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『翠』 27

 その夜、旦那が帰るのを待って、忘年会のことを相談することにした。

 ふつうであれば、なんてことない会話のはずなのに、思った以上に旦那の機嫌が悪く、とても言える雰囲気ではなかった。見るからに仕事で嫌なことがあったのは、こちらから話しかけるまでもなく、すぐにわかった。帰ってきてからというもの、何かにつけ気に入らないことがあると、頻繁に舌打ちを繰り返しており、いつにも増して機嫌が悪いのか、言動がいちいち刺々しい。

 こちらに当たられてもしょうがないが、そこで何かをいうと、火に油をそそぐような気がして、敢えて、こちらから触れないようにしていた。なるべく平静を装い、必要以上の会話をしないようにしていた。少しでも余計なことをいえば、相手の逆鱗に触れ、手を出されかねない。

 義娘の陽菜が帰ってきているのは、夕方、この目で確認しているので、まさか無人なわけではないはずなのだが、誰も居ないみたいに、二階からは物音が聞こえてこなかった。おそらく、二階で息を潜めているのだろう。

 旦那からの無言のプレッシャーで、思うように話しかける内容が浮かんでこない。話しかけないといけないと、思えば思うほど、余計に気だけが焦って、つい思考が空回りしてしまう。

「お疲れ様、仕事はどうでしたか?」

 場を取り繕うための質問だった。

 見れば分かるし、わざわざ聞くまでもなかったが、何か言葉を発していないと、息が詰まって仕方なかった。

 そして、旦那は出会ったころとは、まったく印象が違う。第一印象は良くも悪くもなく、ただ、素朴な人というだけで、そのあとも熱心にアプローチを続けてくれていたこともあり、それなりに好印象ではあったのだが、今では、ただとっつきにくいだけで、まさに〝釣った魚にはエサをやらない〟とは、このことなのだろう。

 いや、わたしだって、そのくらいの予備知識は持っていたし、男はそういうものだという自覚はあった。ただ、それは〝耳にしたことがある〟というだけで、実際に実感したわけではなかったし、〝そういうものだのだろう〟という、浅い知識を基準に理解していたにすぎない。詰まるところ、わたしの恋愛経験が乏しいというだけと言ってしまえば、ソレまでのことなのだが、こうして、そういう男を実際に目の当たりにしてみて、改めて思う。ここまで人というモノが、変わるものなのかと。

「は? 見りゃわかんだろ! これが上手くいってるようにみえるか?」

「あ、はい……。ごめんなさい……」

 謝ったというより、ほとんど条件反射で出た言葉だった。

 たぶん、自分でもこうなることはわかっていたし、相手の神経を逆なでする質問なのは、少なからず理解はしていた。けれど、どこかで相手に期待している自分も、同時にいた気がする。

 和解をしたいとか、理解し合いたいとか、そういう薄っぺらいモノではないが、少なからず同じ空間で生活をしている者同士、ふつうに会話ができるだけの関係は、最低でも保っていたかった。

「まあいいや……。ビールある?」

 彼なりに感情を抑えようとしているのか、呼吸を整えるように一拍おいてから、舌打ち混じりにそう訊いてくる。

 あらかじめ冷蔵庫で冷やしておいだビールを旦那に渡し、途中だった洗い物に戻ろうとすると、わたしからビールを奪いとるなり、こちらには目もくれず、その受けとったビールを、カッと喉へと流し込み、「ありがとう」という言葉すらないまま、三五〇mlのビールが秒で空になる。

「このあいだ部署異動で配属になったばかりの森崎がよぉ〜! マジやらかしてくれたよ!」

 こちらを見ずに、とつぜん旦那が、そう愚痴をこぼず。

 機嫌が悪いときはとくにそうなのだが、大抵であれば、こういうときに旦那から話しかけてくることはないのだが、まさか、ほかに人も居ないのに、この状況で独り言など言うはずもない。

