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【失感情症】大切な人を失くしかけた日、の話。

愛着障害の治療には、「安全基地」が必要とされる。
分かりやすく言えば「心の拠り所」ということになるが、私は、その「安全基地」を務めてくれている人を、失くしかけたことがある。

昨年の5月、彼は倒れた。私の目の前で、心筋梗塞を起こして。


読む方を不快にさせたら申し訳ないのだが、彼と私の関係は、端的に言えば不倫、ということになる。
この彼についての説明、もとい言い訳は、先日書いたこの記事だ。


私は首都圏に住む彼と数か月に一度、良く言えばデート、週刊誌風に言えば密会をしていた。
もうあけすけに書いてしまうが、彼が仕事を休んで私の住む県まで移動してくれて、私は車で彼を拾いに行き、ホテルでイチャついたり駄弁ったりして過ごすという、由緒正しき密会現場である。

彼が胸を押さえて「苦しい」と倒れ込んだのは、部屋に到着してしばらく駄弁り、イチャつき始めたあたりのタイミングだった。
ベッドに倒れ込んだ姿勢のまま体を動かすことも出来ない。呼吸が荒く、私の問いかけに対しても、僅かに頷いたり首を振ったりするのが精一杯。話すことも出来ないらしいその様子に、ただ事ではないと分かった。

高速で思考が駆け巡った。

彼は持病もなく、趣味が筋トレのアラフォー男性だ。健康診断の結果も良いと聞いている。

――だがその半年ほど前、明け方に強い胸痛と息苦しさを覚えて起きた、という事があった。翌朝に症状を聞いた私は狭心症を疑い、循環器科の受診を薦めたが、彼は息苦しさの方を重視して内科・呼吸器科を選択し、検査の結果、異常なしと診断されていた。その後しばらくの期間は息苦しさが続いたものの、最近は良くなったと聞いており、二人で首を捻りつつもそれ以上深く考えずに終わりにしていた事案である。
つまり、半年前と同じ事が起こっているとするならば、既に診断済みである以上、呼吸器系の疾患ではない可能性が高い。

会話が出来ないほど急激に息苦しくなる、だが呼吸器疾患でない何か。
やはり心臓か。「急に倒れた」の方で判断するなら、脳梗塞なども選択肢から外せない。

救急車を呼ぶ?と尋ねると、彼は首を振って否定を示した。
ある意味では当然の回答である。今日この県にいること自体、彼からすれば家族に隠さねばならない事柄で、救急車を呼んで入院沙汰になるわけにはいかない。だが、そんなことを言っていられる状況なのかどうか。

――落ち着け。判断しろ。何をすべきか考えろ。

この時ほど、「感情を殺せる」自分を便利だと思ったことはない。
泣きわめきたい衝動を腹にグッと押し込んで、フリーズしそうな頭に意識を集中させると、私の感情は一瞬であっさりと冷えた。ざわざわとした不快感は残ったし、自分の目つきが睨みつけるようにキツくなるのが分かったが、「やれる」と思った。私は、判断できる。普段と同じ精度で。

彼の顔色を見る。土気色。
唇は。紫にはなっていない。今のところチアノーゼは出ていない。
呼吸は。荒いが、呼吸音はおかしくない。不規則に止まったりもしていない。彼自身の意思で呼吸が出来ているように見える。
全身にびっしょりと汗をかいている。症状として意識に留めつつ、手近なタオルでそれを拭う。
発熱はない。あったとしても高熱ではない。
手首に触れて脈を取る。脈は規則正しく、間が飛んでいる感じもない。自分の脈と比較する。私と同じかやや早い程度。自分の頭の中のメトロノームを呼び出してテンポを推測し、90から100の間ぐらいと見当を付ける。
つまり、若干早いかもしれないが、呼吸の荒さと比較すれば異常とまでは言えない心拍数のはずだ。

