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区別を生じる動きをどう考えるか?それが一元論の真髄である -深層意味論入門

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安藤礼二氏の『大拙』がおもしろい。

時は19世紀末の日本。明治維新からわずか二、三十年のうちに急速に近代化(産業革命×資本主義化)が進む中、学問や知識というものも近代化に役立つ西洋由来の「合理的」なものばかりが尊重される風潮にあった。

その合理的知性は、精神と物質人間と自然とが二つにはっきりと別れたところから出発する。

合理的な精神は物質たちの法則を計算し予測し計画する。

合理的な人間は自然の法則を利用し制御し、世界を思い通りのものへと作り替える。

万能の創造者としての資格を持った人間と、その創造のための素材としての自然、という関係である。

これに対して、そういう人間の精神の合理性を疑う思想もまた脈々と命脈を保っていたのである。

人間にはその合理的な理性ではどうにも理解し尽くすことができない経験もある。もそうだし「精神病」もそうである。そして生死の区別現実と非現実の区別を超える神秘体験もまた、合理的な理解を拒み超えるもの出会った。

そういう領域と比べると、合理的な理性とそれにとっての経験世界は虚偽と言わないまでも妄念、妄念と言わないまでも意識の表層のざわめき、ということになる。

何より精神と物質人間と自然とを分けること自体が、合理的理性による操作なのではないか?

人間もまた「自然」の一部ではないのか?

精神もまた「物質」の過程なのではないのか?

いや、精神と物質人間と自然、その二つのうちのどちらが先か、どちらがどちらの原因で、どちらが結果かなどと問うこと自体が、すでにこの区別を前提としているのであるけれど、他でもない、この区別を区別する作用というか動き自体が人間がその環境世界として経験できる世界と人間とを区切りつつ結びつける根源的なプロセスとして進行しているのではないのか?

この区別する作用、分節作用それ自体が、二元論に先行する唯一のプロセスなのではないか、と言ったことを考えた人たちが居たのである。

彼らが理性を超え、ロゴスを超えた非合理的な体験と思考の領域をの思想はどのように捉えようとしたのか。

そのひとつの捉え方が一元論的な神秘哲学である。

という、この辺りの話に詳しいのが安藤礼二氏の『大拙』である。安藤礼二氏はこの本で近代の日本の思想の底流の一つを成した「一元論」の思想について書かれている。この話については下記のnoteにも書いているのでご参考にどうぞ。

ちなみに『大拙』の続編としても読める同じ安藤礼二氏の『熊楠』も、この一元論的思想の系譜をたどっている。

一元論の思想と唯物論

一元論の思想の系譜には、かのレーニンの「唯物論」もあるという。

安藤礼二氏は『大拙』で次のように書かれている。

感覚の一元論にして、生命の一元論を土台として、存在の一元論にして意識の一元論を打ち立てる。それが同時に社会変革の理論ともなる。ケーラスの一元論のもつ性格をいち早く見抜き、それにたいして同時代的かつ根底的な批判を加えたのは[…]精神と物質の二元論に抗い、物質の一元論(唯物論)にして社会の一元論(革命論)を説いたレーニンであった。(安藤礼二『大拙』p.62)

感覚の一元論にして生命の一元論、存在の一元論にして意識の一元論。そして物質の一元論。

生命でも、物質でも、「なにか」の一元論というと、その「なにか」とはなにか?という問いが誘発される

ところがこの問いに答えようとするとしばしば困ったことになる。

生命とはなにか、物質とはなにか、ということを説明しようとしてこれを別の言葉へと置き換え言い換えてしまう

そうすると途端にその「別の言葉」が常識的な意味の世界で安住している二項対立関係の組み合わせの中のいずれかの関係の一項へと、「一元」であったはずの何かが吸い込まれてしまう。そうしていつの間にか、一元論の思考は二元論の思考に戻っていくのである。

