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心霊現象再現ドラマ・『霊のうごめく家』11

 オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話 第二夜』の他のエピソードと『霊のうごめく家』
 

 後半になるにつれ、本稿は思考が混乱しだす。忌憚のない批判を期待したい。


 オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話 第二夜』のなかにあって、『霊のうごめく家』は「実話性」「実話怪談」といった言葉に象徴される、ある種のリアリズムから逸脱する演出が顔を出す。

 小津安二郎を参照した日本家屋の間取りを活用した画面設計だけではない。ドッペルゲンガーの出現や男の幽霊は、特にそうだ。個人的には、ラストに登場するフランケンシュタイン風の幽霊(ロリコンまがいのストーカーのようでもある)の演出と、陽子のあいだで交わされる視線のみを通じたコミュニケーションに、やもすればジェームス・ホエール『フランケンシュタイン』(1931)とそのオマージュであるヴィクトル・エリセ『ミツバチのささやき』(1973)を連想させかねない、根拠のない裏目読みを誘発されてしまった。

 同じ巻に収録された『夏の体育館』では、女子高生の友人三人が肝試しへ出掛けて幽霊を目撃、全員が無事に帰還して終わる「学校の怪談」。幽霊の演出は小中千昭のアドヴァイスにより、ビデオ撮影の技術面を利用した合成の創意工夫と心霊写真を参照することで、幽霊の表現から肉体の存在感(生命感)を消し去った。

 『真夜中の病棟』では、主人公の看護師は視聴者にむかって終始カメラ目線で語り掛け、病院に出没する幽霊に職業意識で対処しつつ、これからも同じ姿勢で仕事を続けると言い、『第二夜』は終わる。

 『夏の体育館』と『真夜中の病棟』はどちらも、日本のホラー映画の作劇と演出を更新しようとする姿勢でもって制作されたと同時に、プロットと演出は、1992年当時に放送されていた、テレビの心霊番組の延長線に位置している。YouTubeにアップロードされた、ビデオ撮影による『あなたの知らない世界』を視聴すると、その世界観と地続きである印象を与えるのだ。少女たちや看護師の女性をとりまく空気感は、どこか優しげな心地よさや安心感に包まれている。一般読者の「心霊現象再現ドラマ」としては、『夏の体育館』と『真夜中の病棟』は、コメンテーターとして新倉イワオが登場しても違和感はない。

 事実、オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』と並行して、日本テレビエンタープライズとバップが共同製作した『あなたの知らない世界 ザ・オリジナルⅠ』が発売されていた。そこでも小中千昭と小中和哉は、それぞれ脚本と演出を手掛けていた。(※55)
 
 だが『霊のうごめく家』のプロットや俳優の演技、演出、エピソード全体を覆う閉塞感は、「心霊現象再現ドラマ」や「疑似ドキュメンタリ」の既存のスタイルから少なからず逸脱しており、より劇映画やテレビドラマの方向性へと踏み出していた。とくに台詞に過剰に頼ることなく、画面や編集、サウンドトラックによってストーリーを語る演出スタイルは、劇映画のような演出スタイルである。こと黒沢清と高橋洋が『霊のうごめく家』を評価した理由は、『霊のうごめく家』の演出スタイルに、劇場公開されるホラー映画にも応用できる可能性を見出したのではないだろうか。

 だが先に引用した小中千昭による「ビデオでどんなに映画的に撮ろうとしても、安っぽい映画の真似にしかならないということは、私は自分の仕事で嫌というほど学んでいた。」という発言とテレビドラマでのキャリアを、いま一度ふりかえっておきたい。オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』は、製作当時のビデオ機材に特有である画質の肌理や、プライベート空間で一人または複数の人物とビデオソフトを再生したときにこそ、「リアルな恐怖感」を演出できたのではないか。

 「心霊現象再現ドラマ」が民放テレビで放送されていた歴史は長い。とくに日本テレビの長寿シリーズであった『あなたの知らない世界』は、テレビを視聴している生活空間と同じ環境で、番組視聴者が投稿した実話とされる心霊現象を「再現ドラマ」化して製作、放送を続けた。この設定は「再現ドラマ」のストーリーと生活空間が、そのまま地続きであると錯覚させることに成功していた。

