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言葉から出て行こうとする言葉 -小田龍哉著『ニニフニ』を読む

しばらく前から安藤礼二氏の『熊楠 生命と霊性』を読んでいる。

今回はこの熊楠繋がりで、小田龍哉氏の『ニニフニ 南方熊楠と土宜法龍の複数論理思考』を読む。

カタカナ四文字が並ぶ不思議なタイトル「ニニフニ」は、漢字で書くと「二而不二」である。

二而不二、ニニフニ

「漢字で書けるなら、どうして漢字で書かず、わざわざカタカナにしたのだろう?」と問いたくなる方もいるのではないかと思われるが、著者の小田氏は、まさにわざわざカタカナにしているものと思われる。なぜなら、二而不二もまた言葉である以上、意味分節システムの中の一項にならざるを得ず、二而不二と非-二而不二(?)の境界区画を壁のように強固に打ち立てておきましょうという衝動に呑み込まれてしまう可能性がある。

しかし、二而不二という言葉で呼ばれていること(事)は、そういう分節システムとしての言語の一項の区画を固定しようという衝動を、超えて、出ていく、離れて、距離をとっていく動きなのである。

その動きは、言語を超える、言語にならない、言語を離れる動き=事である。

しかし言語を超えるからといって、それについては沈黙しなければならないと決め込むのではなくて、言語を超えることをあえてわざわざ仮に、人間にもわかる言語にしてみましょう、というのが二而不二もそのひとつである真言密教の言葉のもつおもしろいところだったりする。

そうであるから、二而不二は、二而不二であるけれどもしかしながら二而不二でもない、というような絶妙な剥離感を言葉のシステムのなかに浮かび上がらせなければならない。

カタカナの「ニニフニ」は、二而不二であるけれども二而不二でなく、しかしながら二而不二である、ということをなのではないだろうか、などと考えてみたくなるのである。

二であるけれども二ではない

二而不二とはどういうことか。

二而不二とは、つまり、二であるけれども二ではない。二者でありながら二者ではない、ということである。

ということである、と言われても「なんのこっちゃ」だろうから、小田氏の書かれていることを精読してみよう。

二而不二について、小田氏は南北朝時代の真言宗の学僧 宥快による『宗義決択集』から読み解いていく。

まず

而というのは「しかしながら」「であるけれども」ということである。

二而は「二だけれども…」ということである。

この二について、これは「「多」を志向する立場」であると小田氏は書かれている(『ニニフニ』p.121)。

二は、まず、あくまでも二である

二であることは揺るがない。

この二は決して無分別な「一」に吸収されてしまうことはない

どこまでも二である。二であろうとして、二を構成する二者、第一の項と第二の項の間の距離を作り出し続けようとする。

…だけれども、不二

そして「二」があくまでも「二」であるところで、はじめて「二だけれども…」と言うことの値打ちが出てくる。

この二而、「二、だけれども…」につづくのが「不二」である。

ここで小田氏は極めて重要なことを書かれている。

「不二」とは、字儀どおりにそれを読めば、「二ではない」となる。かならずしも<不二=一>とは限らない。(『ニニフニ』p.122)

「不二」だからといって、「一」であるとは「限らない」

「二つではないです」と言われると「ひとつなのかな」と思ってしまうことがあるのは人間の脳の面白いところかもしれないが、読んで字のごとく「ひとつ」だとは一言も行っていない。

ニニフニは、二である、だけれども、二ではない、と言っている。あくまでも二ではないと言っており、「一」であるとは言っていない

これはニニフニについて理解する上で極めて重要なポイントである。

「真言密教の「二而不二」とは、本来「多」へと向かう」と、「一」とも「二」ともつかない「不二」のあいだでたたかわされた論議だったのである。」(『ニニフニ』p.122)

小田氏はさらに続ける。

[…]「一」か「多」かという二項対立や、「一」なる全体へと回収されてしまう「多」、といった図式をすでに離れ[…] そこで語られていたのは、もはや「複数性」とでも呼ぶよりほかないような、「一」でもあるが「一」ではなく、「二」でもあるが「二」ではない、そんなあり方だったのである。(『ニニフニ』p.123)

一にあらず、異にあらず。

一である、と断言することも否定し、またバラバラに切り離された多である、と断言することも否定する。ニニフニはそいういう言葉なのである。

あくまでも二ということで、互いに区別される多様な事柄を、単純に無分別な「一」へと回収してしまうことなく、あくまでも「多」のままに、しかし「多」を互いにつなぐ一つのネットワークのようなものを考える。

