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ADHDについて。

お疲れ様です!オーストラリア在住6年目の保育士、ぴぃです!

今日のテーマはそう。ADHD。

発達障害について自分の経験談を中心にお話していきたいと思います。

今回はとてつもなく長い記事になりますが、

1. ADHDをもつ姉のこと
2.恐らく何らかの発達障害を抱えているであろう自分の経験
3.そんな自分がしている対策

の三本立てでお送りします。

私は保育士です。

日本での保育を4年。オーストラリアでも4年以上保育を経験してきて多くの発達障害や自閉傾向をもつお子様と接してきました。

彼らに対して一様に思うのは

ご家族を初め周りの人々に特別な部分を受け入れられ、理解され、適切なサポートを受けながら長所を伸ばして素敵な人生を送って欲しい。

この切なる願いです。

何故かと言うと私は生まれてこの方、発達障害であろうものとずっと一緒に暮らしてきたからです。でも、時代もあってかそれが認知される事も、サポートされることも全くありませんでした。それが本人にとっても、家族にとってもどれだけ大変なことか・・・

とてもパーソナルなことになりますが、私の姉は35を超えてから自ら診断に行き、ADHDを診断されました。 

彼女が何か違うのは幼い頃から5つ年の離れた妹の私の目にも明らかで、30年前、発達障害というものの存在が今のように明らかでなかった時代にあっても小学校の先生にも診断を受けるよう勧められた事もあったそうです。

でも私の親はそれを信じ、受け入れることが出来ませんでした。診断に連れていくことはせず、彼女の長所である記憶力を伸ばして地元でもトップクラスの私立中学校に入れ、大学も名門に進むことが出来、彼女はとても頭の良い子なんだ。と言う点にフォーカスを当てようとがんばりました。

母の努力も気持ちも、そばで見ていた私にはよくよくわかります。実際姉にとっては通った学校もとても合っており、素晴らしいお友達にも恵まれ、結果的に彼女にとってベストな選択であったことも間違いはありません。

彼女は学校の勉強もやってきたし多趣味です。ありがたいことに、転職回数は多いものの仕事にもつけています。

類まれなる記憶力や、一度ハマったらのめり込む彼女の性格もあり、彼女の色々な趣味への広範囲かつ深い知識は映像制作の仕事に就いた私の仕事にも大きく役立ってくれ、アニメの番宣を作る時にも、音楽番組を作る時にも、情報をネットで検索するより姉に聞いた方が早く、正確で、より深い情報を得られるのでとっても重宝しました。もちろんそれらは彼女が楽しんで行っていることであり、彼女が幸せな人生を送っているのは間違いありません。

しかしながらフォローをあまり受けてこなかった生活面はというと・・・

"みんな"が"普通"に出来るはずの日常的な事が彼女は圧倒的に出来ません。やる気もありません。

40歳を手前に、家事は簡単なものを含め未だに親に任せきり。暑い時に髪を結んだり、体調の悪い時にどう対処するか、日によっては出かける時に何を着るかすら親に頼らないと決めることができません。部屋もとても汚く、親が何かをやらせようとしても子どものように反抗するだけ。お給料もしっかりとした物を頂き続けているのですが、お金の管理が上手く出来ないので前述の趣味につぎ込んでしまったり、適切な金額よりも高いものを宣伝文句を信じて購入してしまうことも多いため貯金はあまり出来ていないようで、さらにそれにも危機感は感じていないようです。

当然親も一人暮らしをするよう10年以上前から促し続けているのですが、大の大人を無理矢理動かすことは難しく、正直お手上げなのです。

彼女がこの先自立することが出来るのかは我が家にとっても重要な課題で、母が私に日本に帰ってきて欲しいと望む理由も分かりすぎるほどよく分かっています。

妹として思うことは、彼女が30年前のあの時、診断を受け、幾ばくかであっても専門家のサポートを受けながら育ち、親も学校の勉強と併せて日常のこともより幼い頃からフォーカスして教えていたら何か違ったのではないだろうか?ということです。姉に対して憤りを感じることは多いですが、実際彼女だけが悪いのでもないこともわかっています。

それはなぜなら、私自身、診断さえうけていないものの自らの発達障害を自覚しているからです。

親の気持ちが分かっていても日本に帰れないのも、それが大きな理由です。

姉のことばかり書きましたが、私自身も幼い頃から周りと大きく違いました。大人になってからもその違いを埋めるのは難しく、周りのリズムに合わせる文化の強い日本では常に生きづらさを感じ、精神的にも疲弊してしてしまうのです。