 「再現ドラマ」は終わっても、視聴者の人生と生活は続く。人間関係が幅広く濃密な人物ほど、家庭・学校・雇用されている企業で、時おり身近な場所で起きたとされる心霊体験を耳にする機会はある。そのようなエピソードを生活空間で耳にしたあと、ひとり深夜の自室で過ごすとき、放課後の人気のない校内に残されたとき、仕事場から帰宅する夜道で思い出されるとき、ふと「心霊現象再現ドラマ」がリアリティを帯びはじめ、安定していた日常空間に少しだけ恐怖の亀裂が走る。幽霊たちは、その裂け目から這い出すのだ。

 「心霊現象再現ドラマ」が民放テレビで放送されていた歴史は長いが、殆どの番組は放送されてしまうとソフト化されることもなく、現在まで体系的な記録としては書籍化されていない。だがテレビ番組と視聴の歴史を振り返るとき、70年代から視聴者参加型のバラエティ番組は急速に数を増やしていく。いまのことろ本稿では触れる準備が出来ていないが、『あなたの知らない世界』のコンセプトは、視聴者参加型番組のひとつでもあった。朝日ソノラマ版『ほんとにあった怖い話』もまた、読者参加型の「心霊現象再現マンガ」であった。

 ではオリジナルビデオ『ほんとにあった怖い話』は「映画」なのか「ドラマ」なのか?。筆者が本業の傍ら、定義ができず勝手に悩んでいるのは、この点である。むしろ強引に境界線を引くのではなく、映画とテレビドラマ、バラエティ番組の境界線上に位置しているのが、オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話 第二夜』であると言える。

 レンタルビデオ店から『ほんとにあった怖い話 第二夜』を借りてきたとする。自宅や友人宅で、テレビに接続されたビデオデッキにソフトを挿入して再生ボタンを押す。オープニングを飾るのは心霊写真の数々と、視聴者に「あなた」と語りかける玄田哲章のナレーションである。

 ここでナレーションは、テレビを視聴する人物にたいして疑似的なコミュニケーションを演出する。フィクショナルな世界に引き込むのではなく、テレビ画面の外側、つまりビデオを視聴している生活空間へと作品世界が這い出してくるのだ。

 この演出は『真夜中の病棟』でいっそう強まる。主人公の看護師がたったひとり、視聴者にむかって終始カメラ目線で語り掛けてくる。ビデオを視聴している今このとき、テレビを通じて会話を試みつつ、心霊現象の起きる病棟をリアルタイムで案内するように。

 オープニングとラストのナレーション、それに『真夜中の病棟』の作劇と演出はテレビ視聴があってこそ成立した。出演者がカメラに向かい、視聴者に疑似的に語り掛ける演出は、YouTubeの個人配信やNetflixのドキュメンタリーでは当たり前のものとなったが、考えてみれば不気味ではある。デイヴィッド・クローネンバーグの『ヴィデオドローム』(1983)そのままではないか。

 ここで疑問が生じる。脚本を担当した小中千昭のキャリアが、テレビからスタートしたこと、演出にも少なからず立ち会っていた証言は先に記した。オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』の企画立ち上げと演出を担当したのは鶴田法男であるが、オムニバスドラマ全編を視聴したあとでは「映像作品は演出家だけの“作品”」と定義しようとすれば混乱してしまう。一体、どこまでが小中千昭のアイディアや演出なのか、鶴田法男のそれなのか、視聴しただけでは判断できない。

 いったい、このシーンを思い付き、演出したのは誰なのか。この問題は古今東西をとわず生じる。第二次大戦後のアメリカ映画や日本映画で、脚本家としてクレジットされている人物が実はまったく別の人物である、あるいは別班が演出を担当したシーンが多いものは珍しくない。ならば、先ほど分析した『霊のうごめく家』が、脚本家と演出家の共同作業によって制作されたとして、黒沢清の諸作や『リング』(1998)に結実する決定的な作劇や演出は、どちらの業績なのか。

 閑話休題。80年代に入ると、ビデオソフトで映画を視聴する行為は一般的となっていく。レンタルビデオ産業が定着した市場の変化にいち早く対応した東映は1989年、東映Vシネマをスタートさせた。この動きに大手映画会社のみならず、テレビ番組の下請け会社や電気メーカーなど、様々な製作会社が参入していく。オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』も、その潮流のなかで製作されたシリーズであった。

 80年代に入ると、ビデオソフトで映画を視聴する行為は一般的となっていく。はやくも1983年、バンダイビジュアルはオリジナルビデオアニメ(OVA)の第一作『ダロス』二部作をリリース。この動きにアニメ制作会社は続々と参入。押井守『天使のたまご』のようなカルト作すら生む。
 
