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個性を抑圧しなくても素晴らしいアンサンブルはできるはず( #今朝の一言_ラッパの吹き方 )

出る杭は打たれるとか、統制とか規律とか、戦後何年経過してもずっとその風潮がそこかしこに残っている日本。

特に教育現場は未だに同じ教室で大勢が同じことを同じように学んで、同じ生活をして同じように結果を求められ評価され続けていることが多くて、確かに効率的かもしれませんが、それで個性的な人間が生まれるとは思えません。そもそも人間は造りも育ち方も環境も価値観も違うのは当たり前なのに、効率的統制のために個性を潰しているのがどうも納得いかないのです。

全員を発想力や創造性を抑えて指揮官の言うことに従って動いていれば、外から見て統制された団体であると認識されます。しかしこの時、それを構成している個々の人間の個性は単なるパーツでしかなく、果たしてこれが人間的な表現と言えるのでしょうか。

そこで音楽のお話なのですが、学校での吹奏楽や合唱などに強く感じる「引き算的発想による統一感」に違和感を覚えることがあります。

例えば、「音をブレンドする」という言葉。これすごく気になるワードで、確かにブレンドには「組み合わせる」という意味もありますが、多分多くの場合は「コーヒーにミルクを混ぜ合わせて他の飲み物にするイメージ」が強いと思われます。で、みんなでしゃばらないように音や表現を縮小化していく。特に2ndや3rdの奏者にその傾向が強いです。

僕としては、合奏やアンサンブルにおける音は、奏者それぞれが素晴らしいサウンドを追求し、発揮して、それが組み合わされた際に生まれるオンリーワンなサウンドを作るべきだと考えます。

そもそも音色というものは楽器やマウスピースによってほぼ決定されていて、人間はその楽器の持つ音色を発生させるために存在しています。自分の体で音を作り出してしまったら、どんな楽器でも同じ音がするし、言い換えればこれは楽器の持っている音色を無視しているわけで、響きが損なわれたり、ピッチが不安定になるなど良いパフォーマンスは望めません。

このように音色ひとつ取っても個性を潰してしまえば様々なリスクが生まれるわけです。

アンサンブルにおける引き算的発想は、楽団としての統一感を作り出すことができても、そこに個性は存在しません。そんなプログラミングされた機械のような演奏をしていることが果たして教育的にもどうなのか、疑問が残ります。

個性を主張して、一緒に演奏する人たちお互いがその個性を認め合い、作品を完成に導く方向性を全員で共有して、みんなで演奏することで個性を潰さなくても生きた素晴らしい音楽は作れるはずです。

中学高校の吹奏楽部経験者がとても多いのに、それ以降の人生で楽器にまったく触れなくなった方が圧倒的に多いのは、こうした抑圧された経験が心の中に残っているからではないか、と思っています。


荻原明(おぎわらあきら)

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