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心霊現象再現ドラマ・『霊のうごめく家』6

 『霊のうごめく家』と小津安二郎
 

 「小津安二郎がホラー映画を撮るならば、どんな作品となるか」。これが鶴田法男にとって『霊のうごめく家』の演出方針であった(※37)。

 小津安二郎はホラーを撮っていないが、視聴していると恐怖を感じるという証言は少なくない。なにかとホラー映画の要素を見いだしてしまう黒沢清だけではない(※38)。中村秀之の論考『「紀子」の首—『晩春』の無気味さについて』では、ある日の深夜、テレビ放映されていた『晩春』(1949年)を視聴しているとき、いわく言い難い恐怖を感じた体験が詳細に分析されている(※39)。小津安二郎に『キャット・ピープル』(1942年)や『私はゾンビと歩いた!』(1943)のジャック・ターナーと共通する精神を感じると語ったペドロ・コスタ(※40)。小津安二郎の無人ショットを見た筆者の友人は、直観的にスタンリー・キューブリックの『シャイニング』を連想してしまう。小津安二郎がなぜホラー映画に観えてしまうのか。その分析は別の機会に譲りたい。
 
 小津安二郎が参照される時点で、とやかく重視されがちなJホラーの「実話性」から逸脱する一方、小津に代表される松竹大船調を源流とするテレビドラマのジャンル、つまり日本のホームドラマへと『霊のうごめく家』は接近する。

 異なるメディアである映画とテレビ、ジャンルとしての「ホームドラマ」と、「実話怪談」。一見して不釣り合いなジャンルと要素の狭間のあいだで揺らぐ『霊のうごめく家』。その作劇と演出はどのようなものか。筆者は動画配信サイトで本作を視聴しつつ、実際に作品の分析を試みた。小中千昭と共作した脚本が、鶴田法男たちスタッフの技術により、作品として具体化されたのか。「小中理論」のみに囚われず、演出の面において「光と影」「アングル」「編集」「無人ショット」「顔」「サウンドトラック」など、映像作品として重要な要素が作り込まれたのか。以下では、それらに注目していきたい。

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