私も幼少のころからとにかく片付けられない。部屋は姉の部屋の比ではないくらい汚く、ランドセルの中も、学校の机もとにかくぐちゃぐちゃでした。自分でもそれが嫌なのに片付け方が分からない。

服の着方もだらしなく、幼い頃からシャツをズボンに入れなさいと親に何度言われてもそれが出来ませんでした。

テンポも遅く、先生にもよく怒られました。

今思い返して意外に思うのは、太っていて性格もあまり良いとは言えなかった私はそれが原因でいじめやからかいを受けることはありましたが、そのだらしなさについていじめを受けた記憶がそこまで多くはなく、唯一覚えているのは幼稚園から一緒の隣の席の男の子が3年生か4年生の時意を決したように、からかい口調で、でも真面目な優しい目で、「お前の机は汚くて、ゴミ箱みたいなんだよ。だから片付けないといけないよ。」と言ってくれたことです。彼が私を心配して、理解した上でそれを私に言ってくれていたのは当時でもよく分かりました。

その後は私も私立の女子中高一環校に入り、制服を何度練習してもきちんと着られず先生に怒られたり、友達になおしてもらったり、友達に鞄の中身を整理してもらったりしながら成長してきました。ちなみにいうと遅刻魔でもありました。

こう考えると学生時代の友人たちは、私のこれらの点については意外にすんなり受け入れ、理解していてくれたのかも知れません。成人の時の地元の同窓会でこれまた幼稚園からの一緒だった友人に久しぶりに会い、「ぴぃはとってもテンポが遅くて心配してたけど、結構普通になったみたいで安心したよ」と言われたのはとっても記憶に残っています。その子に子どもの頃そんなことを言われた記憶は一切なく、分かっていながら何も言わずにいてくれていたんだなと思いました。

それもあってかまだそれまでの私は自分自身の"違い"についてはいまいち理解しておらず、みんな色々できてすごいなぁ、しっかりしてるなぁ・・・と、ぼんやり思うのみでした。

自分の違いに何となく気づき始めたのは大学に入り、保育を始めた頃です。

私のだらしなさと言えば、落としたものは落としっぱなし、その理由も落としても他のことに気を取られるとその瞬間に忘れてしまうから。指先を使う細かい作業は不器用さもありますが、その作業の間集中していられなかったり、手順を覚えられなかったりという理由で苦手。

それらの私が普通に出来ないことを、2歳児は普通に出来ました。3歳で幼稚園に上がった子達の制服にはリボンが着いていました。お母さん曰く自分の背中のリボン結びは出来ないから幼稚園ではみんなお互いのリボン結びをやり合ってるみたいですよ。との事。

私がリボン結びを出来るようになったのは小学校1年生。今でも決して得意ではありません。

それを3歳でできるのが普通だと知った20歳の時の衝撃たるや・・・

それまで同い年の中にしかいなかった私はみんなしっかりしてるなーで終わっていたのですが、さすがに2歳、3歳児が出来ることを大学生の私が出来ないのはおかしい。と気づき、やっと自分が"出来ていない"ことに気がついたのです。

またその保育所で美大生だった私は制作や壁面装飾などの立案や運営をほぼ一手に引き受けていたのですが、私が何かをやると同僚の誰かがそのそばからおかたづけをしてくれていました。「すみません!自分でやります!」と言うといつも「ぴぃ先生は色々やって下さってるんですから、おかたづけくらいやらせてください。」と、結局制作が終わる頃にはいつも全てが片付いていました。私が上手に片付けられない事をわかって下さっていてのアシストだったのでしょう。

同僚の方々にも本当に恵まれた職場でした。

私の自分の"おかしさ"への気づきはその他の各アルバイト先でも加速していきます。特に飲食店。

まずはお決まりの制服が上手に着られない問題。和食好きの私はまかない目当てに着物を模した制服の日本食レストランで働くことが多く、自分では何度も確認しているもののいつも何かを指摘されていました。

マニュアルも覚えられすオーダーミスもしょっちゅうで失敗ばかり。ホールは無理だと諦めキッチンのアルバイトを始めるとまずは調理服が上手く着られない。男性が多いため制服のサイズが大きく、腕まくりをするも自分でまくると直ぐに落ちてしまいびちょ濡れ。結局誰かがきちんとまくってくれる・・・何故か調理服にネクタイの着いた制服で、それも家で何度も練習して自分では完璧なつもりでも結局出来ていなかったようで結局はチーフが結んでくれたものを緩めたり、きつくしたりで着脱する。

