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読書記録|『夏がとまらない』を読んで|「あかん人たち」の住む世界

(2017年10月3日執筆)

またしても藤岡拓太郎さんの虜になってしまった。9月の末に出版されたギャグ漫画、『夏がとまらない』。夏がとまらないというか、夏がそこにある、という感じがする。この本を開くたび、とまったままの夏が待っていて、私は2017年の夏に思いを馳せるのだろう。



大学を出てすぐ留学をして、私は長いこと海外にかぶれていた。ゆりやんレトリィバァのギャグ「あんたの英語バリヤバイ」系の巻き舌キャラにこそならなかったが、黒髪ワンレンかき上げパーマくらいにはなった。今は多少落ち着いたが、かぶれスピリット自体は現在も脈々と私の中に息づいていて、とにかくテレビを全く観なくなり、マンガも全く読まなくなった。

高校時代はヴィレッジヴァンガードで一風変わったマンガを探すのが好きだった。しかし私は大人になり、様々なノイズの影響を受け、人や物のヨサを自分の心ひとつで見ることが出来なくなってしまったらしい。漫画なんて読みませんよと言わんばかりに、過去に買い集めた作品を殆ど手放した。

それでも、これだけは自分のルーツだからと、ギャグ漫画の類だけは残しておいた。

小学生の頃から一冊一冊買い集めた、2ニケとククリの永遠の冒険の書、『魔法陣グルグル』。

めったに読み返さないのに、睡魔のスイマーのすいまー(名前)が脳裏にこびりついて離れない、『赤ずきんチャチャ』。

モテについて考えるたび、ニューギニアに棲むフクロイヌ科の奇獣モテモテを思い出させてくれる、『伝染るんです。』。

ピアノ弾きだった私を夢中にさせ、やがてフランスへと旅立ってしまった『のだめカンタービレ』と、それを始めとする二ノ宮知子のドタバタ作品。



むしろギャグ漫画は恥ずかしくないんかいという疑問はさておき、どれも現在の私(の笑いの根幹)を形作ってくれた、大切な人生の登場書物たちだ。オシャレや少女漫画への憧れは捨てられても、笑いの源だけは捨てられなかった。

テレビを見なくなった代わりに、留学を終えてからの私はネットにどっぷりハマっていた。すっかり日課となったツイッターを眺めていて、リツイートで流れてきたのが藤岡拓太郎さんの2コマ漫画だった。

(特に好きな作品)


正直どの作品と最初の対面を果たしたのかは覚えていないけど、とにかく「吉田戦車の再来や!!」と興奮したことを覚えている(吉田戦車さんとは、不条理ギャグマンガの礎、『伝染るんです。』の作者である)。

さっそく過去に投稿された作品を一通り遡って、それからは毎回の更新が楽しみでたまらなかった。私をギャグ漫画の世界に呼び戻してくれたのは平成の吉田戦車だった。むしろ吉田戦車より好きかも……とすら思った。漫画を読んでこんなに面白いと思ったのは本当に久しぶりだった。

それから時はゆっくり流れて、2年程が経っただろうか。「平成の吉田戦車」はあっという間に独自の世界観を固め上げ、「2017年の藤岡拓太郎」になっていた。私はもう吉田戦車を連想しなくなっていた。

瞬く間に評判になった彼。Webに公開された作品を紙に印刷してしまいたいとすら思っていたので、出来れば単行本を出してほしかった。まだかなー、ないかなー、と思いながら暫く暮らしていると、なんだかそれっぽい空気が流れ始め、ついに単行本になりますというアナウンスを目にした。やっと!という気持ちと、出ないわけないもんね!という気持ちがあった。

そしてこの夏、いや、むしろ夏もずいぶん終わった九月の暮れ、ついに『夏がとまらない』が発売されたのだ。

読みながら思った。夏が畳み掛けてくる。『夏がとまらない』を開いている間は、とにかく夏がとまらない。ここにはいつも変わらぬ夏があって、少年がいて、おじさんがいて、おばさんがいる。この温かい気持ちはなんなのだろう。

きっとこの本が刷られた日、日本中の夏が少しずつページの隙間に吸い込まれていったのかもしれないと思った。スケジュールの関係で発売日が8月から9月に延びてしまったらしいけど、夏が終わって秋が来た今、夏の名残りを噛み締めるからこそセンチメンタルで素敵だと思った。

