見出し画像

【毒親】「エコ」が苦手だ、という話。

先日の日記にチラッと書いたのだが、私は環境系の話が苦手だ。
この「苦手」というのは、以前書いた社会貢献に興味が持てない話のように、「普段考えてはいないけど、聞けば『ふーん、なるほどね』とは思う」というレベルの興味のなさではない。もっとハッキリと「その件については考えたくない」という忌避感が存在する。

……という事に気が付いたのは、頂いたコメントに返信していた最中だ。(ありがとうございます!✨)
「真面目に考えようとすると、どうも『人類滅びろ』になってしまうから」という理由はすぐに出てきて、それも確かに大きいのだが、もう少し根深い「エコについて考えたくない」理由があったことに思い当たったので、今回はそれについて書こうと思う。


私の母は昔から、非常に「しっかりした」主婦だった。
掃除・洗濯を毎日欠かさないのは当然で、窓もコンロもシンクも換気扇も常時ぴかぴかで、おかずは毎日3品は並ぶが冷凍食品やスーパーの総菜が出てくることはなく、天気がいい日は必ず布団を外に干し、アパートのベランダにはいつも見栄えの良い花が咲いたプランターがぶら下がっていて、来客がある度に「いつも綺麗にしているわねぇ」というお世辞を聞く所から始まる……と、こんな感じだ。

そんな母は、環境問題には関心が高かった。
ゴミの捨て方、水や電気やガスの使い方など、家の中には細かく定められたルールが無数にあり、それらのルールは「エコ」という正義の元に絶対だった。
水や洗剤は、使い過ぎても使わなさ過ぎてもいけない。米のとぎ汁は植木鉢の水やりに、風呂の残り湯は洗濯に使う。パッケージのベルマークや郵便物の使用済み切手を見逃して捨てるようなことがあってはいけないし、資源ごみは勿論、再利用できそうな割り箸・輪ゴム・パック類、ビニール袋などをうっかり捨てるのも罪……と、この程度はどのご家庭にも浸透しているのだろうか?ちょっと一般の基準がよく分からない。

どうあれ、母の毒の中ではかなりマシな方だったそれらのルールは、反したからと言って即座に平手打ちされる、という程ではなかったが、その代わりに長い長いお説教が課せられた。
母お気に入りの「背負い水」の話――全ての人には一生の間に使える水の量が定められており、それを使い切った時に寿命が尽きる、という寓話をウンザリするほど聞きながら、それなら早く死にたい人は沢山水を使えば良いのか?と思っていたことを記憶している。勿論、そんなことを言えば茶々を入れたと見なされて殴られるのは確実だったので、黙っていたが。

一方で母は、再婚相手である父に対してはそれらのルールを課さなかった。今にして思えば、それは母の「うるさく文句を言って関係を悪くしたくない」という臆病さから来ていただろう。寝室に置いたTVを一晩中つけたまま眠り、風呂には湯船からざぶんとお湯を溢れさせながら入ってしまう父に、母は直接文句を言うことはなかった。
その代わり、父のそうした「エコでない」行動への愚痴は全て私が聞かされていた。調理師だった父がたまに家で料理をすれば、野菜のヘタや皮を大きく切り捨てすぎることを。母が寝付けない日があれば、隣で寝ている父がTVを絶対に消さないことを。父の休み明けには、父が休日の間ずっと冷暖房を使い続けていたことを。何もなくても、父の毎日の風呂の使い方を。
母が実行し続け、私にも日々課していた「エコに暮らす」ルールの範囲外で生きる父への愚痴は、父への人格否定の言葉と共に私の中に刷り込まれた。

お父さんは、育ちが悪いから。頭が悪いから。

だから父はTVを付けたまま眠るし、水も電気も大切にしないのだと、母は私に愚痴り続けた。
そしてそれを、私は鵜呑みにした。当時小学生だった私にとって、週末にしか顔を合わせず、直接話す機会も殆どなく、血の繋がりもない父を見下すには、「母がそう言っていたから」という理由は十分すぎた。

――お父さんは高校も出ていない頭が悪い人で、それは育ちが悪いからで、だからお給料も安くてママは苦労している。なのにお父さんは、水道代も電気代も地球の事も考えずに、水や電気を無駄使いする。ああいう大人になってはいけない。

そんな刷り込みにヒビが入ったのは、小学校5年生の頃だ。

TVで再放送された「風の谷のナウシカ」にハマった私は、その頃増えていた母の不在の時間を、録画のビデオを繰り返し見ながら過ごしていた。
凛々しく、賢く、勇気のあるナウシカに憧れながらアニメを見続ける内に、当時の私は「自然環境を善とするなら人類は悪であり、本当に環境を大事にするなら、人類は滅亡せねばならない」という、今にして思えば厨二病的な結論に到達して、絶望すると同時にヤケを起こした。