「え? 森崎さんって、あの新卒で入った……」

 ひとまず、洗い物をする手を止め、旦那の話に耳を傾けることにした。

「そう、そいつだよ! 俺が一年がかりで、纏まりかけてた商談をよぉ〜、全部パーにしてくれた! マジやってらんねー!」

 空きっ腹に、急にアルコールを流し込んだせいか、まだ一本目だというのに、すでに酔いが回ってきたらしく、徐々に饒舌になっていく。

 機嫌が悪いことに変わりないが、まともに会話が成立しているだけ、まだいくらかマシだった。

「それは大変でしたね……。一年もかかったのに、台無しにされたんじゃ、怒るのも無理ないわよ」

 ヘンに刺激したくもなかったので、なるべく耳障りのいい言葉だけを選んで、慎重に声をかけた。

「ほんと、そうだよ! 少しは使えるようになってきたかと思って、ちょっと一人で仕事任せてみれば、案の定、これだからな! マジ最悪だわ! やっぱほかの部署でも仕事できないヤツっていうのは、どの部署に行っても使えないってもことだな! まあ、今回は俺に見る目がなかったってことだろうけど、少しでもあいつに期待した俺がバカだったわ! とにかく明日は朝一で、そいつ連れて先方に謝罪に行かないといけなくなったから、今日は風呂入ってメシ食ったら、早めに寝るわ……」

 珍しくわたしに愚痴をこぼしながら、洗い物を再開したわたしに絡んでくる。

 いつの間にか、二本目のビールに手を出しており、さっきよりも酔いが回ってきたのか、もうすでに呂律が怪しい。缶ビールを垂直に傾けると、残ったビールを一気に飲み干してしまう。早くも二本目のビールが空になる。

「クソッ、もう空になった……」

 まだ腹の虫が治まらないらしく、不機嫌に悪態をつきながら、流れ作業のように、次のビールを手にする。

 忘年会のことを言おうか迷ったが、どのタイミングで切り出せばいいのか判らず、横目で相手の顔色を窺っていると、

「え? なんか言いたそうだね?」

 いつになく旦那のほうから、話をふってくる。

「あ、あのね……」

「なんだよ。早く言えよ」

 勿体ぶるような言い方をするわたしに、彼が3本目のビールに口をつけながら、そう急かしてくる。

「あー、えっと、来週のことなんだけどね……」

「え? おん……」

 こちらをチラ見して、てきとうに返事をする。

「うん、あの、パート先のことなんだけどね……」

 なかなか本題に踏み切ろうとしないわたしに、少し苛立ちながら、待ちきれないようすで。「だから、なんだよ! さっさと言えよ!」と、さらに旦那が追求してくる。

「あ、ごめん……。忘年会のことなんだけど……」

「あ? 行ってもいいかって?」

 グズグズ話すわたしに堪りかねた彼が、先読みして訊いてくる。

「あ、うん……。その、どうしてもって、パート先の人にお願いされちゃって……。なんか、断りづらくて……、あの、やっぱ、ダメかなぁ?」

「あーーー、条件がある」

 旦那はきっぱりそういうと、

「1つ目に、〝家のことを疎かにしない〟。2つ目に、〝帰りが遅くならないこと〟最低でも電車のあるうちに帰ること。んで、三つ目は……」

 と、条件を一つ一つあげていく。

「三つ目?」

「あー、三つ目……」

 焦らすように、タメをつくってから、

「もし、男をつくったりしたら、判ってるだろうな? ただじゃ済まさないからな!」と、言葉に凄みをきかせる。

 思わず、志田さんの顔が、脳裏によぎっていた。と同時に、こちらを恫喝するような口調に、一瞬、からだから血の気が引くのを感じた。

 べつに彼とどうにかなりたいとか、そういうことを期待しているわけではなかったが、予想もしていなかった旦那の言葉に、ハッとさせられた。

 思いがけす旦那からの三つ目の条件を突きつけられ、こちらが困惑していると、

「え? なに?」

 と、訝しげな顔をする。

「あ、ううん、なんでもない……」

 目の前できょとんとしている旦那に、さらに続けた。

「大丈夫……、ちゃんとわかってるから……。心配しないで……。言われたことは、きちんと守るし、男なんて居ないから……」

 どこかで自分への戒めも込めた言葉だった。

 少しでも油断すると、こちらの動揺が相手に伝わりそうで、なるべく相手の目をみずに答えた。

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