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綱川哲郎|瞑想と対話
2022年4月8日 09:10
初期の仏教の教えを継承しているとされる上座部仏教(テーラワーダ)では、悟りに至る智慧を段階的に示している。「清浄道論」という注釈書では、その悟りの智慧(洞察智)は13段階ある。この智慧のプロセスは、スピリチュアルの「目覚め」ととても似ているように思う。そして、この目覚めから、その後の悟りへのプロセスも示されているため、ここでそれらを解説をしてみたいと思う。まず第一の智慧は「名色分離智」
2022年4月9日 08:52
仏教の解説に、「世界は苦しみである」というものがある。しかし、もしこれだけでは木を見て、森を見ずというものだ。なぜなら、それは「四つの聖なる真理」の内の一つにすぎないのだから。それら四つをまとめると、このように言える。「世間の人々は、常々不満を抱え、幸福を追い求めている。そして、あるときは幸福を感じるだろう。しかし、やってきたものは必ず去っていく(無常)。不満を抱えることも、幸福を追い
2022年4月10日 09:00
知るとき、なにをもって知ったと言えるのか?例えば、心とはなにか?と問う。しかし、このように考えていっても、知ることができない。【「〇〇とはなにか?」の問いの限界】それでは、次に心ではないものはなにか?と問う。例えば、身体である。そのようにして考えていっても、まだ知ることができない。なぜなら、これらの問いは延々と続いていってしまうからだ。どのようにでも言えるものが、どのように確
2022年4月11日 08:42
スピリチュアルと宗教はどのようにつながっているだろうか。しかし、宗教とイエスの教えは同じであるとは言えない。【信仰≠信じること】新約聖書の福音書を読んでみると、世間で知られるキリスト教とはずいぶんと異なる印象を受ける。福音書において、イエスはなにを語っているのだろうか?イエスは二極化についても語っている。この二極化はいつの時代にもあったのかもしれない。そのことについて、考えてみよう。
2022年3月23日 08:55
マタイの福音書の山上の教説では、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えられる。これは、一般的な直感に反するように感じるかもしれないが、良心に従うということだ。この意味について考えてみたい。まずその部分を引用する。「目には目を、歯には歯を」とは、ハンムラビ法典の刑法の原則だ。この意味からまず考えていこう。これは、近代刑法でも有効な原則である。これが示す
2022年3月22日 09:04
信仰とはなにか?信じることだろうか?世間の人々はそのように言うかもしれない。イエスの生きた時代、ユダヤ人はユダヤ教徒であった。アブラハムの神を信じ、戒律もある程度は守っていたことだろう。しかし、彼らに対して、イエスは信仰がないと言う。また律法学者などに対しては、偽善者とまで言う。つまり、イエスの言う信仰は、信じることではないのだ。ところで、この信仰という翻訳は誤解を生むと、宗教学者
2022年3月20日 09:01
「不殺生(アヒンサー)の誓い」と、「最強を求める戦士」は一見相反しているように見えるが、同じ原理が働いている。その原理とはなにか?僧侶は、不殺生(アヒンサー)の誓いを立てる。「生き物を殺さない。他の生命を傷つけない」と。これは戒めとして、ただ守るべきルールではない。その本質はなにか?それは、虫一匹殺すことができないほど、「無力になりきる」ということだと考えられる。僧侶(出家者)
2022年2月15日 21:23
社会的な宗教では、死を問題にし、いかに生きるべきかを教える。つまり、「いかにして幸福に死ぬか」を教える。真理には、問題はない。そして、原因を問うことで、問題以前に向かう。人は、生まれ(原因)によって、死ぬ(結果)。では、永遠の生命とはなんだろうか?生まれたこの肉体が朽ちることなく永遠に維持することはない。それどころか、一生のうちに何度も全ての細胞は入れ替わる。「その身体は私だ
2021年1月11日 14:51
仏教とキリスト教を比べるとき、ブッダとキリストを比べたり、仏と神を比べたりするのは目にしたことはあるが、涅槃と神の類似についてはほとんど指摘されていないのではないだろうか?そもそもこの涅槃や神とはどういうものか、それを語ることは難しい。難しいどころか、本来それらは語り得ぬものでもある。しかし、中身ではなく、涅槃と神を成り立たたせている原理的に明らかなことを比べることでその類似性を考えてみたい。