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自分のこれまでの歴史を振り返ってみた - 自己紹介の代わりとこれからのキャリアの展望にかえて

今年45歳になる昨今、これまで20年間の自分がやってきた仕事の振り返りとここから先の目標や仕事のやりがいについて考えることが多く、いろいろな本や書籍を読んでいます。

その上で自分なりのこれまで仕事の世界でやってきたことの外側にあるもの、やりきれたことや充実感の根幹を、学生時代から年代別に「文脈的」に整理してみました。

インターネットによって、今日は「誰しもがやりたいことをやれる時代」「クリエイティブが大衆化した時代」です。

だからこそ、プロデューサー・クリエイター・経営者としての個別機能の役割を単に提供します、だけでは若いうちや時流に乗っているときはよいのですが、もはやそれだけで最前線で仕事をし続けていくことは難しい時代なわけで、そうした役割の個別機能に至る文脈的な価値みたいなものを見つめ直してみようと思いました。

これにあわせて2000年〜2015年まで起業家としての自分を振り返った過去のブログをnoteに持ってきて転載しておくことにしました。

多分全く話したことがない話から含めて書いてあります。にしても「自分の人生のこれまでを振り返る」というのはエンターテインメントの宝庫ですね。

自分の定量的な紹介はabout.meにありますので初めて見たという方は参考程度にどうぞ。

1.10代になる前の頃

小学生の頃に遡りますが、愛知県の豊田市に近い名古屋の郊外で育った私には2人の仲良い友達がいました。

一人はお父さんがテレビ局のディレクターをしていて、一人はお父さんがトヨタ自動車の開発者でした。トヨタ自動車の開発者のほうの友だちは、お母さんが公文式の塾を運営していて小学2年のときからずっと通っていました。

どういうわけかこの二人に小学4年生の時に感化され、地元の学習塾に通うようになったのがすべての始まりです。

この塾の先生というのは、学校の先生や親とは違って、ぜんぜん違う角度から物事を教えてくれる。単に勉強するのではなく、世界が広がる感じがして、次第に塾に行くのが楽しくなってきました。

小学六年になる少し前、公文式のほうの友だちが、毎週土曜に河合塾に行くと言い出しました。

当時の自分にはなんのこっちゃよくわかりません。

親に聞いてみると、それは名古屋市の中心にある学習塾であることがわかりました。その後、どうしてもその塾に行きたくなってしまい、後付で中学受験の理由を作って、塾に行かせてもらえることになりました。

小学校のある場所から一人で電車に乗ってでかけたことがない自分にとって初めての大人の世界です。世界が広がる感じがして、毎週土曜日が楽しみになりました。

その後、受験も差し迫った年末(1987年末)に、河合塾でテレビ局の取材を兼ねた年末年特訓講座がある話を聞きました。

聞いてみると東海テレビ(フジテレビ系列)の中継が入るとかで、東京のフジテレビのマークのついたグッズが貰えて全国放送に映るかも、というのです。

テレビに映る。小学生の自分としては異次元の世界です。東京のテレビ局というのも好印象です。理由は後付でもなんでもよくて、何か世界が広がる感じがしたのでどうしてもその特訓講座に参加したくなりました。

「もし万が一テレビに写ってしまうと、翌年の中学受験のときに落ちたらかっこ悪いしいじめられるかもよ」と思いとどまらせることを両親から言われましたが、無理やり申し込んだら、特訓講座に参加出来、年末まんまと中継にドアップで映り込んでしまいます。

たまたまそれを見た親戚から電話がかかってきて、翌年小学校に登校すると「たかしくんは、中学受験するんだ、全くすごい度胸だ、合格するか見ものだ」みたいな視線が浴びせられました。

結果的に受験に成功したので(合格確率50%だった)すべては万事丸く収まりました。

合格した電話を父親から受け取った日のことは今でもよく覚えていますが、中学は毎日電車に乗ってカトリック系の学校に行けることになり、ハイソな世界へ広がる感じがしてとてもワクワクしました。