一元論の「一元」は、そこで他のあらゆる二項対立関係が発生してくる場であり、その区別の発生の動きそのものとして理解する必要がある

ここで安藤氏が挙げているレーニンの一元論については、中沢新一氏の『はじまりのレーニン』が参考になる

レーニンの唯物論、即ち「物質」による一元論は、次のような見取り図に描くことができる。

物質 と 精神
(↑分かれる↑)
動きとしての物質=自然=生命=無意識

物質と対立するものとしての精神、あるいは精神に対立するものとしての物質は、物質と精神を区別し、対立関係に置く「動き」の産物である。

私たちひとりひとりにとって自明な意味ある世界は、既に区別が完了した静止したモノの組み合わせという姿をしている。そこで区別は「区別する」動きではなく、すでに出来上がった、完成済みで改変の必要もない差として固まっている

これに対して、静止した差異の体系という顔をした自明な意味の世界から、「分かれる」動きが働く意味の深層へとさかのぼり、そこで動きつつある「分かれる」運動と直接接触することを、レーニンは「実践」と呼んだのだと、中沢氏は書く。

即ち「自然のしなやかな動きが[…]精神に直接接触」することを「実践」という、と。実践は意識が、意識自身と物質(自然)との「異和」を認識することでもあるという(p.35)。

日常の自明な世界とそれを認識する意識との関係がむすばれつつ、違和をおぼえて浮き上がりかけるところに、「分かれる」動きの最前線ともいうべき「言語」の生成の相がうかびあがる。

思考=言語(言葉=区別の体系)
(↑分かれる↑)
思考の「外」=「人間の言語や思考の中にまだ組み入れられていない領域」=自然=生命=無意識 ‥動き

言語は区別されたシンボルの二項対立関係が、重なり合い、組み合わさった体系である。それは日常世界の表層でこそ固まった静止した構造物のような顔をしているが、実は無数のシンボルが互いに他とは異なるものとして分離し、離合集散をくり返すダイナミックな運動がその正体である。

体系は、体系を織りなす傾向をもった動きと不可分である。

ここで中沢氏は、エルンスト・マッハによる唯物論批判にふれている。

20世紀はじめの科学哲学の世界では、エルンスト・マッハによる唯物論への批判が最新の思想と受け止められていたという。

マッハは「物質の概念」を「ある持続的な核が、あたかも自分の外に実在しているようにみなすようなくせ」すなわち「習慣」によるものと考える。

「人間の外に、物質が存在しているのか。それとも、実在とは、人間の感覚と思考のつくりあげる、観念的な本質をもったリアリティにほかならないのか。20世紀はじめの頃の科学哲学では、マッハ主義が唯物論を論破して、科学に新しい思想的な可能性を開いている、と考える人の方が、ずっと進歩的だったのだ。」(『はじまりのレーニン』p.41)

世界のリアリティは人間の感覚と思考が作り上げたものである、という考え方。

中沢氏によればこのマッハの思想は「記号論」である。記号論というのは中沢氏によれば「リアリティ(実在)をつくりあげるのは、複雑な記号の体系」であると考えるイデオロギーである(『はじまりのレーニン』p.43)。

人間は決してそれ自体を直接捉えることができないカオスに、感覚器官を介して接触する。そして感覚器官と結びつた神経系のネットワークの動きのなかから、カオスについての「記号(イコン→インデックス→シンボル)」とその体系が作り出される。

人間の中に、感覚器官や神経の細胞が発する無数の「パルス」のカオスを、いくつかのパターンへとまとめて区別する仕組みが動いている。このシンボル体系を生み出す仕組み、その特定の形式が「外界」の経験に先行していると考える

レーニンはこの「記号論的な問題の立て方」を否定しようとしたと中沢氏はいう。

「レーニンは、物質と言うものを、あらかじめ、木や花や家のように「存在するもの」として立てておいて、それについて存在論的に思考する、というやり方を否定している。その代わりに、彼は、物質の「唯一の性質」を人間の意識の外にある、客観的実在性ということにだけに、みいだそうとしているのである。」(p.50)

物質の意識に対する外部性は絶対的である。

そうした物質を、人間の意識的な言語がその内部において「木や花や家のように」何かとして同定したり、秩序付けて理解したりすることはできない

レーニンにとっての「物質」は、精神や意識や脳と対立し相関関係にあるなにか、つまり予め区切られた対立関係のうちの一方の項ではなく、あくまでも区別を区切りだす、分ける動きそのものであった。


絶対的な外部

そういう出来上がった区別の絶対的な外部に、なお意識や言語を以て「ふれる」こと。それがレーニンの哲学の課題であるという。

しかし、どうやって?

