見出し画像

映画「オッペンハイマー」ネタバレなし感想+小エッセイ「原爆について思うこと」

本日、2024年3月29日(金)は、
クリストファー・ノーラン監督(以下ノーランもしくはノーラン監督)の最新作映画、「オッペンハイマー」の公開日である。

僕(今回の記事の一人称はいつもの「私」ではなく「僕」としたい。理由は色々あるが長くなるし脱線するので割愛する)はたまたま今日仕事の休みが取れたので、朝イチで見に行った。

公開初日に行ったのは久しぶりだし、
ましてや初回に行ったのは僕が記憶している限り初めてなんじゃないか。

実は最初はあまり期待してなかった。
ノーランの史実映画は「ダンケルク」をやはり映画館で見たが、
期待はずれで僕には全然面白くなかったからだ。

それに加えて、「オッペンハイマー」でしょ?
多くの人が知る、歴史の教科書にも出てくる、原爆の父。
広島・長崎に落とした原爆を「マンハッタン計画」で開発した科学者。

日本人の多くがそうであると僕は思っているのだが、
僕もその例にもれず、
アメリカで公開されていた時から、
拒否反応、いや、拒絶反応というべき強い反発心を感じていた。

こんなもん、決して見に行くかと。

実際、何年か前に最初に発表された、ノーラン監督の最新作がオッペンハイマーである事を知った時は、まあ行くことはないだろうと思っていた。

しかしそう言いながら半面、ノーラン監督の最新作という事で、
見るかどうかものすごい悩んでいたのも事実だ。

はっきり「見に行こう」と心変わりしたのは、
X(Twitter)で僕が取ったアンケートによる。
まだアカデミー賞を取る前、日本で公開される事も分からない段階、
去年(2023年)の7月27日に、アンケートを取ってみた。
「みなさんはもし日本でオッペンハイマーが公開されたら見に行きますか?」
とのアンケートに対し、
なんと76.2%が「見る」と答えた。
これにはビックリしたし、
結局これで後押しされた。

よく考えたら、批判するにしてもなんにしても、
見なければ始まらないのだ。

ノーランは好きだけど、オッペンハイマーを撮るという第一報を聞いた時、
多分にガッカリしたのも事実だ。

アメリカ、ハリウッド映画は、とにかくヒーローを撮りたがる。
今回僕が思い出していたのは、
例えば、月に最初に降り立ったニール・アームストロングを撮った「ファーストマン」
大ブレイクしたクイーンのフレディ・マーキュリーを撮った「ボヘミアン・ラプソディー」
そして、
アラン・チューリングを撮った「イミテーション・ゲーム」では、ドイツの暗号機「エニグマ」を攻略した人物として、ヒーロー的に描かれていた。

もちろん最近のハリウッド映画の特徴として、
一筋縄ではいかない、単純に好かれる「スーパーマン」や「スパイダーマン」みたいなヒーローとしては描いていない。
それぞれ性格に難ある所も描いているし、辛さや苦悩も描いているが、
だが基本的にはやはりヒーローとして描いている。

アメリカという国は、基本的にヒーローが好かれる国なのだ。

という訳で、
オッペンハイマーも、(単純じゃなくひねくれた感じでの)ヒーロー的に描かれるのだろうと思っていたのである。

そこに、
やはり原爆を落とされた日本の国民である僕は、
例に漏れず拒否反応を起こしたわけだ。

だから、見る際にはとても複雑な気持ちで見た。
恐らくノーラン監督じゃなければ見に行ってなかっただろう。
これは結構確信を持って言える。



さて、前置きが長くなってしまったが、
ここから、簡単な感想を書く。
ネタバレなしなので、
まだ見ようかどうしようか迷っている人も、
安心して読み進めて欲しい。

というかそもそもバラせるようなネタもないのだが。
史実だし。

映画の大まかな前知識としては、
各種ホームページが提示している紹介文を読めば事足りる。

ひとつ、映画.comからその紹介文の一部を抜粋したものを引用したい。

※ただし、ノーラン+「オッペンハイマー」という情報だけで十分、確実に見に行くことが決まっている、その他の前情報は何も入れたくない、という人はここで本記事を読むのを止める事をお勧めします。


「ダークナイト」「TENET テネット」などの大作を送り出してきたクリストファー・ノーラン監督が、原子爆弾の開発に成功したことで「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いた歴史映画。2006年ピュリッツァー賞を受賞した、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション「『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」を下敷きに、オッペンハイマーの栄光と挫折、苦悩と葛藤を描く。

第2次世界大戦中、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府のマンハッタン計画において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、さらにはそれが実戦で投下され、恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対するようになるが……。

