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「モモ」からの発見

なぜかというと、この訪問者の話すことを聞いていればいるほど、さっき人形と遊んだときのようになってくるからです。つまり、話す声は聞こえるし、ことばは聞こえるのですが、話す人の心は聞こえてこないのです。

私は最近まで、エンデの「モモ」をきちんと読んだことがなかった。

職場の人が「僕は『モモ』に出てくる、カシオペイアという亀が好きで」と話しているのを聞いて、読もうと思ったのだ。

小学生の頃に少し読んだ気がしていたが、それも読み始めてすぐに気のせいだったと気づいた。

亀なんて出てきたっけ?モモってなんか小さい女の子の話じゃなかったっけ?それにしても亀の名前がカシオペイアっていうのは素敵だな。

そんなことを考えながら本屋で手に取り、翌日中に読んでしまった。
名作というものは恐ろしい。

読み手の技量なんてものはお構いなしに、ぐっと掴んで読ませてしまう力がある。

そして、私の心に深く突き刺さったのが冒頭に引用した文章だ。

誰かを「苦手だな」と思うことが、時々ある。そういうときは大抵、居心地が悪い。

この人と一緒にいると、居心地悪いな。
なんでだろう、問題なくやりとりできるのに。

もやもやを抱いていることすらほとんど自覚していなかったが、先ほどの文を読んだ時、「いままでもやもやしていたし、その理由はこれなんだな」とわかってしまった。

心が見えない。
何を言っているのか、言葉からはわからない。
言葉はわかるのに、それを言わせている心が見つからない。

自分の拙い言葉で補足しようとすると余計に訳がわからなくなってしまう気がするが、本当にそんな感じなのだ。

「モモ」全体の読書感想を述べたい気持ちもあるし、たぶんそのつもりだったのだけれど、今はまだ形になっていない。

ただ、「ことばは聞こえるが、話す人の心は聞こえない」という状態と直面したときの恐怖・不安を忘れたくないと思う。

それを覚えていられれば「ことばはわからなくても心が見えたとき」の喜びはきっと大きい。

人が漏らしたどんな言葉も、私にとってはギフトになる。でも、心を直接贈られたときの喜びは、ほかに比べようもない。

それは、きっと自分から人にできることでもあるのだろう。

心の見える人でありたい。

わかりやすいと言われたりわかりにくいと言われたりいろいろだが、「モモ」に出てくる灰色の男たちにはなりたくないのだ。

この示唆に富む物語を今の私が読めたことに感謝して、これからも長く読んでいきたい。


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