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恐るべし、いや畏るべし、山

ハクビシンなどという動物は聞いたこともなかった。
愛媛の山に暮らすまでは。

愛媛では1999年から観光施設で勤務していた。
コテージ併設だったから、宿泊のある晩は男性社員が交代で宿直した。
といっても22時に温泉棟を施錠し水抜きするくらいで、宿泊客から内線さえ入らなければ翌朝まで宿直室で仮眠できる。
実際は、雨漏りするとかコンロが着火しないとかで呼び出され、そのたびバケツや電池を持参して頭を下げることも多かったが。

今日は、働きはじめてすぐ回ってきた、初めての宿直の話をしよう。
僕はまだ山の恐ろしさを知らなかった。

22時の温泉棟の作業を終え、仮眠の時間となった。
宿直室はジメジメしていて好きになれず、僕は寝袋にくるまって事務室のソファーで寝ることにした。
しかし、和室の宿直室と違って事務室は無駄に広いうえ天井も高く、またPCやコピー機の小さな緑や赤のランプがチカチカと明滅を繰り返す。
寝るのに適さない部屋であることは明らかだった。

でも、宿直室は事務室とは違う建物にある。
漆黒の闇の中を今さら移動する気にもなれず、諦めてそのまま事務室で寝ることにしたまさにそのとき、

ア、アァーーーー、、、

え! 何? ビクンと心臓が跳ねる。
どこか遠くからかすかに届く、女の人の苦しそうな叫び声だ。
書き忘れていたが、僕が寝ていたのは、明治の頃の古びた農具や簑笠、行燈などが展示された資料館にある事務室だ。
扉の向こうで非常誘導灯の緑にボンヤリ照らされた民俗資料は、いかにも丑三つ時に何かが起こりそうな雰囲気。
そんな中での女の人の叫び声だ。
2Fの映写室から聞こえたに違いない。
そしてその映写室もまた、曰くつきの部屋だった。
一睡もできない夜を、僕は寝袋の中に縮こまってやり過ごした。

朝を迎えた。
寝不足でフラフラだ。
外に出る。
出たところに小動物がいた。
見なれないヤツ。

こういうヤツ

タヌキか、イタチか。
つぶらな瞳がかわいげだ。
夜露に濡れて淋しげでもある。
手を差し出してみた。

シャーーーーーッ!

豹変! ひえぇぇ!
総毛立って牙を剥き出しにし、今にも手に噛みつかんばかりのそれは、先ほどまでそこにいたかわいらしい生き物とは別物にしか見えなかった。

まるでグレムリンである。

かわいいギズモ、怖いグレムリン

眠れぬ恐怖の一夜のあとの、ダメ押しの恐怖の朝。
20年の山暮らしで、このときほど下山したいと思ったことはない。

あとで知ったが、ハクビシンという動物らしい。
しかし僕はもちろん、ずっとグレムリンと呼んでいる。

これもあとで知ったが、夜に聞いた恐怖の叫び声はシカだった。
恐るべし、いや畏るべし、山。

(2023/1/28記)

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