――どう足掻いても人間なんて結局、地球から見れば害虫に過ぎない。ならば害虫は害虫らしく、開き直って生きるしかないじゃないか。

本来「風の谷のナウシカ」はそういう結論のストーリーではないし、漫画版も含めて読む機会があればまた違ったのかもしれないが、満10歳の私にはそこが限界だった。
そしてその思考を話せる相手もいなかった私は、母の前や学校ではお手本通りの回答をこなしながらも、腹の奥では「人類は滅亡すべきだ」「地球のために滅亡する気もない癖に『環境を大事に』なんて偽善だ」と怒りにも似た感情を抱くようになった。
大好きだった「風の谷のナウシカ」は、見るたびに人間である自分自身への嫌悪を誘発するものになり、同時に人間でありながら人類滅亡を望む自分への罪悪感をも発生させた。私は「風の谷のナウシカ」を見るのをやめることでその感覚から逃げようとしたが、「人類は滅亡すべき」「エコは偽善」という思想だけは残り続けた。この辺り、ノストラダムスの大予言で世間が盛り上がっていた90年代という時期も影響していたかもしれない。

そして母の「エコ」を「こんなの偽善だ」と否定的に見始めると、連動して「お父さんは頭が悪い」という母の評価にも疑問が湧くようになった。

丁度その頃、父が家にいる時間が増えていて、会話の量は少なかったものの、父という人を直接見られるようになったのが大きかっただろう。父は知識をひけらかすタイプではなく、子供目線で「頭の良い」人とまでは思えなかったが、少なくとも母と接するに当たって「賢明な」言動を取っていることは見て取れたし、父が家にいて母の話し相手をしている状況は、当時の私には非常にありがたいことだった。

私にとって、父が家にいる状況は「安全」を意味していた。
父が家にいる間は、母に叩かれたり怒鳴られたりすることはほぼなくなる上、「母の話を聞く」に取られていた時間も自由になる。
母が今日何をして過ごしたかの苦労話、PTAの噂話、父への愚痴、過去の武勇伝、新聞やニュースへの意見。多種多様だが興味を持てない母の話を、毎日何時間も聞かされ続けていたのは苦痛でしかなかったし、相槌や表情の選択を間違えたり、話に飽きているのがバレれば怒鳴られ、その後数時間は叱られていた私には、家にいるようになってくれた父は、ある意味救世主だった。
そして、父のもたらす「安全」と、父の「エコでない」という欠点を天秤にかけるなら、私にとって重要なのは明らかに「安全」の方だった。

当時の私が「エコでない父」を「よく知らない人」から「いてくれると助かる人」と思うようになった事と、母のエコに従いつつも内心では偽善と断じ、同時に「エコでない人は頭が悪い」という母の論調に否定的に考えるようになったことは、無関係ではなかっただろう。

と、ここまで書いて思う。
私の中では、もしかすると今も、「エコ」と「安全」――「エコ」と「父」が、対立するものとなってしまっているのかもしれない。
そして私は「エコが好きではない」というスタンスを取ることで「安全」を感じ、同時に母の価値観から独立した感じを得ながら、しかし世間一般への漠然とした罪悪感を抱えている、ような気がする。

であれば、きちんと思考を切り離すべきだろう。
私がエコに興味を持つかどうか、エコに沿った思想や生き方をするかどうかと、私と両親の関係の話は、本来一緒くたにすべきではない。
私がエコに対して肯定的なスタンスを取るようになったからと言って、それは父の人格を否定することにはならないし、母の思想を正義とすることにもならない。私の安全は脅かされないし、私の価値観が母からの独立を失う訳でもない――と。

一方で、自己受容の観点からいうならば、エコの話題が苦手な私のままであっても、特に罪悪感を覚える必要はないはずである。世の中には父のような「エコの意識が全くない人」も沢山いて、私もそちら寄りに属しているというだけの話だ。
「エコに興味がない私」に固執する必要もないが、「エコに興味を持つ私」にならねばならない訳でもない。興味が出る時が来たら、興味を持つ私に自然と「なる」はずで、その日がいつになっても、永遠に来なかったとしても、きっと構わないはずである。あくまでも私個人の生き方の話で言うならばであって、地球環境にとってどうかはまた別の話になるが。

……とそんなことを書いたものの、これまでの私は、noteに「これが嫌いだ」と書くと、書き終わった瞬間から、それが大して嫌いでなくなるという現象が高確率で発生している。今も何だか書いている内に、別にエコを嫌わなくても良いじゃん、という気が早速してきた。
丁度今週末には、この話を書くきっかけになった「海の環境を考えるドローンの体験教室」に息子を連れて行く予定がある。ここまで分析が出来た状態の私なら、先日日記を書いた時よりは、少し素直な気持ちで話を聞いて来られるかもしれない。

うん。父はエコではない人だったが、別にエコを批判していた事は全くなかった。もし父が生きていたとして、私が「行ってくる」と言えば、「おぉ、そうかそうか」とニコニコするだろうし、何なら誉めてくれるかもしれないとも思う。TVはやはり付けっぱなしにするだろうし、風呂の入り方も改めないだろうけれど。

エコな話は、私の安全を脅かさないし、別に父を否定するわけではないし、母を肯定するわけでもない。よく自分に言い聞かせてから、今週末のイベントに行ってこようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?