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【日記】完全に生きている、という話。

昔から、風が強い日が好きだ。何故なのかはよく分からないけれど、こう、何かワクワクする感じがする。
月曜の午後は晴れていて、冬ももう終わりだな!と思わせるキリっとした日差しが傾いていて、風に煽られた木の枝がぶんぶん振り回されて、その影と光が目まぐるしい勢いで踊り狂っていて、相変わらずゲームをしていたモニターから目を上げたらそれに何だか見とれてしまって、あぁ、私は今完全に生きてるな、とそんな風に思った。
割と最近、そんな風に思う瞬間が多い。

じゃあ今まで生きていなかったのかと言えば、私は別に元ゾンビとか元幽霊とかのトリッキーな経歴はないので、当然生きていたはずなのだけれど、でも多分、「完全に生きて」はいなかったんだろうと思う。最近、正確に言えば去年の10月あたりまで。
自己受容が出来たと思えてからのこの数か月、私は物理的には大して変わりない日常を送っている(と思う)けれど、でも恐ろしいほどに堂々と生きている。不安になることがない訳じゃないし、心配事がない訳でもない。怒らない訳でも悲しくならない訳でもないけれど、でも何と言えば良いのか、とにかく根拠のない自信のようなものが自分の中に出来た。「自分はこのままで良い」という感覚、未来に何が起こるかは分からないけれど、きっと大丈夫だし大丈夫に出来るだろう、という無責任で漠然とした信頼感が存在している。

そして、それを前提として、風の強い晴れた日の景色を窓ガラスの向こうに見た時、「私は今、完全に生きている」と思った。
少し、いや結構疲れる系統のイベントをいくつか週末にこなしていて、ついでに軽く風邪も引いていて、もっと言えば花粉症もPMSもあって、ステータスは決して良くはない。でも緊張がほどけた後にダラっと過ごせる午後があって、風に踊り狂う木漏れ日を綺麗だと眺められる時間があって、そこに自分が揺ぎ無く存在していることを実感できて、じわりとごく静かな喜びが染み通るような、そんな気がした。

最近の私は多分、かなり完全に、今を生きている。そう思う。

少し前までは、過去を悔やんでいたし、恨んでもいた。自分がこれまで多くの人を傷付けて生きてきたことに罪悪感があった。そんな過去を踏み台にして、仮初の平穏を生きようとしている自分には、本来そんな風に生きる資格などないと本気で思っていた。
毒親育ちを自覚してからは、そもそも親が私をそんな風に育てなければ、私は余計な鎖を引きずることなく、始めからまっすぐに生きられたはずなのに、あんな思いはしなくて済んだのに、あんな風に他人を傷つけることもなかったのに、そういう種類の恨みや後悔が山ほど出てきた。

自己受容が分かったと思えた直後にも、もっと早く私が自分を変えられていたら、と強く思った。私はあまりに長い時間を無駄にした、そのせいで息子にも影響を及ぼした。今まで取りこぼしてきた分を、失ったものを、何とかして拾い集めて取り戻さなくてはいけない。苦しみから解き放たれたという喜びに震えつつも、どこかそんな焦燥感があった。

でも最近はそれらを全て、「それはそれとして」と思う。
どうあれ、今の私はこうして完全に生きている。
過去の自分がしたことも、されたことも、事実として存在したままだけれど、それはそれとして、今、私は生きている。完全に。堂々と。

あらゆる意味で、ただそれだけだ。でも、少なくとも今の私にとって重要なのは、過去の傷の記憶や後悔よりも、今日の日差しと風と木々が織りなす風景の色の方で、それをとても自然で軽やかで、呼吸しやすく感じる。

きらきらと乱雑に、強すぎる風を受けて光と影が踊り狂う。そのお陰で、見飽きたと思っていた冬の庭が、眩しく色鮮やかに見える。
それをただぼーっと眺める私は、別に数か月前と大した違いもなくPCデスクの前に座っていて、モニターにはゲーム画面が写っていて、その中でロシア人が文句を言っているのをドイツ人とポルトガル人がシカトしていて、私はロシア人を宥めようかちょっと考えたものの、面倒だし放っておこうと決めた直後で、
それは「自分がただ生きている」事への罪悪感に押し潰されそうになりながら、自分がそうしなければいけないと思ったあらゆる事柄を(「行動する」であれ「しない」であれ)完璧にやり遂げるために、がむしゃらに頑張っていた頃よりも、ずっとずっと怠惰なはずだけれど、

どうあれ、それはそれとして。
私は今、この上なく完全に、堂々と根拠のない自信をもって、生きていると感じていて。

ただそれだけですが、そういう日記です。

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