それは小田氏によれば「語ることの困難な真理を「一」なる全体に収斂させてしまうことをなんとかして否定し、別の言葉でそれを開こうとする」考え方である(『ニニフニ』p.122)。

<複数の即>

このニニフニに通じるのが、同じく真言密教の「即身成仏」に登場する「即」の考え方である。

即について、小田氏は「複数の即」ということを論じている。

「真言密教の思想においては、「即」はたんなる「A=A」という固定した一対の関係をあらわすものではない。それは、たとえば「A=A'」とか「A=a」、あるいは「A=B」「A=c」「A=△」…、といった幾通りもの「距離」や「時間」にわたる関係をつなぐ媒体としての役割をはたしているのだ。(『ニニフニ』p.126)

「即」は、物事の間の区別を無かったことにして、すべて同じ、すべてひとつということではない

何気なく「即」という言葉をつかう場合、なんとなく全てが渾然一体とひとつに溶け合うようなイメージを抱いてしまうこともあるが、ここではそういう多を無分別にしてしまう「一」は拒否される。

ニニフニ的な「即」はあくまでも、複数の事柄の間を「媒介」する動き、つなぐことである。

なにかとなにかの二つの事柄は「即」で媒介されひとつにつながれた後も、いぜんとしてそれぞれであり続け、互いに異なるものであり続ける

即で結ばれた二つの事の間には、引き続き「距離」がある。

この距離が消えてしまうことはない。

「真理(正)と現象(反)との矛盾を、相即(合)して処理してしまわないこと。そうではなく、反対に「一」を複数性へと開く。」(『ニニフニ』p.126)

多を一にしてしまうのではなく、逆に一を多へと開いていくような、多即一が同時に一即多でもある関係である。

こういう「多」を発生させる、多数の事たちの間の距離を発生させる「即」を、小田氏は「<複数の即>」と呼ぶ(『ニニフニ』p.126)。

<複数の即>の特徴は、形而上学的な真理としての「理」を性急に言語化してしまうことをきらい、その手前に「事」の交わる論理空間を置いて、「距離」と「時間」をかけて思考しようとした南方の「事の学」とも、強く共鳴しあうものである。」(『ニニフニ』p.126)

こういうニニフニ的複数の即で言葉を紡いでいくことは、語と語の対立関係と置き換え関係として織りなされる意味分節体系の固着しがちな表層を解きほぐし、無数に新たな対立を発生させ、新たな置き換え関係を発生させる、深層の動きを活性化するような語り口、書き方、文体を生むことだろう

まとめ

「人間」「自然」「現実」、あるいは「世界」や「生命」といったコトは、何か単一の言葉や名前にまるごと吸収しつくされるものではない

ナニゴトでも「ひとつ」の言葉で呼ばれ、ひとつの名を名付けられてしまうと、あたかも「他ではない、それそのもの」がそれ自体として確固として、なんらかの本質をもって存在しているような「感じ」を私たち言葉を理解する者に与えてしまう効果が発生する。

ところが、ナニゴトかを何かの言葉で呼ぶことは、それらを言葉と言葉の対立関係と置き換え関係の網の目からなる意味分節構造のなかのどこかひとつの言葉が占める位置(項といってもよいし、結節点と読んでも良いし、他でもいい)に置くということになる。

が、しかし、そうしたからといって、その言葉で呼ばれたナニゴトかは、つねにその意味分節単位の小さな領域から、はみ出し、剥がれ、ずれ出て、距離を作っていこうとする動きを続けていく。この動きを通じて発生する差異は言語の意味分節単位の安住性を超え出ることをいわば宿命づけられた「語られない差異」(『ニニフニ』p.68)、うまく言葉にならない、言葉にしたところその瞬間に言葉から逃れようとする動きである。

わかるとかわからないというのは、あくまでも意味分節システムのなかで然るべき既知の語たちの網の目の隙間に落ち着きどころをみつけたか、みつけていないか、ということに尽きるのであって、「人間」でも「自然」でも「現実」でも「世界」でもなんでも、言葉で呼ばれるあらゆる何「事」かは、語と語の関係からなる意味分節体系の結節点を超え出て、粘菌のように動き、広がっていく。

以上、このような具合に「読む」こと「も」できるのだけれども、これもまた、あくまでもひとつの読み方、ひとつの解釈、つまり読み手の私が"ニニフニ"を自分なりに他の言葉に置き換えてみた(分節体系をずらしてみた)ということである。『ニニフニ』では、極めて精密に、南方熊楠と土宜法龍による言葉によって言葉を越えようとする「動き」を読むことができる。

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