(映画.comより)

まず内容の前に映画館での感想から。

他の地域ではどうか知らないが、
僕の住んでいる地域では、
公開初日だというのに、
上映している映画館が少なかった。
シネコンでも、一番大きなスクリーンではなく、
2番目か3番目、下手するとそれ以下の小さい箱での上映だった。
アカデミー作品賞取ったのにね。
ゴジラ-1.0とはえらい違いだな。

まあそうなのも無理はない。
大体、アメリカの作った原爆映画、
それも「原爆の父」オッペンハイマーをヒーロー的に撮っているかもしれない映画について、
激しい拒否反応、拒絶反応を起こす方が自然な事だと思われる。

「俺は決して見に行かない」
と思う人がいてもいいと思うし、
むしろそちらの方が自然なんじゃないか。

なにしろ僕自身、最初は見ないと思っていたし、
いざ見に行くにしても、ものすごい拒否反応があったのは事実である。

しかしアカデミー賞も取ったしね。
これはその後、ノーラン映画を語る上での議論の俎上には乗るだろう、
という確信があったので、
半ば無理やり気持ちを奮い立たせて、
ついに見にいったのだ。



という訳で、映画を見た後の第一印象。

凄い映画だった。
しかし同時に、
ここまで気分が悪くなる映画を見たのも久しぶりだ。

という感想である。

もちろんテーマがテーマだから、
これから見に行こうとする人も、
「まあ楽しい映画ではないだろうな。
暗くて重い映画なんだろう」
ぐらいには思うと思われる。

だが、想像の数段上である事は覚悟しておいてもいいかもしれない。

見ててキツイ・暗い・辛い映画なら、
これまでもいくつも見てきたし、
僕自身ある程度耐性がついていると思っている。

だが、この映画は、
見ていて気分が悪くなってきた。

ゾンビ映画などホラー映画のグロさによる気分の悪さではない。
精神的に、気分が悪くなってくるのだ。

これは恐らく、アメリカ人はそれほど感じないだろう。

日本人でも、何割の人かは感じない(ピンとこない)かもしれない。

だが僕の世代に多いと思うのだが、
小学生の頃には学級文庫で置いてあったはだしのゲンを読み
NHKでの原爆の特集を見たり、
原爆に関するノンフィクションを読んできた人たちにとっては、
ものすごい気分が悪くなってくるんじゃないかと思われる。
これは僕の感受性が強いから、というのもあるんだろうか?
自分の感受性が強いなんて今まで思った事はないのだが(むしろ鈍感な方だと思っていた)

では結論はどうなのか?

人におすすめできるのか?

見ない方がいいのか?

僕はこの映画のアンチなのか?

「この映画は見るべき映画か否か」

僕の意見としての結論を言うのは非常に難しいのだが、

あえて言ってみると、

まず、

(唯一の核被爆国としての日本人として)
「見なければいけない」
「見るべき」
などという事を言うつもりはさらさらない。

かといって、
「見ない方がいい」
「見る必要はない」
とも言えない。

しかし単純に、
「見た方がいい」
だけ言っても足りないのである。

非常に難しいのだ。

冗長的になるのを無粋と承知であえて書くと、

この映画をそのまま受け取らず、
批判的な目線も持ちながら、
冷静に、客観的に見れるならば、
見た方がいい気がする

とかいう、中途半端な(しかも何か偉そうな)言い方になってしまうだろうか
(じゃあお前は確実に批判的に客観的に冷静に見れたのか、と言われると自信がないが)

逆に言えば、
この映画の内容や、
この映画から受ける印象をそのまま受け取ってしまいそうな人には、
おすすめしないという事だ。

具体的に言うと、
まず子供である。
本作はR15+がついており、
15歳未満の入場・鑑賞が禁止であるとされていて、
それは全く正しい。

余談だが、本作にはわずかだがセックスシーンが出てきており、
そのせいでR15+になったんじゃあるまいな…?
逆に言えばセックスシーンが無ければG(全年齢対象)になってたのか!?
とか勘ぐってしまうのだが。

セックスシーンが無くても、
この映画を客観的に分析できる目線がないと、
R15+だと思うし、
危険だと思った。

少なくとも、
この映画は「アメリカ人が作ったアメリカ人の目線での映画だ」
という事は強く意識して臨まないと、
変な思想を持ってしまう危険性があるような気がした。

本当はアメリカ人にこそその目線を持って見てほしいのだけど、
そうはいかないんだろうな…

なぜ強くそう思うのか。

以前から僕は何度かnoteやXや他のブログで書いてきたのだけど、
アメリカ人の何割かは、
「日本に原爆を落とすのはしょうがなかった。
あれで戦争が早く終わったのだ」
と思っているのだが、
僕はそれに強い反発心を覚えてきたのだ。