名古屋の片田舎に育った自分は外部との接点や新しい世界が開けることに理由は後付で選択していった。そうしたレールを結局は親がサポートしてくれた。

2.10代の頃

中高一貫校に通っていた自分にとって思春期に入るぐらいにはすでに将来は「先生」になるものだと思っていました。

「先生」といえば、学校の「先生」か病院の「先生」ですよね。

小さいときからアレルギーの疾患を抱えていたので、自分が医者になって自分の病気と立ち向かうのだと思った時期もありましたし(それは40を超えた今でもどこかでチャレンジしてみても良いとおもっていたりしますが)、大学で教職過程を専攻して教員の免許をとり、どこかで教師となるという現実路線もあったので、そうなるものだとばかり思っていました。

とはいえ、中学のときに出会った社会科の先生の行動力に大きく影響を受けました。

この先生は少し危なっかしい先生で、教職員の労働組合を作ったりするような行動派の人でした。

当時の私立中学の教員というのは赴任がほとんどなくて、主義主張もなく表面的で毎年同じ授業を同じ学校内で繰り返している感じで刺激がなかったのですが、自分のリスクも顧みず行動力と弁の力で行動する先生にとても憧れました。

時代は昭和から平成に変わり、戦後社会の様々な矛盾が表に出てくる頃です。次第にジャーナリストになって、世の中の様々な姿をたくさんの人たちにありのままに伝えることで世の中の役に立ちたいと思うようになりました。

中学受験に合格して、父親にシャープのワードプロセッサーを購入してもらい、暇があれば自分の考えや文章をキーボードでまとめるようになっていきました。

作家ではないんだけれど、文字で仕事をしていく仕事に次第に憧れるようになりました。

よく学校で勉強したことをエッセイっぽくしてわざわざ印刷し両親に読み物として読ませたりしたことがよい思い出です。その接点が多分新聞記者だったりジャーナリストだったのだと思います。

そうしたメディアの仕事に携わるためには、実家の名古屋にいてはダメで東京の大学に行かなければと強く思うようになったのが高校生の頃です。

当時は村上春樹の小説を読んだり、カレル・ヴァン ウォルフレンの本とかを読んでいました。(村上春樹の小説に出てくる東京の地名や雑誌HotDogPressを読んで東京の80年代的カルチャーにとても妄想したものです)

自分にとっての中高時代とはニュースステーションなどのテレビの報道番組が影響力を持つようになった時代で、自分も久米宏みたいに、キャスターとジャーナリストの間のようなことがやりたいなあと強く思うようになった、そんな時代です。

大学の学部については、東西冷戦が終了し価値観が多様化していく中で、何か特定の学問を勉強するのはダメで、学際的な勉強と社会の仕組みを学びたいと思うようになり「社会学」に興味を持ちます。

本当は一橋大学に行きたかったのですが、一浪して慶應に入りました。

あとどうしても大阪・京都・名古屋ではなく東京に出たかった。

これがわざわざ浪人してまでもして東京の大学にこだわった一番の理由。バブル経済が崩壊し、東京の私立大学に行く流れが急速に変わる時代で地方の国立大学のほうが今後価値が出ると言われた時代です。

しかし何を学ぶかも重要だけど「住む環境や街の刺激」は20歳前後の多感な時代を過ごせる人生で一度きりのタイミングなんだしと思い、奨学金を借りてでもどうしてもワクワクする東京に出たかったのです。

これを母親にかなり反対されても最後まで応援してくれた父親には今でも感謝しています。(自分の父親はもともと東京の芝浦出身で25歳ぐらいで名古屋にやってきた人です)

小さいときからワープロで物書きをしていた。
東京に憧れるよくある地方学生、恩師は中高の社会科の先生
大学では社会学を学び世の中の仕組みを広く知りジャーナリストになるのが夢

2.20代前半の頃

大学に入ってからは様々な意味で常識が裏切られました。

日本各地からやってくるとんでもない秀才たち、弁護士や会計士を目指してストイックに勉強する人たち、どう考えてもお坊ちゃんだろうと思われる家系からすべてが異次元の人たち、テニサーで女子大と合コンばかりしているチャラ系な人たち、これらが全部いる、それが慶應です。

そして定期テストがあるのですが、定期テスト対策本が販売されたり、普段勉強してなさそうな人たちが急にテストのときだけ人格が入れ替わったりする。

とにかく実家で暮らしてきた高校までの自分はなんだったのかと思いしらされました。

情報量と人々の多様性が異次元の大学キャンパスで自分はすっかり居場所を失っていまいした。

そんな中、同級生の多様性の根幹には「要領の良さ」「地頭の良さ」「遊びも一流だからこそときには真面目にやれる」みたいなものがあることがわかりました。

単に真面目に勉強したり、不真面目に気取るっているところを人間評価の拠り所にしてはいけないのだということを学び、自分も逆に振れてみようと思い、高校生の時とは全く違う生き方をしてみることにしました。

