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問題は永遠に無くならない。だから問題をどう扱うかが問題なんだ。


人の精神を扱う仕事をしていると話すと、約7割の人が、

「それってキツくないの?いわゆる、引きずられるってやつ、あるでしょ?」

と、表面上はこちらのメンタルを気遣うようにして尋ねてくる。労いとともに。
それが酒の席だと、もっと好奇心まる出しで、遠慮なく訊いてくる。

「やっぱ相手してるほうも病んでくるんでしょ?もらっちゃうから」

と。

***

そういう人たちを否定するつもりはないし、それが世間一般的な理解なんだろうと思う。

実際、病んでドロップアウトしていく対人援助職はめちゃくちゃ多い。
とある研究によると医師の自殺率は一般人の2倍。そして科別にみると精神科の自殺率が最も高いというデータが出たとのこと。事実としてあるのだ、対人援助職がメンタルやられやすいというのは。

特に精神科ではミイラ取りがミイラになるみたいなことが起こっているのだろうか。

一説には、「精神に興味もつ人はそもそも生きにくさを抱えており自分も救われたいと思っている」というのがある。そうなのだろうか。

でも面白いことに、「医師 自殺」とググると医師の自殺に関する情報やその防止策についての議論が山ほど出てくるのに、「心理士 自殺」とググっても心理士が自殺したとか心理士の自殺を止めよう的な情報はほとんど出てこない。
何故か。

もちろん、医師の方がずっとずっと激務だし、プレッシャーも大きいから、この結果は分からんでもないが、それにしたって心理士だって相当ヘビーなものを扱っているはずなのだ。なんなら50分とかひたすら絶望や怒りをぶつけられることだってある、クライエントが命を絶ってしまうこともあるだろう。
なのにこの差は、刮目すべきことじゃないかと思う。

いろんな仮説が立つが、たとえば、心理士は医師に比べて、「こころ」を実際にどう扱うかを心得ている人たちなのではないだろうか。だからハードな状況においても自分のメンタルのバランスもなんとか保てているというわけだ。

別の言い方をすると手を抜くことができるとか、抱え込まない方法を知っているとか、しぶといとか、柔軟性があるとか、そんなとこだろうか。責任感がないとまでは言わないが。
確かに精神科医のほうが真面目で勤勉なイメージだ。そして逃げ場がない。

実際、これまで一緒に仕事してきた精神科医を見てると、「診断」と「投薬」をメインに磨いてきて、カウンセリング技術や心理的理解が全くといっていいほどない人が多いなと思う。あの患者はA病だB症だとカテゴライズのための議論は白熱するのに「その後その人がどうしたらよくなるのか」「どうやって今の苦しみを軽減するのか」については触れられない。

診断によるルール通りにお薬を出していって、「はい、"正しい治療"がわかってよかったですね」「あれ、でもなかなか良くなりませんなあ、次のお薬試しましょうか」「いやあ難しいケースだねえ」と苦笑いするばかりだ。挙げ句の果てに、散々心をほじくり返しておいて「じゃ、あとは近医に」なんて放り出すのを見ると腰を抜かしてしまいそうになる。

けれど、効率と数を求められる現場では致し方ないことなのだろう。30分で5人回すことを強いられている戦場みたいな診療でカウンセリングもクソもない。そして彼らは"間違える"わけにいかないのだ。でもふつうに考えれば誰でもわかることだけど、その人の心の状態に用意されたラベルをつけたところで、その中身が分かるわけじゃない。人の心は宇宙なのだ。勝手にカテゴライズされるべきものじゃない。その行為には必ずしっぺ返しがくる。
(そしてこれはあまり知られていないが、そのカテゴリーは、ルールブックが改訂されるたびにガラリと変わったり、なくなったり、急に他のカテゴリーとくっついたりする。ものすごく不安定かつ不確かなものなのだ)

だから彼ら自身が病んで倒れていってしまうのはなんとなくわかる気がする。
しろかくろか、異常か正常か、ハッキリ数値で示さなければならない彼らは、自分のこころのグレーな暗雲をどう扱うのだろう。

それが黒に見えたとき、彼らは絶望するのだろうか。これは自分の中には決して見えてはいけない色だったのに、と。

***

そしてここで冒頭の話に戻るわけだが、

世間一般の人は、「心を病んだ人」と自分を、全然違う人種みたいに捉えていて、なんなら下に見てたり、差別してたりするんじゃないかと思う。

(例えば電車に乗っていて、ブツブツ独り言を言ったり叫んだりしている人を見て、そう思ったことはないだろうか?)