目次もなく、章もなく、1ページの漫画が始まりから終わりまで繋がっていく。間に挟まれた書き下ろしのストーリーはじわじわと面白いのに妙に物悲しく、漫画の中にはもちろん春夏秋冬があるのだけど、通して読むと「日本の夏」と思わされて仕方がない。

読んだ後には、白いタンクトップの少年たちと、濃すぎるオッサンたちの顔のドアップ、そして頬を染めたお母さんたちの残像が心に残る。自然体に狂ったオッサンたちは伸び伸びと奇行を働くが、無垢な子供たちは「まあ、こんなもんかな」と思って奇行の全てを受け入れている。そこには優しいオカンの目線があって、どでかい度量ですべてを包み込んでいる。

なんて優しい世界なんだろう。一冊読み終えた後、こんな世界なら住んでみたい、そう思ってじんわりきた。1ページの漫画たちが、本という形を持って連なっていくことで、厚みのある安心感みたいなものがそこには生まれていた。

夏がとまらない。2017年の夏はいつまでもここにあって、私は折々にこの夏を訪れるのだろうと思った。



ところで、この本を最初に読んだのは大学病院の喫茶店でだった。患者も多く、会計が混雑しがちなこの病院。酷い時には「ディズニーランドやん」と普通のツッコミも入れてしまうくらいに行列ができる。

それまで週一ほどのペースで通っていたのだが、自分の不調や予約の混雑などが重なって、その日の通院は殆ど一ヶ月ぶりだった。やってもらいたい検査もあったし、なんとなくいつもより時間がかかりそうな気がして、Amazonから届いたばかりの『夏がとまらない』を持って家を出た。

混雑の予感は的中した。個別会計用のお支払い機が故障したらしく、人力で対応することになった受付には長蛇の列が出来ていた。この日は幸運にも母が付き添いで来てくれたので、診察の後、母が代わりに支払いに行ってくれることになり、私は喫茶店で待つことにした。

腰を下ろして、一息ついた。いろんな人が座っている。左には、帽子をかぶったパジャマ姿のお婆さん。入院患者さんなのだろう。右隣には身綺麗なおばさん。テーブルの下に隠しながらコンビニのサンドイッチを食べている。お見舞いだろうか、外来だろうか。離れた席にもいろんな人がお行儀よく座っているけれど、文句無しに楽しそうな人は一人もおらず、老若男女、みんな何かを抱えている雰囲気がある。

広大な病院の、明るい吹き抜けの下。ここには、特有の「何か」のオーラが漂っている。明らかに体調が悪そうな人たちや、その付き添いの人たち。普通に健康に暮らしていれば、あんまり向き合いたくない光景が広がっている。そんなちょっと関わりたくない人たちが、この屋根の下では今を必死に生きている。

健康に暮らしていると、「病気」はどこか別の世界のことというか、普通のこと、身近なことではないと思ってしまいがちだ。心のどこかで自分には関係ないと思っている。頭ではそうでないとわかっていても、心で理解することは難しい。

病気という境界線を越えた人たちは、普通の世界にはいられなくなる。話が、行動が合わなくなって、やがて世の中の全く別の場所に留まっているような気持ちになる。住む世界が違ってしまうのだ。

私を含め、この病院にいる人たちは言わば「あかん人たち」だ。しんどくてあかん。気まずくてあかん。めんどくさくてあかん。関わりたくなくてあかん。見たくなくてあかん。「あかん人たち」に対して、世間は驚くほど冷たい時がある。

『夏がとまらない』に出てくるオッサンたちも、ある意味での「あかん人たち」のように私は感じた。あの世界の中ではまるで当たり前のように誰からも何も言われていないけど、一歩外に出たらきっと、完全にあかん。突飛な行動はしたらあかんし、露骨に気持ち悪いのもあかん。知らんおじさんに話しかけられても着いて行ったらあかんのだ。

また一息ついて本を開いた。読み進めると、懐かしいオッサンの顔ぶれが並ぶ。ページをくってもくっても続く、くどすぎるオッサンの顔。

私の視界の隅には、隣の席のパジャマお婆ちゃんがいて、嬉しそうに、穏やかに、ゆっくりとケーキを食べている。帽子が隠した彼女のこれまでとこれからをなんとなく思いながら、この本にならこの人がいても馴染みそうだなぁと思った。

本の中の「あかん人たち」と私たち。どこかが同じような気がして、ほんのり嬉しい気持ちになった。

夏がとまらない。

2017年の夏は、いつまでもこの本の中にあり続けるのだろう。素晴らしい本をありがとう。

P.S. めちゃくちゃ笑いました。



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