大学には行きたい時間に行き、興味を持った授業だけ受ける。

そんな中、インターネットとの出会いは、入所した新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)に手続きで訪れた部屋においてあった、マッキントッシュのパフォーマでした。

dos/v機とは明らかに違う異彩を放ってました。

これが私とインターネットとの出会いです。23歳の頃です。最初に見たホームページは宝塚歌劇団のサイトでした。

そのまま大学の後半は、当時ダビスタにハマっていたゲーム機も一切断捨離し、両親を説得して20万円の富士通のPCを自宅に購入し(このPCはどういうわけか母親が買ってくれた)、テレホーダイを契約してインターネット三昧でした。

趣味でホームページを作ったりしていたのが、大学の共済部にウェブデザイナー養成専門学校の学生アルバイト募集が目に止まります。

当時ワードやエクセルは使えなかったけど、htmlとjavascriptは使えたので即時で採用されました。

そうしたらネットバブルがやってきて、専門学校の仕事をしながら当時20万円ぐらいしたphotoshopのプロの使い方を教えてもらい(というか結局そこの学校は人材不足になり、photoshopやillustratorの講師もすることになった)ウェブサイトの構築一式が仕事で稼げるようになりました。

大学4年生のときには、元々ジャーナリストになりたくて大学に進んだ経緯もあったので、一通りは就職活動しました。

だた90年代後半のマスコミ就職といえば、相当なレベルでの激戦区。あまりよい結果にはなりませんでした。

そのうちにネット側の会社でちゃんとやっている会社はないものかといろいろ探し始め、サイバーエージェントがまだ社員20名ぐらいのときにそのまま就職してもいいかと思い面接を受けに行ったりしました。

当時の結論としては、ネットベンチャーは東京ですらまだ時期尚で早すぎるし、そもそもほとんど会社が存在しない、一方で既存のメディア側はネットのことを全く見ていない、ということでした。

時間稼ぎをすれば必ず時代は追いつくはずだと思ってみたはいいものの、どれぐらいの時間軸になるかはわからず途方に暮れます。

でも内定をもらっていた滑り止めの金融機関の内定を断って大学院に行くと行って両親や周りに啖呵を切り、たまたまテストに合格したので大学院に進みました。

その当時の自分の課題意識とは、インターネットは、これまでのマスメディアが権力を叩くためにあったはずの自らのメディア権力構造をインターネットが破壊と再生産を行う存在だといったものでした。

一方でインターネットの双方向性の分散的なユートピアっぽいエモさについても当時はよく思ったもので

「これは結局はネット側の誰かがビッグブラザーになるんでしょ」
「そのビッグブラザーにテレビ局の許認可事業みたいに税金かける話ですよね」

みたいな話をよくメディア論の授業とかでしたものでした。

そして将来どこかでジャーナリストになるにしても、20年後の世界はおそらくインターネット側の仕組みを自在に駆使できるような人が勝てる時代になっているはずだから、ネット側にもう少し関わるのがよいのではないかと思いました。

この時点で旧来型のメディアへの就職は諦めていました。別にインターネットが大好きだからやめた、というわけでもありませんでした。

そうこうもがいている間に、たまたまモバイルインターネットの会社の仕事が舞い込んできて、そちら側の業界にかじを切ることになったのが、25歳のころ1999年の秋の頃です。

当時は既に大学院に在学していましたが、仕事や業界の内容が目まぐるしく変わってくので大学院で興味のあることだけを勉強していくよりも、どう考えても面白すぎる世界で(しかも金が学生の自分的には異次元に稼げる)大学院を休学してしまいました。

仕事で働くことになるモバイルインターネットの会社がシリコンバレーのブラウザー企業だったので、仕事をしていく上で見晴らしがよく、そこで出来た人脈や経験は異次元だったし(上司は元ネットスケープの創業側の人だった)、シリコンバレーで出張するために、大学時代インターネットのことばかりが楽しくて卒業旅行もせずいて、慌ててパスポートを取得しにいくような当時でした。