ここまでで、彼が倒れてから5分は経過しているように感じる。
彼はまだ苦しんでいて、会話が出来る状態にはならない。だが意識は失っていない。
彼が意識を失ったら問答無用で救急車を呼ぼう、と心に決めて、彼の様子を伺いながらスマホで症状を検索する。同時に現在時刻を頭に入れる。

google先生はどんな時も頼りになる。日頃スマホを使い慣れていない自分を呪いながら、それでも可能な限り急いで画面をスクロールし、検索とページ参照を繰り返して、読み慣れない医療系の単語がひしめく情報群を、片っ端から頭に流し込むと同時に取捨選択していく。
脳か、心臓か――考えられる中で緊急性が高いのは、やはりこの2パターンだと思われた。
症状からすると心臓の可能性が高いが、念のために頭痛がないか、手足の痺れなどがないかなど、脳梗塞のいくつかの項目について彼に確認を取る。いずれも彼は首を振って否定を示した。脳梗塞ではないと判断して良いだろう。

若干だが彼の様子がマシになってきたので、彼の頭を少し持ち上げさせ、頭から背中にかけて枕やクッションを押し込んで角度を付ける。呼吸器疾患で亡くなった父は、息苦しい時によく上体を起こしていた。少しでも呼吸の助けになるかもしれない。

彼が苦しみ始めてからおよそ10分が経過したが、まだ彼は喋れるようにはならない。
救急車を呼ぶか、もう一度尋ねる。彼は首を振る。この頑固者め。
とにかく意識を保てと発破をかけて、今度は心疾患系統のチェックリストで症状を確認していく。

狭心症発作、あるいは心筋梗塞。胸の痛み、息苦しさ、発汗などの症状から、私に出せる結論はこの2択だ。
そして15分以内に症状が治まるならば、狭心症。30分を超えて症状が続く場合は心筋梗塞――情報を乱暴にまとめると、そういう事らしい。
既に、私が最初に確認した時刻から15分が経過している。私の体感時間はイマイチ当てにならないが、彼が倒れてから20分前後が経過したところだろう。

google先生によれば、心筋梗塞を発症した患者は40%が死に至り、病院にたどり着く前に亡くなるパターンが多いらしい。
だが今の時点で彼は死んでいない。症状が治まっているとは言い難いので、心筋梗塞である可能性は残るが、30分以内に少しずつでも回復するようならば、狭心症発作とみて良い、かもしれない。

自分史上、恐らく最高速度の思考でここまで辿り着いて、少し息をついた。
もう少し医療系の知識を持っておくべきだった。これまで父や親戚など何人か、死に瀕した状態の人間を見た経験はあるが、がんやCOPDなどの慢性疾患ばかりだった。生命力が十分にある、完全な健康体に見える彼の肉体が、死に瀕している可能性が高い――という事態が、情報としては理解できるのに、どうも上手く飲み込めない。

ともあれ、「何が起こっているか」の結論がある程度出せた以上、次に考えるべきは「どうするか」だ。
口の中がカラカラになっていることに気付いて、ペットボトルを取りに行き、飲み物を二口飲む。何となく彼を振り返るが、飲める状態でもないだろうと思い直し、尋ねないでおく。そこまでの余裕が残っている自分にちらりと自己嫌悪がかすめ、そんなものに浸っている場合ではないと思い直す。

どう考えても、救急車を呼ぶべきだ。そんなことは分かり切っている。
もう一度彼に「救急車、やっぱり呼んだ方が良いと思うけど」と話しかけると、やはり首を振った上で「良くなってきてる」というかすれ声が、荒い呼吸音の隙間に辛うじて聞こえた。

――いや、ダメだろう。

ギリギリ声が出せるようになった、というレベルの回復を「良くなってきた」と呼べるかどうか。
さっきまで完全無欠に見えるほど元気だった人が急に倒れて、身動きも取れず話も出来ない状態から20分以上回復できないのが、「ちょっと調子悪かったみたいで」で済む話なわけがないのだ。
彼の意思を尊重している場合ではない。本来なら一番最初に呼んでいるべきだった。彼に何度もこうして尋ね、ぐずぐずと行動を遅らせていること自体、私は「彼の家庭環境を壊す」判断をすることから逃げている。

救急車を呼ばなくても大丈夫かもしれないパターン……つまり彼の症状が狭心症発作だろうというのは、私の願望交じりの素人判断だ。
私が間違っていて、やはり心筋梗塞だったら、彼はかなりの確率で死ぬ。私は医者ではないし、この状況では大した判断材料すらない。

