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禁断の運命論

私は中学時代、高校時代と運命論を信じていました。

運命論とは、簡単に言うと「この世界は誰かの頭に生じた夢のようなもので、ただ単にシナリオをなぞっているに過ぎない」という類の思想です。

そんな思想に傾倒していたため「俺が何をしようとそれは運命で決まっているんだ。だから俺にはどうしようもない。何も考えず自由気ままに生きるぜ。ロッケンロール」とズボンを下げて履き、髪にはワックスをギトギトに塗りたくる、側から見ると、とても痛い、拗らせ中学生(高校生)でした。

周りには「自分の意志で未来は変えられる。運命論なんか信じない」と主張する反対派の友人も多くいました。

しかしそれすらも「運命論を信じない」という予め決められたシナリオをなぞっているに過ぎないのだと冷笑していました。



月日は流れ、大学に通い始めました。


大学つまんねえなあと抜け殻のような気持ちでキャンパスライフを送っていたある日、なんと、一般教養科目のテストに「運命は存在するか。あなたの意見を書きなさい」という問題が出たのです。

その設問を見た瞬間、体に稲妻が走りました。
これは私のために作られた設問と言ってもいい。

そして、青春時代を運命論と共に歩んだナチュラルボーン運命論者の私が一目散に解答用紙へ書き込んだ答えは、





















「どちらでもいいと思います」。
















は?

と思われるかもしれません。




もっともです。




あれだけ熱狂的な運命論者だった私は、事もあろうに「そんな議論をしている暇があったら早くテストを終わらせて女の子とデートしたい」と思うようなゲスの極み大学生へと進化を遂げていたのです。

人は堕ちるところまで堕ちるものです。




まあ、今になって振り返ってみると、このとき書いた答えはある意味正しかったのかなとも思います。

(ありがたいことにテストでは0点を頂きました)

なぜなら、正直、運命も自由意志の存在も証明などできないからです。

思考の構造が、つまり言語が、運命はあるか否かを峻別できないように作られているからです。

いくら言葉を重ねて議論し続けたとしても納得の行く答えは得られません。

結局行き着く先は、運命を信じるか信じないか、それだけです。

私の「どっちでもいいじゃん」という答えは今ではそんなに悪い答えではないのではないかと思います。

過去をしみじみと思い出し、このようにnoteに記事を書いていることも「運命」なのかもしれません。

個人的に私へメッセージを送りたい方、仕事依頼はこちらから。(成島)