海の向こうには無数のネットベンチャーがもがいていて、就職活動をしてみた東京のスタートアップとは違う光景がそこにはあったのでした。

さらにたまたま、その会社がアメリカのナスダックに上場してストックオプションや自社株購入の話に参加できることになりました。

なんのことかさっぱりだっりだったのですが、見様見真似で勉強して、ベンチャー経営とそれが成功したシリコンバレーのベンチャーの世界・アメリカンドリームの世界を身近に垣間見させてもらいました。

いつしか一度は自分でこういったことを仕掛けてみたいなと思うようになりました。

・大学はカオスだった。上には上がいる。自分の居場所に戸惑う刺激溢れる世界
・大学時代に出会ったインターネットが自分の人生を大きく変えてしまった
・ネットのことは何もないところから全部独学で勉強した。そして稼いだ
・ジャーナリストになる夢よりも、まず先にネットバブルがやってきてモバイルインターネットの世界に引き込まれてた
・日本のベンチャーも近くにあったが、そちらに進まず結果的にシリコンバレーの醍醐味をかじられたのはその後にいろいろ影響があった

3.20代後半の頃

その後その会社はすぐにやめてしまいます。

サラリーマンとして働く刺激のなさを感じてしまったのもあるのですが、自分で週末にモバイルサイト検索エンジンを趣味で始めいたものがどんどん大きくなり仕事のレベルになってきてしまったためです。

サラリーマンで働くよりも多くのお金がサイトの運営を通じて入ってくるようになり寝る間も惜しんでサイト運営をするようになりました。

途中で買収の提案が来たり、体調を崩したり、人に裏切られたりして、個人でやる限界を知り、やはり会社にして、外部の利害関係者を入れて自分の味方を作ってチャレンジするのがよいのではと思うようになりました。

業界の成長が一区切りして大学院に戻って単位を取得し卒業して起業しました。

大学院に戻った1年のときは、事業のことよりは今後モバイルインターネットはどうなっていくのか、みたいなことばかりを考える日々でした。

そこから先は過去に書いた起業日記に詳細があるのでそちらに大部分内容は譲ります。特に起業にいたるまでの話は今でもよく覚えていてなかなか感慨深いです。

起業したあとは最初は大変だったけど、モバイルインターネットの3G✕パケット定額制の時代の波がきたおかげで、市場が急速に拡大し何もかもがうまくいきました。

いまから振り返れば、それがいつしか「経営経験」となって変なプライドとなってしまったような気もしました。

一方で社長ブログを2004年ぐらいから始め(もともと社長になる前の2001年ぐらいからモバイルインターネット研究所というコラムサイトを作って勝手に情報発信していた)最初は経営の話は皆無で自分自身が中学生ぐらいから続けてきた文字による情報発信と自分と対話するアウトプットの場でした。

途中から自分の会社が追いかけてきた分野がモバイルインターネット業界の中心地となってしまい「無償で情報発信をする意味がない」「まわりに評論家ずらするのはやめろ」と言われてあまり表層的なこと以外のことを書かなりました。

ただ今から考えてみれば、それぐらいのタイミングから自分の視座というか心を掻き立てるものにあまり自信が持てなくなってしまったような気がしました。

ブログでの情報発信が縁で本を書いたり、逆にいろいろな情報が入ってくることになったり、買収の提案が来たりと、そこは今から考えればとても刺激的な場だったのです。

小さい頃からの夢だった情報発信を通じて世の中をよりよくしていくんだ、という思いはデジタル大陸側に移動しても強く思い続けていました。

ジャーナリストになって政治や世の中を動かすんだ、という思いが、この頃に活躍されていたライブドアの堀江さんになぞえて

「NHK総合に社名や自分の存在が正面から取り上げられる」
「普通の店頭に山積みされ図書館に残る書籍を出す」
「笑っていいともやビストロスマップにゲストで呼ばれる」

ぐらいの影響力がある素晴らしいネットサービスを生み出せるぐらい偉大な実業家になろうという思いに変化していました。(結局本を出すことしか叶わなかったけど)