ここで出てくるのがヘーゲルである。

中沢氏は次のように書く。ヘーゲルは「人間の知覚や思考のなかで(主観の中で)、働いている自己運動と、その外にある客観を突き動かしている自己運動とが、同じ実体をもつ、と考えている」と(p.77)。

絶対的な外部として動く客観と、区別(差異)の体系を区切り打ち立てる動きとしての主観。両者は同じ実体の自己運動(他に動かす主体をもたないということ)なのである。

このある実体すなわち「主観と客観が対立しながら同一であるような運動」(p.78)から、たとえば、あれこれの生命が生まれ、神経系が生まれ、脳が生まれ、意識が生じる。

ここで物質は均質に静止したなにかではなく、運動である

運動としての物質は無数の傾向で充満しており、いくつかの傾向が同じ動きを取り重なり合い混じり合うことで、動きの「差」を生じる。

感覚的に捉えられる速い動きと遅い動き、上昇する動きと下降する動き、といった差もそれである。

このような絶対的な客観の差異を生じる傾向から、時間と空間が生まれ、原子や分子が生まれ、生命が生まれ、神経が生まれ、言語的な意識が生まれる。という具合であろうか。

その中で主観というのは、絶対的な客観という全体のなかの、部分集合といえるかもしれない。

中沢氏は絶対的な客観と主観の関係を「無底」と「底」というイメージで描き出す。

無底

絶対的な客観の動きは「無底」である。

その無底の動きの中に「底」が生じる時、これが差異の基盤、対立関係の根、客観的意識の土台、基礎になる。

これは仏教でいう言語の底、「阿頼耶識」のイメージに通じる。それは井筒俊彦氏や安藤礼二氏が描く「意味」の起源の運動の場である。

言語の底にある意味のない叫びと、その反復から始まる区別と、その動きの反復が織りなすシンボルの体系としての「意味」。そして意味ということが「疎外」の話につながるのである。

物質は「底」がなく、根拠もなく、全き充実としての運動を続けている。その運動の中から自然が生まれ、その自然は大きな脳をもった人間を作り出す。この脳の動きは自然の秩序にはおさまらない異質性を備えている。そこで人間は、自然とは異なる、歴史を作り出すことになるが、実現された歴史のなかで、人間はいつも疎外された状態にある。」(『はじまりのレーニン』p.211)

人間はどうしても、日常の言語のシンボル体系が提供する対立関係の枠を通して、世界を見ようとする

そこでは、いくつものシンボル体系、いくつもの対立関係の組み方が互いに優位性を主張してぶつかりあいながら、人はいつまでも何らかのシンボルの体系(観念のコスモス)を求め続ける状態にとどまる。

これに対して「物質」はどうだろうか?

マルクスやレーニンにおいて、観念論は主観から出発するものとして、はじめから観念のコスモスを出ることがない。ところが、物質は主観を外に開いていく力をもった、無限の運動性なのだ。そこでは物質の概念が、ピュシスやゾーエーと同じように、純粋な差異である、過剰性を表している。(『はじまりのレーニン』p.212)

さきほどの図式に置き換えると、つぎのようになるだろうか。

主観的なシンボル同士の対立関係
(↑分かれる↑)
客観=「知り得ないもの」=無底の空間=「物質」(レーニン)

