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5分でアランの『幸福論』#30 “礼儀作法に決まった形がある意味とは”

アランは言う。
新年などの節目に取り交わされる挨拶や祝いの言葉は、ただの“しるし“に過ぎない。
それはそれとして、しるしはとても大切である、と。

顔に表れたこの喜びは、他の人にとっても喜びになる。
喜びのしるしは、それを送り出す人を楽しくする。これは深い真実である。
喜びのしるしは、まねされることによって、遠くへと送り届けられていく。

アラン『幸福論』

これを読み少なからず反省した。
年賀状やお中元、そのほか節目の祝いの言葉や日々の挨拶まで、
ここ数年、自分は随分と軽んじて生きてきたことを。
正直、そんなもの現在社会にとってはめんどくさいだけで、
古い慣習などなくなってしまえばいいとさえ思っていた。

しかし、改めて考えると誰にとってもそれは面倒なことなのだ。
それでも数百年の間続いてきたのには、
ただの“しるし(形式)“を超えた理由があるはずだ。

何の本かは忘れたが、一度読んだことがある。
「礼儀作法や挨拶に決まった型、形式がある。それは面倒なものだ。
しかしその形式に従っていれば、表面上関係を良好に保てるし、
ゼロから気持ちを伝える方法を考えなくても済む。
長く続く慣習はコミュニケーションの摩擦をより少なくし、
社会をより豊かにするための生活の知恵と言える」

確かにその通りだろう。

これはネット社会の中でもコミュニテイごとに“作法”が存在するのと同じだ。
昔は人と人との生のコミュニケーション、つまり交流の密着度が高かった分、
作法自体に一定の時間的、金銭的コストがかかったが、
ネット社会はライトなコミュニケーションである分、作法もライトであるのだろうか。

いずれにしても、社会がどのような形に進化していこうとも、
人の心に自尊心やリスペクトを重んじる感情はあり続けるだろう。
ならば、節目の挨拶や礼儀作法は人間社会になくてはならない潤滑油と言える。
この世界に自分1人の力で生きている感覚では、これは理解しにくい。
周囲の支えの存在を肌で感じてはじめて、表現する形式に自分の心が乗っかる。

相手からの反応を問わず、自分から礼儀作法を重んじる。
それに対しては一見目に見えなくとも、周囲と世界からの何かしらの反応があるのだろう。
作用反作用は物理だけの世界だけではないことが何となくわかってきた。

支えの存在を知り、自分もその支えの一部となる。
そんな風に、大きな視野で自分よりも大きな世界に主体的に関わっていく。
それが体現できる人を、人は「大人(大きな人)」と呼んだのかもしれない。

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