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なぜ自由になる必要がある? Why be free?

上記の記事で私が述べていることは簡単である。すなわち、「あなたに提案がある。それはあなたが他人から来る刺激に反応しないことである。なぜならば、あなたには気にしてしまう他人の発言や気になってしまう他人の振る舞いがあってそれに苦しんでいるかもしれないが、あなたはそれを気にすることもできるし、気にしないこともできるからだ」ということである。もちろん、この記事についてもあなたはスルーしてもよいし、しっかり内容を読んでから自分の行動に一部反映させてもよい。なぜならば、この記事で書いていることは提案に過ぎず、提案とは飽くまで却下される可能性を前提とするからである。

私から不特定多数の読者の一人であるあなたにできることとして、指図や命令といったものはない。私からできるのは、飽くまでこのような提案や無責任な助言、情報提供ぐらいである。

上記の提案は、言い方を変えれば「もっと慎重になる手もあるよ」とか「刺激にすぐに反応せず、いったん立ち止まって返事・返信を先送りにしても悪くないか検討してみてはどうか?」といった素朴(そぼく)なことでもある。私が言いたくなるのはこのような少し「待った」や「保留」を掛けるようなものが多い。なぜならば、私は刺激に対して狼狽(ろうばい)や焦燥(しょうそう)によって即座に反応するよりも、緊急時であったとしても、より良い選択肢を考案してみた方が人間の自由が実現できると考えるからである。

しかし、なぜ刺激に対して素直に、すなわち従順に反応していてはいけないのか? なぜ刺激に対して以前と違った仕方で反応するとかワンテンポ置いて別の選択肢と比較してから反応を選んだ方がよいのだろうか? なぜ自由にならなければならないのだろうか?

とりわけ個別の事案をみれば、これはこれで考える余地のある場合もある。なぜならば、権威を持った保護者や後見人に従って自分自身の行動を決めていくことは楽でもあるし、実際もしかしたら自分自身で行動を決めるよりも賢い決定ができるからである。例えば、お医者さんの言うことを聞いて生活習慣を改めたり、年長者の言うことを聞いて危険な領域にむやみに入らないといったことは自分自身で決定するよりも有利な結果を取得できるかもしれない。

実際、我々は自分自身の健康や生活、家計や仕事や納税について、その一部は一定のシステム(例えば鉄道システムや銀行システムや決済システムやインターネットなど)を信頼して、自分に有利な結果を担保してくれることを期待する。なぜならば、それらすべてを一人あるいは素人ばかりの一世帯で意思決定することは非常な負担であるからである。

とはいえ、枝葉の決定は専門家や専門サービスを信頼して、外注あるいは委任するとしても、最後の手綱(たづな)、あるいは最初に委任する選択権は我々自身が握らなければならない。なぜならば我々がどのような選択によって幸福を手にするかは我々が選ばなければならないからでもあるし、どのような代行サービスもあなたに幸福になるための条件を提供してはくれても、あなた自身の幸福をあなた自身になり変わって実現できないからである。

別の言い方をすると、最終的に何がしたいか、何をして幸福になりたいか、何をしているときが幸福なのか、何をすれば幸福をキープできるのか、これらのことについては一人一人が自分自身で試行錯誤して結果を実際に感じて味見してみてみつけるしかないという前提がなければ、「あなたはもっと自由に成らなければ成らない」ということは言えないということである。

自由の海をみずから泳ごうという人にとっては、命令や指図されることは余計なことであり、受付可能なのは飽くまで贈与や提案までであろう。一方、自由の海を自分で泳ぐに疲れたという人にとってはその反対であり、むしろ命令や指図を断言してくれる人の方が頼りがいがあるとみえるであろう。

したがって、一種の精神論、一種の究極的な自己責任論を前提として私はあなたに提案したり、分析や情報の提供をおこなってみる他はないのである。

(1,661字、2024.05.04)

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