「底」としての言葉について

底としての言葉。それは絶対的な客観へと「直接」ふれる言葉である

底としての言葉が言葉である以上、直接といっても絶対的な客観と完全に同じものになったり、完全なコピーになったりするわけではない。

底としての言葉に直接残される絶対的な客観の痕跡と、絶対的な客観との間には、異和がある。

底としての言葉と、その底の上の覆いかぶさって厚い層をなす秩序ある確定的意味のコスモスとしての言葉。その違いは、後者の方が予め固まった配置枠の中に語を並べていって意味となすのに対し、前者の方が、この配置枠そのものを設定することにある。

配置枠の設定は、語と語を対立させ、その対立を重ね合わせる細心の技巧を通じて、語と語の網の目を「編む」身体的な実践である。それは詩を編みだすことであり、折口信夫が探求した言霊としての言葉が生きる姿でもある。

ここで配置枠といったのは、語と語の対立関係が複数重なり合った格子構造、多次元のマトリックスである。

こうした言葉のダイナミックな傾向について、安藤礼二氏がひとつの表現を与えている。

「折口が神と言っているのは、「自己が自己に」憑依して、意識のステージを押し上げた状態に他ならない。そのとき、意識は励起状態となり言葉を発するのである。その言葉こそ、発生状態にある「詩語」そのもののことである。それはほとんど「叫び」としか言いようのないものである。」(安藤礼二『吉本隆明』p.25)

発生状態にある詩語、すなわち、意味を完成済みの静止したシンボルの対立関係から解き放ち、区別を区切り、対立関係を結びつけたり解いたりする運動としての言葉へ。そこでシンボルは、あらかじめ意味をコードされたなにかではなく、コード化された意味をもたない「叫び」のような姿になる。

安藤氏は続ける。

「そのような「叫び」が可能になるためには、すでにそこに共同社会、人間が<人間>となるために張り巡らされた関係性の束が存在することが前提となる。人間が表現する言語とは、社会という関係性を指示する側面(指示表出)と、そこに生じた矛盾を解消するために意識が自ら励起してあげる「叫び」のようなもの(自己表出)の二重性によって織り上げられているものなのだ。そこからリズムが生まれ、やがて「喩」というイメージとしての言葉にまで鍛え上げられる。(安藤礼二『吉本隆明』p.25)

吉本隆明氏の用語でいう「指示作用」をなす言葉は、社会制度となった、予めコードが設定済みのものとして扱える言葉である。

吉本隆明氏による指示作用と表出作用の区別の詳しい話は、『言語にとって美とはなにか』にある。

社会制度となった言葉が日常世界の自明性を支え、日常的に経験される世界を安定的で予測可能な「コスモス」にする

それに対して、同じく吉本隆明氏が指示作用と対立させた「表出作用」としての言葉は、詩の言葉である。

これこそが底としての言葉であり、コスモスの底に、丸山圭三郎氏の言葉を借りるなら「カオスモス」とも呼びうる境界、即ち「底」を区切りだす。この底の設定があって初めて、その上に、意味するということが可能になり、指示作用をなす日常の言葉の体系もまた組み立てられる。

沈黙を破る叫びに始まり、その反復がリズムへ、そして「喩」へと展開する底としての言葉へ。

「喩」こそが区別に基づいて置き換えること、つまり、意味するということが動き出すフィールドである。それこそが詩の言葉であり、折口が『言語情調論』でいう「象徴言語」である。

象徴言語はどのように動くのか、安藤礼二氏は次のように書く。

伝達のために明確に意味を区切られた「差別的」な言語に対して、象徴言語は多様な意味を萌芽の状態で一切の網羅の内に把握するので「包括的」な言語である。[…]そしてあらゆる意味をそのなかに包み込みながら同時に表現しようとするので、必然的に「曖昧」となり、ほとんど「無意義」に近いものとなる。しかし同時にそのことによって無限の「暗示性」に満ち、微細な感覚を隅々まで表現することが可能になる。」(安藤礼二『吉本隆明』p.27)

こうした象徴言語の発生と消滅のフィールドこそ、幻想が、虚構が、あらゆる意味が始まり、また終わるところである。

続く

いかがでしたでしょうか。
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