だが今回の映画は、
それがそのように描かれているように思う。

もちろん当時のアメリカ国内の風潮はそうだったのだろう。

「原爆を落とさなければ日本人は最後の一兵まで戦うだろう」
「空襲よりは原爆の方がまだマシだ」
という空気がアメリカ国民の間にあったのは事実だろう。

だが、今でもその意見を持っている者がまだまだ多い(と僕は感じている)中、
その空気をあえて映画という形で再現し、主張を強調する必要がどこにあるのか。

僕は単純な「戦争反対!」を叫ぶつもりはないし、
「憲法改正反対!」を叫ぶつもりもない。
むしろ北朝鮮や中国の脅威を知って、
百田尚樹の「日本国憲法」や、かわぐちかいじの「空母いぶき」などを読んできて、
軍備はある程度は進めなければならないと思っている方だ。

しかしそれを棚に置いても、
あの時の、
アメリカの、原爆投下の決定には、断固として反対する。

他に方法は無かったのか?

何十万人もの民間人を大量虐殺しておいて、
「あれはしょうがなかった」
なんてちゃんちゃらおかしい。

そのくせ、「戦争のルールも守らずいきなり攻撃してきた」と真珠湾攻撃に対しては未だにヒステリックに叫んでいるのだ。

僕はこの事をずいぶん前にTwitterに書いた気がする。

その時のフォロワーさんの反応に、
「しょうがないよね、うちらは戦争に負けたんだから」
というものがあった。

今回の映画を見て、強く感じたのはこれだ。

「しょうがないよね」
と思う気持ちはないし、思いたくはない。

だが、
「それが戦争というものなのだ」
という気持ちはある。

つまり、「それ」というのは、
戦勝国が、自分たちの都合の良い「当時に起こった出来事の解釈」を世間に広めて、デファクトスタンダードにしていく、
というものなのだ。

もちろんここで「うちらは戦争に負けたんだからね、しょうがないよね」と諦める必要はない。
僕も、声を大にして、(そういった戦勝国の解釈がデファクトスタンダードになっていく事に)反対していきたい。
戦争中の日本人の行動を無理に正当化する必要はないが、
必要以上に「うちらは悪者だ、原爆を落とされたのもしょうがない」と思う必要もない、
というのは強く思うのである。

「日本に原爆を落としたのはしょうがなかった」
という、
「原爆を落とした」事に対する正当化の風潮ができると、何がマズイのか。

今後、何かの時に、
「原爆は落としてもいいんだ」
と思ってしまうのがマズイ。

具体的に言うと、
現在戦争が起きているロシア-ウクライナや、
イスラエル-パレスチナだけでなく、
世界様々な国で起きている内戦・紛争の中で、
いざという時に「相手に核を落としても良い」という風潮ができるのがマズイ。

確かに今は核爆弾に関する拒否反応は多くの人類が持つことに成功している。
だが、それは本当に広島・長崎に落としたからの結果なのだろうか?

映画の中でオッペンハイマーは、
「日本に原爆を落とせば、世界は核に対する恐怖を自覚し、平和になる」
というセリフを吐く。

ここで僕は、
「それが戦争なのだ」
と思うのだ。
つまり「アメリカ(戦勝国、もしくは強い国)は好き勝手な事を言う」
と思うのだ。

今、世界各地でたくさんの「核開発反対」「核軍縮」について叫ばれるのは分かる。

落としてから言うのは簡単なのだ。

重要なのは、落とす前に言う事なのだ。

これを重要だと考えるのはなぜかというと、
原爆の問題だけでは無いからなのだ。

原爆以外にも、水爆や生物兵器だけではなく、
実に様々な兵器があるし、
これからも開発されていくだろう。

重要なのは、それらを使う前に抑止できるかどうかという事なのだ。

あの時のアメリカはその抑止ができなかった。
「原爆を使わずに戦争を終わらせる方法」をついに思いつかなかった。

それでいて、それで勝ったアメリカは、
それ以降、
トルーマン大統領やオッペンハイマーを始め、
原爆の開発と投下に携わった人達を弾劾するどころか、
「戦争を終結に導いたヒーロー」
的に扱っている。

これは現在のアメリカ人の何割かを指しているのであり、「映画の中ではオッペンハイマーは責められていたしオッペンハイマー自身も苦悩していたではないか。お前は映画を理解してない」という声があるかもしれない。

