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都市のコモン(共同体)の再生を考える

資本主義は限界と感じざるを得ない。

我々の社会は何もかもが商業化しており、消費できないものはほぼない。医療から都市インフラまですべては消費の対象だ。地域コミュニティに属していなくても社会生活は送れるし、困ればどこかの会社に頼めば、「代わりに」解決してくれる。

都市市民としての主体性を失い、資本主義社会にまさに飲み込まれてしまっている。

ただし、この状態に、哲学者の内田樹は「コモンを再生すべきだ」と述べている。

資本主義的に考えたら、別に土地なんか共有しなくてもいいわけです。というか、共有しない方がいい。共有して、共同管理するのなんて、手間暇がかかるばかりですから。使い方についてだって、いちいち集団的な合意形成が必要です。みんなが同意してくれないと、使い方を変えることもできない。
 そういうのが面倒だと言う人が「共有しているから使い勝手が悪いんだよ。それよりは、みんなで均等に分割して、それぞれが好きに使ってもいいということにしよう」と言い出した。
 実際に英国で近代になって起きた「囲い込み(enclosure)」というのは、この「コモンの私有化」のことでした。それが英国全土で起きた。その結果、私有地については、土地の生産性は上がりました。まあ、そうですよね。「オレの土地」なわけですから、必死に耕して、必死に作物を栽培し、費用対効果の高い使用法を工夫した。
 資本主義的にはそれで正解だったんです。
 でも、それと引き換えに、「私たち」と名乗る共同主観的な主体が消滅した。  もともと共同幻想だったんですから、「そんなもの」消えても別に誰も困るまいと思った。ただ、気が付いたら、村落共同体というものが消滅してしまっていた。みんなが自分の金儲けに夢中になっているうちに、それまで集団的に共有し、維持していた祭礼や儀式や伝統芸能や生活文化が消えてしまった。相互扶助の仕組みもなくなってしまった。
 そのうち、生産性の高い農業へのシフトに失敗した自営農たちが土地を失って、小作農に転落し、あるいは都市プロレタリアとなって流民化した。そうやって英国における農業革命、産業革命は達成されたのでした。資本主義的には、それで「めでたし・めでたし」なのですが、ともかくそのようにしてコモンは消滅した。
 その後、「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」都市プロレタリアの惨状を見るに見かねたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって「コモンの再生」が提言されることになりました。それが「共同体主義」すなわち「コミュニズム」です。

http://blog.tatsuru.com/2020/07/20_1520.html

コミュニズムとは本来、コモンの再生だったのだ。

コミュニズムとキャピタリズムをこういう視点で比較したことはなかった。
共産主義というと、どうしても政治的側面から、中国や北朝鮮を連想し、強権的なイメージが浮かぶ。しかしそれだけではなく、このような問題に発端したものだということも忘れてはならない。

現代社会においては、共同体や相互扶助のシステムが壊滅的な状態となり、都市における必須サービスは担い手ではなく消費者となってしまった。このような状態が果たしてよいといえるのか。

我々は共有できる空間、共有できるコミュニティ、そういった「コモン」を復活させなければならないだろう。こうすることが、人間の文化を育み、文明をまた進歩させることができる。何よりも、テクノロジーで解決する何倍も、一人一人が心地よく社会を過ごせるようになると思うのだ。



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