【映画評】「社会的テーマ」という釣り餌 「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」(2019)

 テレビで観た映画についての雑感でも書こう。

 物語の核心部分についての記述を含むのでご注意ください。

「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」(ジョン・ワッツ、2019)

評価:☆☆☆☆★

 2023年11月某日、テレビで録画してあった「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」を鑑賞。観るのは初めてだ。マーベル映画を熱心に観ているわけではないが、この作品の前作に当たる「スパイダーマン:ホームカミング」と「アベンジャーズ/エンドゲーム」は観たことがあった。
 同列の作品では、サイケ色が露骨に強い「ドクター・ストレンジ」が一番好きである。何しろサイケデリック・カルチャーのカルトなアイドル、シド・バレットのTシャツを主人公ドクター・ストレンジが着たりするのだから……あざとい。
 さて、最近のマーベル映画の特色の一つは、同時代の社会問題がテーマとしてふんだんに織り込まれていることだ。市民の分断、反出生主義、そして言わずもがなの人種対立やフェミニズムなどなど。「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」の場合、テーマは「フェイクニュースへの警鐘」である。「人は信じたいものを信じる」とかなんとか言いながら敵がホログラムで市民を大々的に騙すのだから、啓蒙的なメッセージがあからさますぎて、これまた、あざとい。
 映画の終盤、敵の術中にはまった主人公ピーター・パーカー=スパイダーマンは、自らの超人的な感覚を信じて、目の前のまやかしの現実から抜け出し、敵の本当の居場所を突き止め、勝利する。しかし……これ、ストレートに受け止めれば、「フェイクニュースであふれかえる現代社会では、真実を知るには自分の感覚を信じなければならない」というメッセージになってしまう。嘘を見破るために、自分の実感を信じること――おいおい、「真実」に目覚めたつもりでフェイクニュースに踊らされる陰謀論者のメンタリティそのものじゃねえか!
 そもそも右派であれ左派であれ、敵こそがフェイクニュースに踊らされていると信じる点では同じなのだ。「フェイクニュースに気をつけましょう」などと言ったところで、中身のある社会的メッセージを打ち出したことにはならないだろう。「社会的テーマを織り込んだ」という既成事実欲しさにあれもこれもと手を伸ばし、当たり障りのないことを言おうとするから、こういうことになるのである。
 ――と、エンターテインメント商品の節操のない「社会派」っぷりを笑うのは簡単だ。だが、こうした表層的な「社会派」っぽい描写を読み解いて、政治的見解として「正しい」かどうかを批評すれば、社会問題を批評したことになると信じる「批評家」が腐るほどいることもまた事実である。実際問題として、こいつらには警戒すべきだろう。
 以下、本題からはそれるが、そうした手合いへの悪口。
 批評家いわく、「ブラックパンサー」からは、文化多元主義とラディカリズムの対立を読み取るべきだ!
 「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」はインセルや弱者女性の現状を批評している!
 ――へーえ。ま、そりゃそうかもしれませんがねえ。
 制作会社からすれば、社会派っぽさを全面に打ち出すことであれ、娯楽性を打ち出すことであれ、消費を促す手段という点では同じことなのだ。作品が少し「社会派」に傾けば進歩的に見えることがあり、少し娯楽に傾けば反動的に見えることがある、というだけのことに一喜一憂して、配給会社の思惑通り、作品について「語らされる」ことが、内実のある政治批評であるかのように通用してしまう現状こそ、どこか狂っているというべきだろう。
 当然ながら、配給会社にとって作品を「社会派」として売り出すために重要なのは、社会的メッセージの内容の奥深さではなく、社会問題について言及したという既成事実それ自体である。そのために都合が良いのが、「解決方法を直接提示せず、問題の難しさをあるがままに描く」という、作品をなんとなく高尚であるかのように見せられるスタイルだ。そうした作品は、映画のみならず現代アートや現代文学の場でももてはやされることが多いが、要するにそれは、「社会問題を取り上げた作品」というポジションを手っ取り早く得るのに都合が良い、作る側にとっても批評する側にとっても当たり障りのない手法なのである。
 このことに即せば、「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」の、ポスト・トゥルースの現代をありのままに描いたと言わんばかりに当たり障りのないメッセージも、批評家にとっては美味しい「釣り餌」だったかもしれない。サイケなヴァーチャル・リアリティを描くことで現代社会を異化する、という、それなりにアングラ臭の漂わないこともない手法が、「現代社会を批評している」というポジションごと巨大スペクタクル産業に飲み込まれた現実をこそ、スパイダーマンとミステリオの戦闘シーンからは読み取るべきなのだろう。問題意識ごと飲み込まれるというのは、単に「アングラなスタイルが表層だけエンターテインメントに利用される」ということより、遥かに陰湿で厄介である。「あいつらは、問題意識を抜きにしてスタイルだけ真似しているのだ」という批判すら、もはや成立しないのだから。
 というわけで、進歩的な作品が増え、反動的な作品が減るのが「良いこと」であると思ったら大間違いである。そんな意見を訳知り顔で開陳する批評家の欺瞞に騙されないため、大切なのは――
 やはり、自分の実感を信じることだな!
 悪口終わり。
 少し辛辣なことを書いてしまったが、「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」は、娯楽映画としては申し分なく面白い作品である。
 印象的なのは、ピーターが思いを寄せるクラスメイト、MJのキャラクターだ。原作と打って変わって、ゴスの「コミュ障」と化している。開口一番、「政府に監視されないようにVPNアプリを入れるといいよ」などと言い出すのには笑ってしまった。アメリカの「そういう女子」はこういうことを言いがちなのか?
 まあ、エッフェル塔がマインドコントロール用の電波を出していると信じているあたり、知的でクールというより「ちょっとバカで無愛想」なキャラクターだと思う。VPNアプリを入れれば監視されなくなるという知識自体、フェイクニュースみたいなものだしね……。
 さあ、映画のラストでフェイク映像を拡散されたピーターを待ち受ける、ポスト・トゥルースの現代社会。続編「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」の放映は、明日、11月10日金曜日午後9時からの『金曜ロードショー』(日本テレビ系)である。
 楽しみに待とう!

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