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「必要に迫る」ということ。

最近知った格言で「必要に迫られるな、必要に迫れ」というのがありました。まあ、たしかに。必要に迫られる物って、たいてい息苦しい。

たとえば必要に迫られて着用しているマスクがいい例ですよね。


わたしは約40年前の小学6年生のとき、本屋でたまたま見かけた雑誌に釘付けとなりました。そこには「マイコン」「パーソナルコンピューター」と書かれてあり、映画でしか観たことのないような機械が個人でも使えることを知ったとき、親に泣きついて一台のパソコンを買ってもらったものです。

当時まわりにパソコンを使っているひとは一人もいませんでした。

だけど「すごい!将来ぜったい必要になる!!」といった感覚を覚え、それからというものファミコンそっちのけでパソコンで遊んだものです。


社会人になると、パソコンは一家に一台とも言える普及を見せました。小学6年生で思い描いた世界が眼前に広がっていくように感じました。わたしはそのブームの第一線で無我夢中に働いていたのです。


そして約10年前に40歳となったとき、年齢の節目だったり東日本大震災などがきっかけで自分を見つめ直すようになりました。これからもハードワークを続けていけるのだろうか。ほかにもっと良い働き方はないだろうか。

わたしはフリーランスとなり、自らの新しい働き方を求めて全国のコワーキングスペースを3年以上も旅しながら仕事をするようになりました。

10年後のいまや、テレワーク、リモートワーク、ワーケーション、アドレスホッパーという言葉が少しずつ普及して、住む場所すら固定せず移動しながら働くということに憧れを覚えるひとも少なくないようですね。


そうして現在。その全国旅はわたしの働き方だけでなく生き方も変え、いまや豪雪地帯の山奥にある古民家で「ソーシャルな隠居」という生き方にチャレンジしているところ。なんだかんだ7年近くが経ちました。


そういえば「ミニマリスト」という言葉がありますね。所有を必要最小限に減らすことで実現する豊かな生き方、とされているようです。

ただ、もし必要に迫られた物だけで暮らしているのなら、それはほんとうに豊かなのでしょうか。おそらく真のミニマリストというのは、必要に迫られた物ばかりで占めているのではなく、自ら必要に迫り、ほんとうに自分にとって必要だという物で暮らしている生き方なのではないでしょうか。


わたしは隠居生活をしているわけですが、同時にわが家を「ギルドハウス十日町」として共同生活を営んだり、あまたの冒険者の訪問を受け入れています。そのためたくさんのひとの《必要》や《不必要》を見てきました。

冒険者たちのなかには、自分の現在の《不必要》や《必要に迫られている物》を削ぎ落とそうとしているひとたちがたくさんいました。

もしくは、自分のこれからの未来の《必要》を見つけて迫ろうとしているひとたちがたくさんいました。


わたしはそんな彼ら・彼女らの姿を見つめながら、わたし自身これまでそうしてきたように自分の《必要》にどんどん積極的に迫っていきたいです。

あ、最近の例だと《キャッシュレス決済》でしょうかね。iPhoneを買い替えたとき、それが使えるんだとわかって「もしかしたら隠居生活に必要なものかも!!」だなんて実践してみたら、これがもう便利で。

都会ならまだしも最寄り駅でSuicaが使えないような山奥に暮らしながらキャッシュレス決済はほんとうに自分にとって必要なのだろうか!?とも思いましたが、いまや都会暮らしより田舎暮らしのほうが絶対に必要なんじゃないかと思えるほどです。


必要に迫られるな、必要に迫れ。

必要に迫られたら、その必要に迫れ。

それはわたしにとって、今回のnoteに書いたような格言に聞こえます。

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