だが、彼の意思に反して救急車を呼んだとして――その上で彼が死ぬとして、あるいは生き残るとして、どうなるか。

彼が、通常ならあり得ないはずの遠方の病院に担ぎ込まれる事態となり、彼の家族に私との関係が知られたとして、私が問われる責任が怖いわけではない。彼の家族に恨まれようと、受け止める覚悟はある。不倫の慰謝料ぐらい何とか出来る。私の側の離婚など大したデメリットでもないし、息子には悪いと思うが、夫にはそもそも文句を言われる筋合いすらない。
だが私の側はそれで良くても、彼の側はそれで完結する話ではないはずだ。

そして目の前の彼は、自分が死なない前提で「救急車を呼ぶな」と主張している。
彼が死なずに済むならば、勿論それがベストだ。
私との関係が露呈した時、彼の配偶者がどういう振る舞いをするのかは予測が出来ない。彼は離婚を恐れている――毒っ気の強い奥さんと子供の間に立ってやれなくなり、彼の子が毒親育ちになってしまう可能性を、恐れている。

一方で、もしこのまま彼が死ぬならば、どの選択をしようと、彼本人にとっては意味がなくなる。
だが、今から1時間でも2時間でも、彼の命が続くなら?
私が彼を車で首都圏まで運んでから救急車を呼べば、彼は死ぬとしても首都圏の病院で死ぬことになる。つまり今ここで救急車を呼ぶよりも、遺される彼の家族にとってショックの少ない死に方になる。

もし賭けが外れて彼の命が持たない場合、彼は私の車の中で死ぬことになるだろうが、結果的には彼が今この場で死ぬのとほぼ変わらない。私が彼の命に対して保護責任を問われる可能性があるぐらいだろう。彼の命への責任など、私が負えるならいくらでも負おう。

――それに。それなら。
彼の最期を、私が見届けることが出来るかもしれない。

ふとそう思いついたら、暗い喜びさえ湧いてきた。
自分が錯乱して気が狂ったのかと思う。今まさに生命の危機にある彼を目の前に、彼が死ぬことを想像して、それでもこの瞬間に私に湧き上がったのは、間違いなく「喜び」だった。

彼が最期に見る人間が、私となる可能性。彼の人生の終わりを、見届けられる可能性。それは、不倫関係では通常叶うはずがない願いだ。
本来なら、彼がいつどこで死んだとしても、私はそれを知ることすらできない。でも今日、今から彼が死ぬなら、私は彼をすぐそばで看取れる。

彼が死ぬことを「喜ばしい予定」として組み込み始めた自分の冷徹さにゾッとしながら、とにかく私は「現実的な対応」の方へ意識を振り向けた。
何とかして彼を車に乗せることができれば、彼を東京まで――可能なら彼の自宅の地域まで、ひたすら車を走らせれば、連れていける。理論上は。
問題は、私が車の運転が下手くそで方向音痴なこと、長距離運転に慣れていないこと、そして首都高に乗った経験がないことだ。が、いくら悪名高い首都高と言えど、人間が作った人間のための道だし、ナビさえあれば行って行けないこともないだろう。道中に二人で事故死したら元も子もないので、気をつける必要はあるが。

彼が苦しみ始めてから30分ほど経過したあたりで、彼の容態は目に見えて回復してきた。少しずつ会話が出来るようになり、体を起こせるようになったので、車で自宅近くの病院まで送ると伝えて、身支度をするように促す。
動けない状態の彼を引きずって、この部屋から車まで運ぶ、などという芸当は私には出来ない。だがとにかく車まで彼が自力で歩いてくれれば、その後は彼が死体になっても「運べる」。
そう考えての発言だったが、彼は「汗をかいたのでシャワーを浴びてから着替える」などと言いだした。何とか立ち上がった、としか呼べない状況で、私が止めるのも聞かずにゆっくりと歩き出す。呼吸に困難を抱える人に独特の姿勢、終末期医療に入る直前の父を思い出させる緩慢な動作で、壁や洗面台を伝いながら、バスルームに消えていく。
正直、肝が冷える。私は彼の心臓が今この時にも停止する可能性を考えているのに、彼自身は「ちょっと苦しかったけれど、良くなってきているから問題ない」としか思っていないのだろう。これが正常性バイアスか、と妙な所で納得しながら、彼の着替えを準備し、バスタオルを構えて、彼が出てくるのをドアの前で待つ。

