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『翠』 26

 少なくとも旦那への感謝の気持ちはある。

 べつにパートと言ってもほかのパートさんみたく、生活のために働いているわけでもない。独身時代のようにがむしゃらに働く必要もない。金銭面や生活面だけでいうなら、十分すぎるぐらい旦那には助けられてる。こうして趣味の延長戦のような感覚で、気楽に働けているのも紛れもなく旦那のお陰であり、そんなわたしは旦那にとって、養われてるだけの存在なのだ。

 もちろんそんなことを周りのパートさんたちに話せるわけもない。真っ先に批判の対象になるだろうし、「なに甘えたこと言ってんの?」「旦那の稼ぎだけで生活できるなら、私たちだって、べつに働いてないんだけど!」と、奥様方から集中砲火を浴びるのは目に見えている。どれだけ旦那から罵声を浴びせられようが、暴言を吐かれようが、この悩みは誰にも打ち明けることはできないし、旦那という存在から逃げ出すことのできる、唯一の居場所みたいなものだ。

 そして、そのためにも、このパート先に来るときだけは、なるべく地味な格好をするように心がけているし、ブランド物は身につけないようにしている。隠れ、擬態し、私生活を隠蔽することで、このコミュニティーから、追い出されないようにしなければならない。私にとっての唯一の居場所であるこのパート先だけは、絶対に守り通さないといけない。ふつうであれば自慢したくなることだとしても、私にとっっての〝ソレ〟は、ただの足かせでしかないのだ。

「来週、忘年会あるんだけど、麻倉さんも来れるでしょ?」

 そう声をかけられふり返ると、パート仲間の矢代さんが立っていた。

 このパート先でも彼女は比較的話しやすく、口下手なわたしでも、すぐに打ち解けることができた。パートに入りたてのときもそうなのだが、最初に話しかけてくれたのは矢代さんで、休憩時間が被ったときなんかに、積極的に向こうから話しかけてくれ、そのお陰というわけではないかもしれないが、彼女を介することで、新しい職場での人間関係にも、すぐに馴染むことができた。もっとも、そんな彼女は持ち前の明るさや、周囲への気配りも忘れない器量の良さが、このパート先で彼女が一目置かれる一つの要因でもあり、気がつくと彼女が話題の中心にいる。

 気配りもでき、その上、相手に関わらず、分け隔てなく接することのできる人格者とくれば、この職場でみんなから慕われているのも納得がいくし、だからというわけではないけれど、そんな彼女に対し、わたしは密かに憧れの気持ちを抱いていたりもする。もちろん、そのことを直接彼女に伝えたことはないし、今後も伝えるつもりもない。一方的にわたしだけが片思いのような感情を抱いているだけだ。

「あ、どうしよう……、え、えっと……」

 とくに予定があるわけではなかったが、あとで旦那から小言を言われる気がして、とっさに迷ったふりをした。

「あ、無理そう?」

 相手の顔色を窺うような彼女の聞き方に、

「いや、そういうわけじゃないんですけど……」と、一度、そう前置きをした上で、

「あ、あの……、主人に聞いてみないと判んないんですけど……、ちなみに、それって、いつですか?」と、それとなく飲み会の日程を確認した。

「えっとね。まあ、私たちはあまり関係ないんだけど、『なるべく棚卸しの日は避けてほしい』って店長に言われてるから、そうねぇ〜? その前の週の二〇日とか、どう? あー、まだ、確定じゃないよ……」

 わたしからすると不思議で仕方ないのだが、彼女には、そういった面倒見の良さみたいなものが、ごく自然に備わっている気がする。前回の飲み会のときもそうだったのだが、そのときも彼女が飲み会の幹事を任されており、誰も幹事をやりたがらないなか、「じゃあ、仕方ないから私がやるよ!」と、自ら進んで面倒な役回りを買って出ていた。まず、わたしにそんな役回りが回ってくることはないので、心配する必要もないとは思うが、わたしに飲み会の幹事を任されようものなら、確実に飲み会の座席に閑古鳥が鳴くのは言うまでもない。

 わざわざ幹事をしてくれている矢代さんのことを思うと、本来なら返事を即答するべきなのだろうが、どうしても旦那の顔が頭にちらついてしまい、

「あー、わかりました。主人と相談してみて、それから返事してもいいですか?」

 と、とりあえず返事を保留にしておいた。

「あー、べつに急ぎじゃないから、そんなに慌てて返事しなくてもいいけど、一応、飲み会の予約のときに人数だけは確定させておきたいから、来週までには、返事を訊かせてくれるとありがたいかな? ていうか、ぶっちゃけ、なるべく来てほしいって言うのが、わたし的には本音かも……」

「え? 何でですか?」

「えー、だって、ほら、麻倉さんいないと店長があとでうるさいから」

「え? そんなことないでしょ〜」

「そんなことあるよ〜、麻倉さん店長の居ない飲み会に来たことないから、そんな呑気ななこと言えるのよ〜、このあいだの夏の飲み会のなんか、ほんと最悪だったんだから〜! もうね、子どもよ! 子ども! 六〇超えたいい年こいたオッサンが、『なんで、麻倉さんがいないんだ〜! おれは聞いてないぞ〜!』って、あれなら、よっぽどウチの小学生の息子のほうが、大人びて見えるわよ……。ていうか、ウチの子は年の割に増せすぎなんだけどね……。逆の意味で、もっと子どもらしくいてほしいものだわ。何か言えばすぐ、理詰めで言い返してくるし、もう、ほんと可愛くない! あ、ごめん……。何の話だっけ?」

 自分の話に迷走していたのか、今まで脱線していた話を、急に軌道修正してくる。

「あー、えっと、店長がどうとかって……」

「あー、そうそう! つまりね、あの店長、ぶっちゃけ麻倉さんに恋しちゃってるみたいなの!」

「は?」

「『は?』じゃないから! ていうか気づいてなかったの?」

「あー、まったく……」

「ちょっと、どんだけ鈍感なのよ! 麻倉さんが品出ししてたら、用もないのにわざわざ近くを通ったり、レジ打ちに回ってたら、『なんか、困ったことないかぁ〜?』なんて、わざとらしく声かけたり、もうね……、オキニとか、そのレベルじゃないから! ゾッコン? 骨抜き? あれは恋ね。恋……」

「はー……」

 実感の籠もってない相づちに、思わず彼女が呆れたようなため息をつき、「何言ってんのよ〜?」と、さらに捲し立ててくる。

「パートさんのあいだでは、かなり有名は話よ! てか、まかさ、当の本人が気づいてなかったとはね……、とくにこの職場なんて、おばさま連中の集まりなんだから、そういうゴシップていうの? 女ってそういうスキャンダル的な臭いのする話題に、とくに目がない生き物なんだから、なんなら、その話題で一日持ちきりなくらいよ! もうね、あれは〝本能〟ね……。うん……、間違いない! 餌に群がる〝ハイエナ〟みたいなものよ……」

 そう言いながら、彼女は自分の言葉に深く頷きながら、こちらの存在など忘れてしまったかのように、そのまま自分の世界に浸ってしまう。

「えーと……」

 口を挟むタイミングを失い、恐る恐る声をかけると、

「あー、ごめんごめん!」と、とつぜん我に返った彼女が、「とにかく! 麻倉さんが来てくれないと大変なことになるのよ! だから、お願い! なるべく……、いや、絶対来てね! 頼んだわよ!」

 と、こちらの返事も待たずに、自分の話を押し切ろうとする。

「え? ちょっと……」

 反論しようと声を出したときには、もうすでにそこには居らず、自分の発した言葉だけが、虚しく響いていた。

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