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政治的な「対話」が自己目的化して民主主義が壊れそうになっている今、一番必要かもしれないことは何かという話

 僕が先月からはじめた連載『ラーメンと瞑想』は、「食」をテーマにしたエッセイのような、小説のような、そして批評のような文章なのだけど、そこにほんの少しハンナ・アーレント『人間の条件』についてのダイアローグが登場する。

 僕はこの数年アーレントについて考えることが多く、2022年に出版した『砂漠と異人たち』や、この夏発売予定の『庭の話』などの著作にも度々引用している。今日は、このアーレントの議論を肴に、少し抽象的なことを考えてみたい。

 広く知らてているようにアーレントは『人間の条件』(1958年)において、人間の基本的な活動を三つのカテゴリーに分類した。それが労働(Labor)、制作(Work)、そして行為(Action)だ。

 労働(Labor)は、生物学的なプロセスや個人の生存と直接関連している活動のことだ。食物を生産し、生活の必需品を確保することなどが含まれる。労働は一時的で、その成果は消費され、持続しないため、絶え間ない再生産のサイクルに組み込まれることになる。アーレントによれば、労働は自然の循環の一部であり、生命を維持するために不可欠だが、決して永続的なものを生み出すことはない。
 制作(Work)は、人間が事物を作り出し、世界に恒久的な変化をもたらす活動のことをさす。制作された道具や作品は人間の世界を形成し、永続性を持つ。アーレントは、制作を通じて人間が文化や文明を築き、自己表現とアイデンティティを発展させることができると考えた。
 行為(Action)は、人間が他者と交流し、共同の世界を形成する社会的、政治的な活動のことだ。
 アーレントがこのなかで最も重視したのは「行為」だ。アーレントは行為こそが自由の表現であると考えた。「労働」や「制作」はその結果が予測できる。正確には予測可能なものに、少しでも近づけることが望ましい。しかし「行為」はその結果が予測不可能だからこそ、行われる。アーレントはここに注目する。彼女にとって「行為」こそが人間を予測不可能な世界に連れ出し、新しいものと出会わせ、世界を変化させる創造的な回路なのだ。そしてこの予測不可能性(のもたらす創造性)こそが、人間の自由の核心を形成する。彼女の述べる人間の条件の中核に、この「行為」があるのだ。
 アーレントは、公共の空間が人間の行為と交流の場であり、個人が自己を表現し、他者と関係を築くことができる場所だと考えた。人々が互いに行為し、応答する過程で、個人は自己を他者に示し、共同の世界を構築する……これがアーレントにとって最も価値ある活動だった。

 しかし今日の世界を見渡したとき、アーレントの考える行為のための公共空間の成立は難しい。今日のプラットフォーム下の言論空間において、人びとは「行為」による自由と自己表現、そして世界への関与の快楽を貪ることで、むしろ「個」を失っている。これらの快楽を得る上での時間的、経済的コストパフォーマンスを追求し、ゲームを「攻略」した結果として、プラットフォーム上でシェアされる話題も、その話題に対する意見も多様化しなくなることは、既に確認したとおりだ。人びとはいまや、インスタントな「行為」の快楽の中毒となり、タイムラインの潮目を読み、負けた側や批判しやすい状況にある他の誰かに石を投げ、耳障りのよい美辞麗句をそれを再拡散することで自分を飾りたいと欲望する人びとに向けて発信することに夢中になっている。そこには、予測不可能性もなければ、他者もない。
 アーレントが存命だったならば、この私企業のサービスに過ぎないプラットフォームが公的空間を僭称する時代を「行為」の「制作」化であると嘆いたかもしれない。アーレントはプラトン以降の政治哲学には「行為」からの逃走への欲望が秘められていたと指摘する。それは具体的には、法や制度を設計すること、つまり「制作」への欲望だ。プラトンが夢想した哲人王による支配は、その王による完璧な法や制度の「制作」を意味していた、というのだ。
 これが今日の電子公共圏の議論に始まる、設計主義的なインターネットの民主主義活用の議論に通じるものであることは一目瞭然だ。そしてアーレントはこの「行為」の「制作」化を、政治を平和や安定という「目的」のために奉仕させていると批判する。一見、それが何の問題なのかと問い返したくなるが、アーレントにとって政治とは「目的」よりもその「手段」つまり、「行為」による対話や試行錯誤の過程にこそ、その価値があるのだ。なぜならば、それが人間が自由と自己と世界とのつながりを確認する「人間の条件」だからだ。

 だが、前述したように皮肉にも今日の世界を覆っているのはむしろ「行為」の肥大による民主主義の麻痺に他ならない。ではどうするべきか?
 ここで私たちが考えるべきはむしろ、「制作」の「行為」化なのではないだろうか。

 たとえば初期のインターネットとそのオープンソースの文化において、ユーザーが共同でソフトウェアやプラットフォームを開発し、改善する過程は、アーレントの「制作」と「行為」の概念を考える上で重要な視点を与えてくれる。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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