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落合陽一による「テクノ民藝」という概念についての思考メモと「環世界」の問題

 出版社としてのPLANETSの今年2024年の目玉企画はなんといっても、落合陽一の新著『マタギドライブ』だ。このペースで行けば夏の終わりか秋ごろには出版になる……はずなのだけど、それはまあ、著者本人も含むチームの頑張り次第、としか言いようがない(昨晩も「ZOOM缶詰」を行った。お疲れ様でした……)。

 さらにその前日、つまり3月2日はPLANETSCLUBと落合陽一塾の合同イベントを行って、この執筆中の『マタギドライブ』について、僕が落合さんに質問するかたちで話してもらったのだけれど、今日はそこで考えたことについて書いてみたい。

 『マタギドライブ』とはそもそもどういう本か、「発行者」なりの理解で述べるとそれは『デジタルネイチャー』(世界はこうなっていくのだ、という理解)に対して、では私たち「人間」はこう生きていくのだ、という問いに答えるものだ。
『デジタルネイチャー』は僕から見てもかなり誤解された本で、書かれた内容よりも落合陽一というプレイヤーに対する「世間(僕の一番嫌いな言葉だ)」上でのポジションに対する感情を理由に、不当な評価をされたことも多かったように思う。中には、落合陽一がまるでハラリの『ホモ・デウス』のように人間が情報技術の発展で進化するかのように主張していて、これは危険な超人思想だと批判するようなものまで書かれたものまである。これは昨今の情報技術の発展に不安を感じ、その分野のやその担い手に対する何らかのネガティブな言説をサプリメントとして欲している人へのヒーリングとしては歓迎されるのだろうけれど、実際の落合の主張の内容にほとんど依拠おらず、批判としてはまったく成立していない。
 身もふたもないことを述べえば落合はむしろハラリとは逆に、人間は情報環境の発展に置いていかれ、社会の周辺的な存在になると述べているのだ。この比喩がどこまで通じるか分からないがハラリがニュータイプ論(ガンダム)ならば、落合はイデ(イデオン)なのだ。そしてこの『マタギドライブ』が、社会の中心に位置するAI(農民)に対する人間(マタギ)について考察している本、だというのが僕の理解だ。もちろん、この「周辺」に落合はまったくネガティブな意味を与えていない(と僕は思う)。

 さて、その上で今日僕が考えてみたいのは、この本に登場する「テクノ民藝」という概念についてだ。「テクノ民藝」とは落合陽一の造語で、以下の本人による説明が現時点ではもっとも理解し易い。

 計算することで生まれる新しい「自然が拡張された自然」の領域がある。それを私たちはデジタルネイチャーと呼んでいるのです。
 こうした「自然が拡張された自然」が恐らく存在することは、ここ15年ほどの研究開発の中で十分にわかってきました。今は、それをいかにデジタルファブリケーションに生かすか、サステナビィリティに寄与していくかといった、自然のエコシステムとコンピュータサイエンスが出会うところに埋まっている何か面白いものを探求する方向に動いています。その中でも特に重視しているのが、地産地消のテクノロジーです。いかにサプライチェーンを短く、且つ移動や物流のコストを最小化し、またリユースしながら、そこに付加価値を計上していくか。その方法論にいかに寄与するかが大切なのではないかと思っています。
 私がそのキーの一つと考えているのが民芸です。民芸という言葉は柳宗悦の民芸運動から生み出されたもので、柳の定義する民芸はいくつかの条件を伴っています。例えばその一つが実用性です。鑑賞するために作られたものではなく、何からかの実用性を備えたものであること。それから無名性。特別な作家ではなく、無名の職人によって作られたものであること。また労働性。繰り返しの激しい運動によって得られる熟練した技術を伴うものであること。他にも、複数性、廉価性、地方性、分業性、伝統性、他力性など柳の挙げた条件は様々です。
 この定義に照らしたとき、いま我々が持っているテクノロジーを使って地産地消のためのアプリケーションをつくること、いわば「テクノ民芸性」には、一体どういった意味があるのでしょうか。例えば柳は「激しい労働によって得られる熟練した技術」と言っていましたが、その熟練技術が3Dプリンターやレーザーカッター、もしくはそういったデジタルファブリケーションツールでコピー可能になったとき、我々の社会においてどういう意味を持つのでしょうか。

https://www.sekitani-lab.com/symposium/lecture1/

「デジタルネイチャー」下で周辺的な存在となった人間は大半はbotのような(いまのXの大半のユーザーのような)生を歩むことになる。しかし一方で、少数の人々がその創造性を「テクノ民藝」的なかたちで発揮していくことになる、というのがここで提示される未来像なのだと僕は思う。コンピューターの支援によりかつての職人たちのような熟練を必要とせず生み出される事物……それが具体的にどういうものなのか、僕にはまだはっきりと伝わらないのだけれど、一昨日の対談によれば、名もなき職人たちではななく名もなきインターネットのユーザーたちが、20世紀からは考えられないほど簡単に事物(ソフトウェア/ハードウェア)を作り、それがプラットフォームを通じて流通する。この「テクノ民藝」的な事物、つまり柳のいう「民藝」と同じように無名的なもので、実用的なもので、しかし大量生産される工業製品ではなく、個人の手仕事によって生産されるデジタル(に由来した)な事物こそが、デジタルネイチャー下におけるもっとも批判力の高い文化になる、ということだと僕は理解している。
 
 なぜ「無名」であることが大事なのか。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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