晩年の父は、入浴自体よりもむしろ、体を拭いたり着替えたりすることの方に介助が必要だった。呼吸がままならない状態で、それらの動作を行うのは今の彼には負担が大きいはずだ。
やがてバスルームから出てきた彼に動くなと指示して、棒立ちにさせたまま全身を拭き、椅子まで誘導してから服を身に着けさせる。そのぐらいは自分で出来ると彼が言い張ったので、「音声で言い張れる」ほどに彼が回復してきたことにやや安堵しながら、その間に自分がやるべきことを探す。

まずは、連絡。
現在時刻は正午をやや回ったところだが、今から彼の自宅付近まで往復するとなれば、これ以上のトラブルが何も起こらなかったとしても、私の帰宅は息子の下校時刻に間に合わない。少しでも渋滞に巻き込まれたりすれば、夕飯にすら間に合わなくなるだろう。食事の用意はしてあるので、私が夕方までに帰宅できなければ、それを食べさせてくれるように、母にLINEで依頼しておく。
下剋上イベントから後、「良い人」モードになった母は、日ごろ私の行動に干渉しなくなった。が、息子の面倒は見てくれるし、息子に対しては「良いババ」だ。借りが一つできるが、後でビールでも買っておこう。

次。彼が病院にたどり着いた後、あるいは救急車を呼んだ時、彼がまた話せなくなっている場合に備えて、先程の症状の分刻みでの推移を、持っていた手帳のページを破って走り書きし、彼に持たせる。これで、私が病院まで付き添えなくてもデメリットが減るはずだ。
あとは何かないか。部屋の中を見回し、スマホや充電器など、私と彼の分の所持品をそれぞれの荷物に戻す。そこで、テーブルの上にサンドイッチが置いたままな事に気が付いた。

――食べられるうちに、食べておこう。

最近料理を覚え始めた彼が、「自分でマヨネーズを作ったから」と、昼食用にと作ってきてくれた卵サンドだ。
緊張状態で食欲などまるでないが、朝食を採っていない私がこれから往復5時間の運転をすることを考えれば、何か食べておいた方が良い。
「サンドイッチ、もらうね」と声をかけると、彼は笑顔を見せて頷いた。胸の奥がぎゅうっと締め付けられるような気がした。

湧き上がりかけた感情をもう一度腹の奥に押し込めて、サンドイッチにかぶりつく。味が感じられないかと思ったが、そんなことはなかった。私の味覚は正常に、卵と、卵の風味がしっかりとするマヨネーズの味を――私の好物の、しかも彼が作ってきてくれた卵サンドの味をきちんと受け取って、脳に送ってきた。

「凄く美味しい。ごめんね、一人で食べて」

「……いや。さすがに、俺は、食えないから。良かった」

ようやく服を一通り身に着けた彼が、肩で息をしながら、それでも私に笑顔を向ける。もぐもぐとサンドイッチを咀嚼していると、私の目から涙がボロボロと落ちた。

――まだ泣いている場合じゃない。今は食うのに集中しろ、泣くのは後だ。

心配なのか安心なのか、自分でもよく分からないまま、涙を拭いながらサンドイッチを食べる。大丈夫。私は、食べられる。
小さい頃から、ずっとそうだ。母に怒鳴られながらでも、39℃台後半の熱があっても、ペットが死んだ日も、心底死にたい気分でも。どんなに食欲がなくても私は、食べるべき時には、食べられるのだ。

実に可愛げがない女だ。急に倒れた恋人を前に、スマホで検索をしながら症状を判断し、彼が死ぬと半ば以上確信しながらも、ロクに動揺もしないまま、食べることを優先できる。涙が出てはいるけれど、この涙が何故出ているのかさえ、私には分からない。
冷たい人間だと、何を考えているか分からないと、子供の頃から言われ続けてきた。誰が死んでも、何があっても、私は滅多に取り乱さない。取り乱している場合ではないと考えたその瞬間に、取り乱せなくなってしまう。
――だが、彼はそんな私を責めない。自分が作った卵サンドの味を気にして、美味しいと言った私の言葉に、純粋に安心している。私が彼のサンドイッチを食べられていることを、喜んでくれている。