仕事もやはり要領が悪く、ものを落とす、壊す、綺麗に盛り付けられない。などのミスを頻発。"破壊神"というあだ名がつく。

その後日本食を諦め、アイリッシュパブでアルバイト始めました。最も難易度の低いジーンズにポロシャツという制服でしたが、今度は気が緩んで鏡を前にチェックすることを忘れ襟が立ったまま勤務を始めてしまうというミスを多発。ホールに入ればグラスを割り、グラス割れる音は"ぴぃの音"と称されるようになり、キッチンに入れば不注意で火傷を連発。ついた異名は"火傷の女神"。

とにかくどこに行っても『仕事がとことん出来ない子』というレッテルを貼られ、なんで私だけどこいってもこうなんだろう・・・と、かなり悩みました。

そんな私が飲食店と名のつくアルバイト先で唯一私が輝けたのが地元神奈川県の観光地、江ノ島の定食屋兼民宿でのアルバイト。保育所がお休みのゴールデンウィークの間の短期のアルバイトのつもりでした。

制服はエプロンだけであとは動きやすい私服。

マニュアルのようなものもなく、とにかく訳が分からないくらい盛大に混むゴールデンウィークの江ノ島のランチタイムにお客さんを上手く並ばせ、ホールも回し、その合間を見計らってキッチンに走って名物しらす丼用の生姜をすりに行く。

この恐らく経験者でも難易度がかなり高いであろう仕事を私は先輩もほぼ居ない状況で初日から自分でも驚く程に上手く回すことが出来たのです。

結果的に店長からオファーを受けてその後も土日働くことに。映像の仕事が波に乗ってきて辞めた後もたまーによばれては普段は毒舌な店長に「ぴぃさん、やっぱり良いわ・・・」と言う言葉を頂いていました。

これは本当に良かった経験でした。この経験から私が出来なかったことはマニュアル通りに、きちんと、言われた通りのことをやること。だということが分かりました。これ、出来なきゃダメじゃない?って感じなのですが・・・それで自分を否定し続けてきた私は

その代わりに自分の考えた通り、もしくはその瞬間毎の状況、感覚に従って対応をフレキシブルに場を動かす。ことが他の人よりも高いレベルでできることに気づくことが出来ました。そう言えばこれは保育の現場でとても大事なスキルです。

自分はみんなが出来ることは出来ないけど、みんなに出来ない事で自分には出来ることがある。という発見はその後の自信に繋がりました。

そんな私は今オーストラリアで恐らくそこそこ立派に保育士として働いています。前述の通り保育に必要なスキルを自分が持ち合わせていることと、オーストラリアは多民族国家。みんな一人一人がびっくりするほど違う事が当たり前だし、良くも悪くも人は人、自分は自分。という文化なので比べられることが少なく全ての人にとって良い環境では決して無いと思いますが、私にとってはとても生きやすいのです。

長々と自分の経験について描きましたが、結局お伝えしたいことは

学習障害などが原因で人と違っても、出来ないことが多くても、出来ることは絶対にあると言うこと。

出来ることは盛大に伸ばしていくにはまず、出来ることはもちろんですが、出来ない事にも向き合いしっかりと向け、受け入れ、どこをどう切捨て、どこはサポートして出来るように行くのかを判断して行くことが将来にとってとても重要です。出来ないことを否定するだけでもダメ。そして、出来ることだけをフューチャーして出来ないことから目を背けるのもダメです。

出来ない事を出来るようにするのは発達障害を持つ人にとってとてつもなく大変なこと。どうしても出来ない事はよく考えてその後の人生にさほど必要無いものや何かで代替することでカバー出来ることは敢えて諦める勇気が必要です。その代わりに苦手でも出来なければ困ってしまうことをある程度出来るようにする訓練をすることに集中する事でその後の生きづらさを軽減することができます。それが結果的に出来ることを伸ばすことへの助けになるのです。

生きづらさ、自分への疑問があるうちは悩みが全ての行動への妨げになってしまうからです。

最後に私自身がどう自分の出来ない事と向き合ってきたかをお伝えするため、33歳現在私の出来ない事、その対策、ある程度できるようになったこと、未だに対策出来ていない事。を具体的に書きたいと思います。

出来ない事 (代替品、やり方を省略、周りの人に頼るすることで対応)

・靴紐が結べない、結んでもすぐほどけてしまう → 靴紐のない靴、マジックテープの靴を選ぶ。ほぼ紐靴しかないオーストラリアでなちょうちょ結びの後固結びをした状態で着脱する。子どもの靴は頑張るけれど何度もほどけてしまったら正直に私は苦手だからほかの先生に頼むよう伝える。