・ネットバブルが崩壊、体調も崩し、しばらく距離をとって大学院に戻った。
・時間のゆとりが出来て、大学院に戻りメディアやインターネットの将来について考える機会ができたのはその後の視座の持ち方おいて参考になった。
・その過程で再びモバイルインターネットにチャンスが来る予感を感じ、卒業後会社を起業した。もともと個人で運営していたサイトがベースだった。
・メディアを作っていく、というよりは、事業としてそれをどういう視点で大きくしていくのか、ということに力を入れ経験していくフェーズとなった。
・探究心をもってネットサービスを作っていくというよりは、次第に経営経験が大きなウェイトをしめていくことになった。
・とはいえずっと続けてきた社長ブログの場が自分の考えや創作/事業着眼の整理の場となっていて、重要な存在だった。

4.30代前半の頃

30代前半はすごく雑にまとめると、苦労した20代の種まきがどんどん成果につながり、順調に進んでしまった部分と、そうして生み出された自分自身の虚構と自分の持つ本来の能力との間のギャップに自分の中で苦しみながらがむしゃらに生きるそんな時代です。

そのあと結果として、それがまさか自分だけが創業した会社を離れる形で着地し、その過程でプライベートでは結婚します。

考えてみれば20代で起業したのは、起業したくてしたというよりは、最後に思い残すことがないようにとりあえずやってみよう、でも少し早かったかな、という感じです。

が、しかし結果として同世代のネット起業の経営者はほぼ76世代と呼ばれ、ネット業界の中心地として活躍していったわけですし、チャンスもやってきてちょうどよかった。

30代にどれだけチャンスに恵まれ、チャンスを活かし、チャンスから何を刈り取るのか(お金か経験か)は、その逆算思考は今日においても大切な考え方なのではと思います。

自分の場合、30代前半で会社が急成長する過程で、お金や人材や組織にまつわる多くのことを経験しました。(特に人間模様)

大変な思いもたくさんありましたが、充実感を得られる経験もたくさんしました。お金も多少は得られた。

しかし逆に下積みがないまま、がむしゃらに走ってしまったので、途中まではよかったけれど、様々な思いやお金や現実などを取りまとめていくうちに、つまらない自分が出来てしまった。

自分は何のために走っているのだろう、と自問自答する場所も時間も次第になくなってしまった。これでいいじゃん、自分は幸せなのでは、人に任せよう、そういう感じにすべてのことがなってしまった。

そういうときに不思議と自分の場合、病気になったり、心が折れてしまったり、会社を飛び出したりしてしまったりする人生でした。今回も例外ではなかった。

多分今になって考えれば、自分に向いているのは、多分綿密な計画を立てて逆算思考で実行する経営者ではなく、時代/時代のトレンドの隙間からチャンスを見抜き、ネットを舞台としたウェブサービスのクリエイターのような立ち位置なのだろう、ということまではわかりました。

そしてその臨機応変なスタイルは「目隠し状態でも前に進まなければ明日会社は死んでしまう」ようなスタートアップ段階のベンチャー企業においてはそれ相応に走れた、ただそれだけのことだったのだと思います。

そして、そのベンチャー経営のすったもんだが一段落した、35歳ぐらいのときに、気がつけば結婚し、そこにはソーシャルゲームが目の前に立ちはだかっていたのでした。

・30代前半は20代後半から始めた会社としての事業家の姿をどこまでトレースし続けられるかの戦いを淡々とやっていた。
・しかし経営者としては一通り経験できたのでそれ自体が自分自身の根幹の大きな価値だと、勘違いしてしまった。
・度重なる厳しい局面などで、元々経営志向ではない自分とのギャップが解決できなくなり立ち位置を変えたりしてなんとか前に進もうとしたが、結果として会社を去ることになった。
・同時期に結婚もし、違う人生を歩んていく下地が出来た。

5.30代後半の頃

30代後半を45歳を迎える今どう位置づけるかは今後私がとる行動や文脈によって全く違ったものになってしまいそうで振り返りがとても難しいです。

ただどちらにせよ、変わらないことはあります。

この時期というのは30代前半の自分が乗り越えられなかった後悔部分をどうリベンジするか、人生の伴侶を得た上で「何をするかよりも誰とするか」「家族を持ちながらもどれだけ自分自身を鼓舞して人生にコミット感を出せるか」を意識して前にすすめるかが、テーマでした。