これは精神科医もぜんぜん例外じゃなくて、心の病気になった人を「弱い人」「危ない人」「変わった人」とラベリングしているように思う。実際それを如実に示す会話がオフィスではよく聞かれる。彼らは、自分は優秀かつ選ばれし人種だと信じているのだ。そして病人は自分より下位の存在だと。だから自分がそこに足を踏み入れたと知ると絶望するのではないだろうか。

でも実際、
(というかこれは私の個人的な見解だけれど)
いま心を病んでいる人の人間性と、いま心を病んでいない人の人間性に、本当にそんな差があるのだろうか?

白も黒もなく、私たちはただおなじ、無限のグラデーションの上を行ったり来たりしているだけなんじゃないだろうか。
用意されていた環境や出会った人やサポートがほんの少しでも違ったら、逆のポイントで出会っていたことだって、大いにあるんじゃないだろうか?

私がまさにそういう人間だ。今はたまたま、カットオフポイントのこちら側を歩いているけれど、何かのきっかけでひょいと向こう側に回るはずだ。というか、夜になるとそちら側を歩いていたり、行ったり来たりしている。日常的に。
ただそうありながら、ギリギリうまく機能しているというだけだ。

誤解を招く言い方なので補足したいが、
もちろん病んでいる人は辛い思いをしやすいので、健康な人と同じとは言わない。
私が言いたいのは、病んでるからって弱いとか、オカシイとか、劣ってるというわけじゃないということだ。

もっと言うと、こんな世界を、まともな精神を保ちながら生きていける人の方が
よっぽど病んでるんじゃないかと思ったりする。

人と人とが殺し合ったり、親が子を殺したり、女が男を刺したり、差別されたりいじめを受けたり虐待を受けたりする世界。素直で優しい人が傷つけられ、攻撃的で狡猾な人が得をする世界。集団の中にスケープゴートを置いて我が身可愛さに見て見ぬふりをする世界。
ニュースにならなくても、目を背けたくなるほど残酷な出来事はそこらじゅうに溢れている。

こんな場所にいて、「まともな人間」みたいな顔して生きている自分の方が、
よっぽど病んでいる、と私は思っている。

私は仕事でいろんな「病を抱える人」に出会ってきたけれど、
ほとんどみんな、心の優しい人たちだった。
まともな感性をもち、真っ当に傷ついて、それでもやり返さず、
ただただ必死に受け止め続けて、壊れてしまったような人たちだった。

だから引きずられるも何もないのである。
引きずられたように見えるとしたらそれは、もともとその人の中にあったなんらかの種が、刺激を受けて芽を出したというだけのことだと私は思う。
私なんかはむしろ、彼らの優しさや純粋さに救われてきたような気さえする。
だから彼らと関わったせいで「病む」なんて、あり得ないのである。

***

だからか、私は彼らを「治す」という表現があまり好きじゃない。
精神科における「治す」って、「おかしくなっているものをできる限りまともにする」みたいな「直す」のイメージがあるが、
私は彼らはもともとまともなんだと言いたい。
まともじゃないのは世界のほうなんだと。


でもそんなこと言ったって、私に世界は変えられないから、
その人が「世界をどう捉えるか」について、もっと楽で、快適な方法はないのか、
もっと幸せに、もっと気持ちよく過ごすための方法はないのかを一緒に考えるようにしている。

変えられないことはいっぱいある。

今起こってる戦争とか、落下していく円の価値とか。人の残酷さとか心変わりとか。
生きてたらどんどん問題は積まれていく。
あの書類出さなきゃ、あの勉強しなきゃ、この病気の検査受けなきゃ、部屋の掃除しなきゃ親の面倒見なきゃ娘の習い事の世話しなきゃ住宅ローンのこと考えなきゃ等々。
中にはめちゃくちゃシリアスで長期に渡るものもある。

だけど、それにどう対応するかは、自分の心で決められる。

もっと言うと、世界で戦争が起こっていても恋人と愛し合うことはできるし、
来年以降の仕事の契約がどうなるか不透明でも美味しい食事を楽しむことはできる。

全人類が、いつか必ず自分が死ぬとわかって、今この瞬間を生きている。

問題は尽きない。生きている限り。
不安や恐怖や、衰えや喪失は無限に湧いて出てきて、私たちを悩ませる。

だからそれに振り回されすぎず、うまく付き合っていくのだ。

自分にできる範囲で一つ一つ片付けつつ、小脇に問題を抱えながら日々あるいていくのだ。
楽しむのだ、笑うのだ、望むのだ、挑むのだ。
それができる今にフォーカスするのだ。

自分にできることをするしかないとある意味割り切って、
あとは多少自分勝手に、自己中心的に生きるのだ。

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