしい。バブル崩壊後の90年代、わたしたち家族は集合団地に移り住んだ。引っ越しを三度くらいした。両親はゴミ拾いをして、臭くて汚れた身体で私を保育園に迎えに来ていたらしい。団地生活では毎晩夫婦喧嘩が耐えなかった。わたしたち家族だけではない、夜中に喧嘩する隣人の声も日常茶飯事だった。わたしは寝室で「神様、お願いやからもうやめさせて」と祈ったことが何度もある。そして父が死んだ。

神様ってなんやねん。天皇陛下とおんなじ宗教やからってなんやねん。ーと思うと同時に父の持っていた信仰心ということについて長く考えている。なんやねん。ーと反発し腑に落ちないと思うことも、なぜかと。信仰心は信じる儀式を繰り返すことによって人格や性格の内部に少しずつ形成されてくる。しかし理屈を超えて信じることが必要なのは確かだ。

火葬葬場祭は、故人に最後の別れを告げる、神葬祭最大の大切な儀式だ。神職により祭司が奏上される。父は骨になって粉になった。でっかい物体がこんなに小さくなった。柴犬のサクの写真も一緒に焼けてなくなった。その後、私たちは葬式をした場所の前にある人気の焼肉屋に食べに行った。

韓国から祖母が来ていたのもありせっかくならと行った焼肉屋。めっちゃ美味しいで有名な焼肉屋でおすすめが肉。カクテキと激辛クッパが美味い。

泣きながら食べた。焼肉をたらふく食べた。なにも喉が通らない二日間だった。店を出て、口をすぼめて歯と歯の間に挟まったカスを舌で押し当て音を立てる。焼肉屋帰りに爪楊枝を使うなんてジジくさいと思っていたが今のわたしの顔のほうがよっぽどだ。

帰り道、まだ泣くわたしに韓国の祖母が日本語で「みて、月」と空を指差した。わたしは上を向いた。

泣いていることを忘れる瞬間があった。
「みて、月」という瞬間をつくること。
これはわたしが母になって気付いた正真正銘の親の知恵なのだ。

幼少期に何度も何度もこうして泣き止んだはずなのに、大人になっても引っかかる。

父はいいひとだった。やさしいひとだった。
たまに思い出す、無口で、学校の前で鰻重弁当を持った父。

2023年11月28日 再編集 【エッセイ・父】
toyamai essay 2023

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