彼が作ってくれたサンドイッチを食べるのは、これが最後になるかもしれない。そんな思考を読まれたかのように、「大丈夫だよ、またサンドイッチ作るから、最後とかじゃないから。泣かないで?」と彼に言われて、笑った拍子にまた涙が落ちた。

彼の言葉が、嘘にならないといいな――と、そう思った。


彼との初めての長距離ドライブは、意外とスムーズだった。
助手席の彼の心臓がいつ止まるか、自分はどの地点から死体を運ぶことになるか、と様子を伺っている私をよそに、彼の症状はかなり治まったようで、どんどん口数が多くなり、長距離運転させてごめん、としきりに謝られた。しまいに彼は「途中で降ろしてくれれば、後は自力で電車で帰る」と言い出して押し問答になったが、「頼むから今日だけは言うこと聞いて!!」と強引に黙らせた。人生初の首都高は高低差とカーブが激しく、うっかりマリオカートのコースを思い出すほどだったが、とにかく通過することは出来た。
やがて、彼の自宅最寄りの駅に到着した。すぐ近くに循環器科があるらしいが、見える範囲に看板は見当たらない。

――これが、彼の姿を見られる最後かもしれない。

ゆっくりと駅前の階段を上がっていく彼の背中を見送る。
くれぐれも無理はしないでくれ、この先は少しでもヤバいと思ったら救急車を呼べと、口酸っぱく言い聞かせてはおいたが、彼の性格と今の症状への認識を考えると甚だ怪しい。とはいえ、駅周囲なら人通りはあるし、彼がまた動けなくなったら、周囲の人が救急車を呼んでくれる可能性もあるだろう。
本音を言えば、病院の入り口を入る所まで付き添って見届けたかった。だが、ここは彼の生活圏内だ。私が彼に付き添えば、それを他人に見られるリスクがある。

――帰ろう。

この先の彼がどうなるにせよ、私の干渉できる範囲ではなくなってしまった。軽く目を閉じて、意識を切り替える。まだ、気を抜くわけにはいかない。

帰り道の首都高はやはりマリオカートのようで面白かったが、途中で見事に渋滞に巻き込まれ、更に途中でガソリンが無くなりそうになったりして、私の帰宅は結局、18時半過ぎ――夫の帰宅よりもさらに遅くなった。
が、頭の中で用意していた様々な言い訳を使う必要もなく、母も夫も息子も、私を見るなり自分の話をし始めたため、私の発言は「買い物に行ってた」の一言だけで十分足りた。

――何とかなって、良かった。

彼からはその後、「循環器科に行って色々検査をしてもらって、異常は見当たらないと言われた。明日の夕方にもう一度、血液検査の結果を聞きに行く」という内容に加え、帰り道を送ったお礼と、私が無事に帰宅出来たかをしつこく尋ねるメッセージが入っていた。

あれだけの症状が出ていて、彼が「異常なし」ということはあり得ない、と思ったが、どのみち検査結果が出揃ってからの話だ。明日、改めて異常なしと診断されるようであれば、もう一度症状を洗い直して、別の専門科か、セカンドオピニオンを薦めよう。そう心に決めて、「とにかく今日はお互い疲れてるはずだから、ゲームは遊ばずに早く寝よう」と返信しておく。

どうあれ、彼が無事でよかった。

ただそれだけを噛みしめながら、いつもの家事をこなした。昼間の緊張の反動か、家に着いた瞬間から、世界に一枚膜がかかったかのような遠さを感じていたが、ストレスがかかった日にはよくあることだ。どこかふわふわとおぼつかない世界で、その夜はそれ以上何も考えず眠った。


最終的な結論を言えば、私の「診断」は決して大げさなものではなく、概ね当たっていた。それどころか、見積もりが甘すぎたぐらいだった。

翌日も朝から「体がだるくて仕事は出来そうにない」とリモートワークをサボる形で寝ていた彼は、夕方に検査結果を聞きに行った病院で、心筋梗塞と診断され、大きな病院へと救急搬送された。彼はそのまま心臓にステントを入れる手術を行い、私に「今から集中治療室に入るから2,3日連絡できない」とメッセージをくれたきり、3日間音信不通になった。

