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『翠』 30

 ひさびさに実家の母から電話があった。

 若くしてわたしを生んでいる母は、今でも元気に暮らしており、年金暮らしになってからも、地域の集まりに積極的に参加するなど、寧ろ年を取るごとに、若返っているのではないかと思えるほど、精力的に活動している。

 随分前のことになるが、週に二回ほど通ってる地域の高齢者の憩いの場となっている〝すこやか交流プラザ〟という場所で知り合った同世代の人たちと、二泊三日の温泉旅行に出かけたらしいのだが、その際もみんなで卓球大会をしただの、そこで卓球歴何年のベテランの人から何点取っただのと、年甲斐もなくはしゃいでいたのだから、我が親ながら、さすがに呆れもする。とっくに六〇の還暦をこえて、七〇代も目前に控えているのだから、少しは大人しくしていればいいのにと思わないでもないが、いまだに毎日の日課であるウォーキングは欠かしてないみたいだし、寧ろ、父が亡くなってからのほうが、ますます元気になっているような気がする。父が生きていたころは、もう少し大人しくしていたような気がするが、父の他界をきっかけに、母の中で何かタガがのようなものが外れてしまい、もしかするとほんとに若返っているのかもしれない。

 そして、そんなわたしの父はというと、わたしが三〇代前半のときに早くに他界している。死因は肺ガンだったのだが、昔から職人気質でタバコも日に二箱は空けるほどの、ヘビースモーカーだったこともあり、亡くなったときの年齢は五〇代を、ちょっと過ぎたくらいだった。若くして亡くなった父と、父の死を境にみるみる若々しさを取り戻していく母。世間一般的に、男は奥さんをなくしてから一気に老け込み、その反対に女は旦那を亡くしてから、元気を取り戻すというが、真しやかに囁かれているそういう迷信も、強ち嘘ではないのかもしれない。

 まあ、父は先立たれているわけじゃなく、早死にしただけなのだが……。

「あんた、元気にしてるの? 全然、連絡もよこさないけど……」

 ほんとに心配してるのか、母が電話越しに明るく訊いてくる。

「元気っていうか、まあ、ふつうに生活してるけど……」

 母に心配をかけたくなくて、とっさに嘘をついた。

 べつに元気じゃないわけではないが、せっかく四〇代目前で、ほとんど滑り込みのような形で、結婚にこぎ着けたというのに、その嫁いでいった先で、こんな状況になっているのを、母には知られたくなかった。

 それが優しさなのか、見栄なのか、自分でも判らないが。

「ふつうって何よ。ふつうって……」

 電話の向こうで呆れるように母が、鼻で笑って失笑する。

「まあ、元気にやってるってことよ……。で? ところでどうしたの?」

「あーーー、そうそう! 忘れるとこだったわ! あんたにしておかないといけない話があったのよ!」

 と、思い出したように母が声を大きくする。

 とつぜん耳元で大きな声を出され、驚いて一瞬スマホを遠ざける。

「いや、そんな大きい声出さなくても聞こえてるって……」

「あー、ごめんごめん!」

 母の声が大きいのは、今に始まったことではないが、予期せぬタイミングで出されると、娘とはいえ、さすがに驚く。

「で? 話って?」

「あー、そうそう! 私ね……」

 勿体ぶるように、そう溜めを作り、

「結婚するの!」と突拍子もないことを口にする。

「は!?」

 驚きのあまり、思わず声が裏返る。熟年離婚は聞いたことがあるが、まさか熟年結婚とは。

「いや、だから、私、結婚するの」

 バカなのか、天然なのか、彼女がとち狂ったことを言う。

「いや、け、け、結婚って……、ど、ど、どういうこと?」

 あまりの爆弾発言に、気が動転して上手く言葉が出てこない。

 昔から、母がド天然なのは知っていたが、まさかその年で結婚をしようと考えているとは、発想が奇想天外すぎて、想像もしていなかった。母の思考回路が、まったく読めない。自分が何を言っているのか、判っているのか、ただの冗談のつもりなのか、いや、冗談にしてはぶっ飛びすぎている。

 一瞬、今日がエープリルフールかどうかを、思わず部屋の壁にかかったカレンダーで確認してしまった。

「あー、あのねー、このあいだ地域の人と、みんなで温泉旅行に行ったでしょ? そのときに、松下さんっていう男の人も、一緒に参加してたんだけど、どうも数年前に奥さんに、先立たれたみたいで、私も同じ境遇だったから、なんていうか、その場でその人と意気投合しちゃって、それから個人的に連絡とったり、何度かふたりで会ってるうちに、自然とそういう話になっちゃって、私も最初は今更って思ってたんだけど、向こうから猛烈にアプローチされちゃって、私もお父さんが亡くなってから、寂しいっていうの? ほら、夜、一人でご飯とか食べてると、なんとも言えない虚しさが込み上げてくるっていうか、孤独感に襲われるっていうか、せめて一緒にご飯を食べる相手くらいほしいな〜って思うようになっちゃって、このまま一人で孤独に余生を過ごすのかと思うと、それも寂しいし、それにこのまま一人で過ごしてて、万が一孤独死でもしたら目も当てられないでしょ? そうなるくらいなら、監視役に誰かが傍にいてくれたほうが、ずっとマシだし、それになんか、話してても、結構イイ人そうだし、まあ、イイかな? って……」

 まさか、母親の恋愛話を、この年になって聞かされるとは思っておらず、こちらが呆気にとられて言葉を失っていると、「え? 聞こえてる? 翠? おーい!」と、母の呼ぶ声がする。

「あ、ごめん……。あまりに、とつぜんのことで……」

 驚きを隠せなかったが、とりえずそう声を絞り出した。

「えーと、つまり、結婚するってことだよね?」

「んー、そういうことになるかな? まあ、あんたもようやく結婚して、肩の荷が下りたことだし、そろそろ私も自分の人生を取り戻すために、この辺で、第二の人生を歩もうかと思ってね……」

 あまりにあっけらかんという母の口ぶりに、何も言う気が起こらなくなる。

「ま……、まあ、お母さんがいいなら、べ、べつにわたしは口出しするつもりはないけど……。と、とりあえず、しっかり相手を見た上で判断してね。一緒に生活してみないと判んないこともあるんだし……」

 実際の経験則から出た、せめてもの助言だった。

「あー、大丈夫大丈夫! ちゃんとその辺の下調べは、集会所の人たちからしてあるから。なんか、悪い噂でもあるんだったら、その前に広まってるわよ。シニアの世間は狭いんだから〜。お隣さんがオナラをしたって、その翌日に町内に、その噂が広まってるくらいよ」

 そう言いながら、母が笑い声を上げる。勢いに押されて、なし崩し的に結婚してしまった私とは違い、その辺は抜かりがないようだ。

「ま、とりあえず、頑張って……」

「あら、ありがと。まあ、式は挙げないつもりから。また、その人と一緒になったら、あんたにも電話で知らせるわね!」

 冗談か本気か、つくづく母というものが判らない。

 そう言って、一方的に母が電話を切る。取り残されたような、そんな虚しさが、急に込み上げてくる。

 つくづく思う。ほんと、自由な人だ。

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