まず誰とするか、という部分については、長年信頼をおいてたメンターであるモブキャストの藪社長の元で結果が出るまでもがく決断をしました。

自分自身に過度にストレスがかからないようにしてくれた上でわかりやすい目標設定までしていただき前に走れた。

あとは家族との向き合い方です。

家族にはモブキャストにコミットするときに最初からもう一度チャレンジするときのためにと、事業資金を残した上で、会社の株を思い切って買いました。

あくまでモブキャストに参画したのは、30代前半の自分なりのリベンジという側面が強く、リベンジを果たしたあとどうするかまだ当時は全く先が見えなかったというのもありました。

だからおかげさまで、その後子どもが生まれて会社も上場して、一区切りついたときに、そんな自分自身の人生を大きく変える舞台となった会社を卒業するというのは自分の中では規定路線でした。

退任する1年以上前の当時、私が会社を去る決断をしたとき嫁は賛成も反対もせず、ただ何も言わなかった、です。

もっともそれを意識しすぎてしまったためか、次の人生は、最初に会社ありきで事業計画を考え、会社を回すための事業にしてしまった、というのが、40代中盤を迎えた当時の振り返りとしてとても反省しています。

・30代後半はリベンジと20代からこれまでのネット業界に振り切った時以降の人生の集大成のような5年間だった。
・無事結果を出せたので、もう一度チャレンジする機会が出来た。
・家族にはいろいろと心配も書けたけど何も言わずについてきてくれた。

6.40代前半の頃

この時期の総括を45歳になる今するのはとても難しいので、5年後ぐらいにしたいなと思います。

ただ、事業よりも会社ありきで始めてしまったこと、事業ピポット、というこれまでにない経験を、様々な経営経験をしたのちに、自ら課してしまったことはとてもよい経験であったとともに、とんでもなくプレッシャーがかかる経験となりました。

結論としては「ピポットを気軽に語ることだけは是非やめていただきたい」「経営経験はときにとんでもないプライドとなって自分自身に襲いかかってくる」とだけは書いておきたいと思います。

7.まとめ、これからについて

このように文章にまとめてみると、私のセルフブランディングっぽいものは下記のような形になるのではと思います。

①自分は情報発信や世の中に事業を問うことで自分の存在意義を見出すことに人生をかける人間である。(わかりやすい意義やストーリーがある事業やサービスを考えることが人一倍好きで、そのためにはどんなこともやりきる覚悟が持てる)
②ネット側中心の人生設計であるが、もともとは情報発信や世の中に影響を与えることのための手段として身近にあったのがインターネットで、技術優位な話ではない、ということは理解できるし、そのあたりの勘所には自信がある。
③ネットサービスの技術の潮流はすべて独学で、新しいものは勉強しながら血肉にしてきた。今後取り組むべき新しい技術についても、どれを追いかけるべかの目利きや潮流のセンスには自信があり、使いこなせるかも特に心配していない。
④文字に落としたりして状況を棚卸しすることが比較的得意。個別要素の点の話を物語にしてつなげたり、後付の戦略にしたりすることも得意。
⑤情報や状況の相互の非対称性の中からサービスや事業のヒントを見つけることが得意。究極の本質志向についてはそういうところが根幹だと思っていて、勘所はつかめている。人の心の持つ機敏さだけは苦手。

そして行動形式は、毎回

・自分自身の将来につながる「新しい展望が開けそうな」選択肢が、たまに唐突に出現
・理由は後付でもいいからまわりから無茶だと言われてもその選択肢を選んでしまう
・あとから帳尻合わせて死ぬ気で走る

です。これからの時代だと「新しい展望が開けそうな」とは

・ネットに閉じた世界の外側にあって、元々自分がネット業界に傾倒する以前からやりたかったジャーナリスト的な多くの人々に情報やコンテンツそのものを伝えていくことや、それ関連の何かにつながること
・ネットの中に閉じた世界では、もっとネット的なもの(voiceやタッチディスプレイを超える三次元的ななにか)

などの方面からふってくる何らかのチャンスなのだろうと思います。

ただ、これまでの経験上だと、それは技術優位なものであることは多分ないんだろうなと思います。(枯れた技術や組み合わせの何か)

この記事は「投げ銭」記事です。ポジティブにお金が回る仕組みにしてみたいと思いました。記事をおもしろいと感じてくださった方は「投げ銭」をよろしくお願いします。