自宅でそのメッセージを受け取った私は、ここでようやく「取り乱す」ことができた。このまま彼が死んでも、私に知る術はない。メッセージと通話のためのアプリは使っているが、彼の電話番号もLINEも知らない私には、彼が自分の意思でスマホやPCを触れなくなったら、彼に連絡を取ることは不可能だ。
彼の地域の地方紙の「お悔やみ欄」をネットで毎日確認し、辛うじて聞いていた彼の本名がないかどうか探しながら、私は生まれて初めて「動揺のあまり、何も手につかない」という状態を体験した。

あとから聞いた所に寄れば、その半年前の胸痛の時点で1度目の心筋梗塞が起こっており、しかしその後彼自身の治癒力で、詰まった血管を迂回する新しい血管が出来ていたために、回復したように見えていたらしい。
つまり、私の目の前で彼が起こしたのは2回目の心筋梗塞であり、3本の冠動脈の内の2本が詰まった状態だったということだ。

――待って。それ、2/3死んでるじゃん。

集中治療室から無事に出られたという連絡を貰った私の、症状を聞いての一番最初の感想は、それだった。
私の考えすぎ、なんて生易しいものではなかった。本当に、あとひとさじでも彼の症状が重ければ、彼はあの時死んでいた。
私が、救急車を呼ぶのを躊躇ったせいで。

その事実は、今も私の胸に重く重く残っている。
私は――「感情を押し殺した私」は、最も大切な人の命でさえも、その他の事情と天秤にかけ、切り捨てる判断をすることが出来る。出来てしまう。
知らなかった、訳ではない。私はあの時、彼の命が危険であることを十分に理解できていた。高確率で彼が死ぬと予想していた。その上で、彼の望みだったとはいえ、彼の命が助かる確率を上げる事よりも、彼の死後、彼の家族が彼の死を受け入れやすい状態であることを、優先した。
また同じようなことが起こったら、私はまた同じような判断をして、大切な人の命でさえ、切り捨てるのだろうか。
私自身の命を優先しないだけなら良い。だが例えば震災のような極限の状況下で、また彼や息子の命を背負う局面があった時、私は「私が救いたい命」よりも、周囲の人間にとって好都合な選択をしてしまうのではないか。
そう考えると、自分が酷く恐ろしい。


彼はその後、順調に回復した。現在は定期的な通院と服薬、食事の塩分制限が必要な状態ではあるが、元気と言って問題ない状態だ。それ以前と同じように仕事も出来ているし、健康維持のために運動も継続している。
彼は私の事を、ベストな判断をしたと誉めてくれ、命の恩人だと言ってくれている。あの日の翌日、心筋梗塞だと判明して緊急搬送された日に「命の危険があるから一歩も歩くな」と医者に脅かされたために、「あの日ワタリが車で送ってくれなかったら、駅で歩いている内に死んでたかも」と思っているらしい。

私からすれば、私はむしろ彼の命を危険に晒した人間だが、この議論は何度しても彼と平行線になり、折り合わない。
ただ、彼がそう言ってくれていることは救いだ。私の冷徹な判断を、「お陰で助かった」と彼本人が言ってくれるなら、彼の世界ではそれが事実なのだ。私の感想に関わらず。

私が「次の機会」にどう判断するかは、私自身の宿題として備えておくしかない。いついかなる時にも、自分の感情に極端に反する行動を取ることがないように、優先順位をまた間違えることがないように、自分の意識を変えなくてはいけない。そうでなければ、いつか私は取り返しのつかない後悔をすることになるだろう。

ともあれ、結果だけ見れば、彼の命は助かり、私と彼の関係が露呈することもなく済んだという意味で、その日の一件はベストな結末にはなった。
めでたしめでたし、と言える話ではないけれど――とにかく彼が生きながらえてくれたことを、そして今も普通の生活を出来ていることを、天に深く感謝している。

特に男性の方へ。
持病がなく、健康診断の結果が良く、健康に気を使っているつもりで、更に年齢が若くても、ある日突然、心筋梗塞などの血管障害を起こす、という事態はこのように発生します。
大抵の場合は彼のように、「前兆となる症状」があり、二度目、三度目に同様の症状が発生した場合に重篤になるケースが多いようです。
医療機関で一度「異常なし」と診断されても、不調が続く場合は専門科を変えるなどして、複数の医療機関で診断を受けることをお勧めします。


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