だが結局はこれを見たアメリカ人の何割が、
「あの時日本に原爆を落としたのは間違いだった」
と言える?
某国のように今頃になって「謝罪しろ」なんて言うつもりはないし、謝罪が意味あるとは思えないが、
少なくとも、
「いや、あの時日本に原爆を落としたのは間違ってなかった」
という人間はまだまだ減らないと思うし、
むしろこの映画を見て、
「ほらね、日本に原爆を落としたから、世界中が核の怖さを知ったんだよ」
と受け取ってしまう人間が増える事は僕は危惧している。

また少し政治的な話になってしまうが、アメリカ人どころか、日本人まで「うちらが原爆を落とされたのはしょうがなかったよね。うちらが悪かったんだから」という風潮ができてしまうことに対して、僕は強く危惧する。

何度も書く。

あの時、原爆を落とす他にもっとマシな方法は無かったのか?

そしてこれも何度も書く。

落とした後に「核反対」を言うのは簡単だよね。
大事なのは、落とす前に反対と言えるかどうかだ。

さらに書く。

この映画を見ていて感じたのだが、
結局、アメリカ人(というか世界中の人々)は、
自分に脅威が迫っていて初めて「核反対」を訴えるのだ。

アメリカ国内で「核反対」という声が出るのも、
結局ソ連(今だとロシア・中国・北朝鮮)の核ミサイルが、
自分の頭上に降ってくる可能性があるからこそ、
「核反対」(もっと露骨に言うと「うちらは核を作らないからそっちも作らないでね」)を叫ぶのだ。

映画でも描かれていたので、ここは新しい情報を得たなと思ったのだが、
あの時、軍の上層部は、
「ドイツは降伏した。日本ももはやこちらが何もしなくても負ける」
と考えていた。

だから(日本に反撃される可能性がないから)核を落とす事にオッペンハイマーを始め、軍の上層部は反対しなかった。

それどころか、「核の脅威を世界中に知らしめるために」落とす事を推奨していた。

それでいていざソ連が核開発に乗り出したと思ったら、
ヒステリックに「軍縮」という声が出てくるのだ。

結局人は、自身に火の粉が降ってくる可能性が無い限りは、本気で動かないのである。

これはあれだね、健康と同じだよね。
病気になって初めてタバコや酒を止めるみたいな。
重要なのは「予防」なのにな。

本映画の途中、
原爆が完成し、実験が成功した後、
全員が「成功だ!」と言って嬉しそうに騒ぐシーンがある。
多くの人物が歓喜しているシーンというのは色んな映画に出てくるが、そういったシーンの中でも、ここまで気分が悪いシーンも見た事は無かった(吐き気まで覚えた)。
これを見た多くの日本人がそう思ったんじゃないだろうか。
「アポロ13」の歓喜シーンでのカタルシスとは正反対である。
貴重な経験だが、非常に嫌な経験だった。もう二度と味わいたくない。

さらに言うなら、この映画に対する一番の不満点は、
広島・長崎を描かなかった事だ。
実際に原爆投下の瞬間が描かれるかと思ったら、
大統領のラジオ放送だけ。
途中、原爆被害者のスライドショーによる説明のシーンでも、
肝心な写真は出てこない。
「22万人を虐殺した」
とは言っているが、数字だけだ。

多くのアメリカ人は、これを見てもピンと来ないだろう。

アメリカ人のやっている戦争はいつもこうだ。

高高度からの爆撃、
数字(データ)だけの被害状況。

本映画の中で、原爆の悲惨さが描かれるシーンは、
ほんの少し、
オッペンハイマーの妄想による、
女性の顔の皮膚が少しめくれかけるだけだ。

なめんなよ。

こんなもんで原爆の恐ろしさが伝わる訳はない。

もちろんそれ(原爆の恐ろしさを伝える事)は本映画のテーマではないのだろう。

「原爆」というガジェットを焦点に据えながらも、
本映画のテーマはあくまで、
オッペンハイマーという人物の評伝なのだろうとは思う。

だから広島・長崎の後のシーンがめちゃくちゃ長いのだ(恐らくあれは、多くの日本人観客にとって退屈だったんじゃないかと思っている)。

だから、日本人である僕は、
見ていて気分が悪くなる映画だったのだ。

(補足)
映画館の入りについて。
結局IMAXで見た。
平日とは言え初日初回だけど観客はガラガラだった。

そして映画が終わった後、
僕の個人的な偏見かもしれないが、
(僕も含め)みんな重たい顔で俯いて黙って映画館を出ていったのが非常に印象に残った。
ゴジラとはだいぶ違ってたな。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?