 レンタルビデオ産業が定着した市場の変化にいち早く対応した東映は1989年、東映Vシネマをスタートさせた。この動きに大手映画会社のみならず、テレビ番組の下請け会社や電気メーカーなど、様々な製作会社が参入していく。オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』も、その潮流のなかで製作されたシリーズであった。

 VHSデッキとレンタルビデオ産業が定着して以降、映像の見方は確実に変容し、それに従って製作や配給の在り方もまた変容した。フリッツ・ラングやサミュエル・フラーの諸作から、いつ何処で製作されたのか判然としないホラー映画まで、大量にビデオソフト化された。そのレンタルビデオ店の棚のなかに、レンタルビデオ産業での収益を前提として製作された日本製コンテンツが存在した。実写やアニメ、稲川淳二の怪談語り、ゴルフやパチンコのハウツービデオなどと共に。

 その渦中にあって、オムニバス形式の『ほんとにあった怖い話 第二夜』は映画・テレビドラマ・バラエティという、ジャンルの境界線をまたぐ作劇や演出、映像により成立している。なによりもテレビが視聴される環境を最大限に活かした。『霊のうごめく家』がエポックメイキングであったのは異論がない。だが、劇場公開を前提として製作される映画に、オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』の方法論が容易く移植できたものとは思えないのだ。

 しかしそれを言い出すと、今度はメディア間交流の問題にぶつかってしまう。映画とテレビドラマの境界線を厳密に引こうとすれば、無理が生じる。

 日本の大手映画会社の撮影所体制が維持されていた1960年代から、すでに映画業界とテレビ業界のあいだを往復する演出家や脚本家、独立プロダクションは存在していた。それが1971年以降、大手映画会社は2時間ドラマの制作に乗り出していく。そこでは映画制作のノウハウと、以前からテレビ局が独自に製作・放送していたドラマ制作のノウハウやスポンサー事情がぶつかり合い、視聴するメディア環境を別とすれば、もはや映画なのかテレビドラマなのか、容易に判別しがたい作品が少なくない。

 その2時間ドラマ製作の決定的な要因となった作品が「Made for TV Movie」、ユニバーサルがテレビ放送を前提として制作した「テレビ映画」であるスティーヴン・スピルバーグの『激突!』(1971年)であり、ロッド・サーリングが脚本を書いた『夜空の大空港』(1966年)であった。『激突!』の完成度と、『日曜洋画劇場』で放映された『夜空の大空港』の視聴率に鉱脈を見いだしたテレビ朝日の高橋浩が、国産の「テレビ映画」を制作しようと目論んだのである(※56)。余談ながら、脚本家のほうである高橋洋を怖れさせた『シェラ・デ・コブレの幽霊』を放映したのは、他ならぬテレビ朝日の『日曜洋画劇場』だ。

 『激突!』は日本では劇場公開されたため、最初から劇場映画として製作されたものと思い込みがちだ。そうではなく、アメリカではテレビ放送を前提として製作され、放送された。スピルバーグの出発点はテレビドラマの演出であったのである。ドン・シーゲルやサム・ペキンパーのようにテレビとは相性の悪い作風である演出家ですら、テレビのキャリアは豊富であった。

 『恐怖劇場アンバランス』のうち鈴木清順が演出した『木乃伊の恋』や、『火曜サスペンス劇場』の一編である大林宣彦『麗猫伝説』など、放送後に劇場公開され、「映画」としての評価を得た作品は存在する。そのような事情は近年でも変わらない。黒沢清『降霊』そして『スパイの妻』も、本来はテレビドラマであった。

 ではVシネマはどうなるのか?。あくまでもレンタルビデオ店での収益を前提として製作されていながら、劇場公開されたタイトルが数多く存在するではないか。90年代の黒沢清と三池崇史のVシネマは、海外では「映画」として認知されているではないか。

 劇場公開される映画からテレビの登場、テレビ映画から2時間ドラマ、Vシネマの誕生にいたる経緯。その境界線は、具体的になんなのか。それは長大でありながら未解明であるところも多く、具体的な事実確認と実証的な研究は、別の機会に譲りたい。いまは、そのようなメディア間の交流や軋轢のはざまから、崔洋一、押井守、北野武、是枝裕和、岩井俊二、庵野秀明などが登場したことへ言及するにとどめる。


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