・アナログ時計を読むのが苦手 → デジタルの腕時計をする。

・整理整頓が出来ない。→収納の多い家に住めるオーストラリアに移住。きっちりとは出来ないのでざっくりとしたものの場所を決める。ざっくりにしたことである程度片付けられるように。職場では正直に苦手なことを周りに伝え、理解してもらう。その代わりに訓練して出来るようになった清掃をがんばる。どうしても整理整頓をしなければならない時には得意な人に手伝って貰うか、どのようにするか指示してもらうようにする。

・年齢相応の振る舞いができない→職場、相手によって外ではとり繕えるよう訓練して頑張る。家の中や友人の前では理解してもらい、甘えてバランスをとる。

・寒くない時期の靴下や露出を抑えた服装が苦手→年齢問わず露出が高くても許されるオーストラリアに移住。仕事中も寝かしつけなど可能な時には靴を脱いで少しリフレッシュする。仕事が終わった瞬間車で靴下を脱ぎ裸足で運転する。

・忘れ物が多い。日によって必要なものを用意するのが苦手(準備する。という行為を忘れてしまう)→大きめのカバンに必要になる可能性のあるもの、予備を入れて常に持ち歩く。車に予備を置いておく。

・遅刻が多い→時間にさほど厳しくないオーストラリアに移住。ササッと外出出来るよう基本的にはすっぴん。髪の毛は自分が出来る髪型を何パターンか用意し、それをルティーンする。(車の中で髪を結ぶこともしばしば…) ちなみに休日のお出かけやディナーなど、時間を取れる時に今日は身だしなみをしっかりとする日。と決めてお化粧をちゃんとしたりいつもしない髪型に挑戦することで身だしなみに対する苦手意識を軽減しています。

と、私の出来ない事対策はこんなところでしょうか?…オーストラリアに頼っていること、車社会の地域だから出来ることも多々ありますね…でももうそれでいいかなって思っています。もちろん全て対応できている訳ではありません。

未だに上手く出来ない事、対応を模索中な事

・顔の違いの認識が苦手。他の人に言わせるとかなり違う顔でも同じ顔に見えてしまう。名前も覚えられない。(高校の時遂に最後まで眼鏡をした2人の先生の顔が見分けられませんでした…)→西洋の顔を覚えなければならない現状でさらに加速。未だに保護者さん側が私の名前を呼んでくれているのに誰だかわからないことがあります。沢山コミュニケーションをとる様にすることで覚えられるよう努力しています。

・ものの置きっぱなし、落し物が多い→職場仲間、子どもたちも理解してくれて私が私物を落とすと子どもが拾って私に渡してくれたり、日本語を教えている5歳児は私が帰る前に「携帯持った?」と確認してくれたり私の私物を私のカバンに入れてくれたりするようになりました汗

・未だに服がきちんと着られず、たまに裏返して着てしまったりする。確認を忘れることもあれば、確認した上で間違えていることもある。→周りの人に指摘され恥ずかしい思いをする。

・ルティーンというものが作れない。歯を磨く、髪の毛をとかす、顔を洗うなど基本的なことすら習慣づけられず忘れてしまう。→ どうしても出来ないので気にしすぎないようにしつつ、出来るルティーンを探し、少しずつ増やしている状態です。最近は毎朝の植物の水やりができるようになりました。

・2桁以上の数字が覚えられない。→ 飲食の仕事をもうしないと決めてから数字を覚えなければならない状況が減り困ることが減る。どうしてもの時はどこかにメモる。言葉は覚えられるので語呂合わせをつかう。

他にもまだまだあります。こんな出来ない事だらけの私でもどうにか生きていられるのは自分が出来る事に気づくことが出来たからだと思います。また、自分に出来ない事を自分を責めるのではなく受け入れ、周りに正直に伝える勇気を持てるようになったことも大きいと思います。周りの人に理解をして頂くことは大きな支えになります。支えていただいている分こちらも自分のできる範囲で周りのために動くことを常に考えるようにしています。

人間関係やコミュニケーションも苦手でしたが長年かけて歳を重ねて昔よりはだいぶよくなり、今で私が人見知りであったことを知っている人は多くありません。

今回とても長い記事になってしまいましたが、発達障害などにより生きづらさを抱える子どもたち、大人の方にも自らの出来ること、出来ない事を受け入れ、時には努力し、時には上手に諦めることで自信を持って、自分を好きになって、自分にしか歩めない誇れる人生を送っていただきたいなと思っています!

文責:ぴぃ














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