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【つの版】度量衡比較・長さ編06:火器

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。今回はついに火器です。これでようやく長かった武器編を終えることができます。

長さ編:01(身体尺) 02(身長比較)

    03(近接武器) 04(投擲武器) 05(射撃武器)

▼火器概論

火の使用と作成は、人類が旧石器時代に獲得した技術です。人類は原野や森林に火を放って灌木や毒蛇を駆逐し、生存適地を広げて行きました。火を投げることは人類最強の武器です。放火や火矢や空爆は敵の陣営を焼き払う攻撃であり、核兵器で数十万人を皆殺しにすることもできます。火の爆発力を推進力に応用すれば、外宇宙まで探査船を送り込むこともできます。

火を戦争に利用するのは古来一般的で、インドの叙事詩にいうアグネアストラ/ブラフマーストラは核兵器めいて描写されますが、単に「火矢」のことです。石油が湧く地域ではそれを利用した焼夷弾や火炎放射器を使っていました。東ローマ帝国を守った「ギリシア火薬」は有名です。

唐代のチャイナでは煉丹術の副産物として黒色火薬が発明され、宋代には戦争に利用されるようになりました。初めは爆発音で敵軍の馬を驚かす音響炸裂弾として用いられ、チャイナに自生していたが容器となりました。竹を焼くと内部の空気が膨張して破裂する(爆竹)ことは経験的に古くから知られていたのです。さらに竹の節に穴を空けると空気が噴出し、中の火を撒き散らすことが観察され、火炎放射器や破片型手榴弾、矢や石弾の発射に用いられ始めました。宋代の火器の発展はめざましく、13世紀後半には火砲や銃が発明されていました。モンゴル軍もこれを採用し、14世紀のうちに欧州まで伝来しました。こうして火器の時代が到来したのです。

つのは特になんの専門家でもなく、火器に関しても詳しくありません。詳しくは上の記事などを参照し、専門家にご相談下さい。

▼小銃

兵士が両手で保持し発射する銃砲を小銃(歩兵銃、歩槍、Infantry firearm)といいます。初めは大砲の小型版でしたが、15世紀頃にスペインで最初の火縄銃が開発され、歩兵用携帯火器として普及しました。

初期の火器は命中精度が低く、滑腔式のマスケット銃で確実に命中させられるのは50ヤード(45m)ほどです。最大射程距離は300ヤード(270m)ほどで一般的な弓より遠くまで届きますが、命中率や装填しての次弾発射までの速度は弓に遥かに劣ります。弓ほど訓練を必要とはしませんが、銃も火薬も銃弾も極めて高価であり、数を揃えるには相当なカネを必要とします。しかし有効に活用すれば恐るべき武器であることは歴史が証明しています。

19世紀後半にライフリング(施条、腔施)が行われることで、命中率と射程距離は劇的に向上しました。有効射程は300ヤードに、最大射程は1000ヤード(0.9km)に伸び、「近づいてから撃つ」というこれまでの戦術を完全に変えてしまいました。ライフルは小銃の代名詞となりました。また装填方式も前装式から後装式に変わり、自動小銃機関銃へと進化して行きます。

小銃が進化したことにより、火器による遠距離からの狙撃が可能になりました。有効射程距離は2kmを超える場合すらあります。もちろん近いほうが当たりやすく、シモ・ヘイヘは150mの距離から1分間に16発を撃ち、300m以内であれば百発百中、最長でも450mでした。彼はスコープを用いず裸眼で射撃し、当たる確証を持った時のみ撃ったといいます。

▼拳銃

小銃よりさらに小型の火器が拳銃です。威力も射程距離も当然小銃に劣り、有効射程は50m以下です。動く標的に当てるとなるとさらに難しく、20mの距離から4発撃って3発当たれば相当な手練だそうです。訓練を積んだ警官でも動き回る犯人に銃弾を当てるのは難しいのです。一斉射撃を行えば命中率はあがります。あなたが拳銃でニンジャを仕留めたいなら先に毒を盛るか、死にかけを狙うか、ヤクザ天狗=サンでも呼んで下さい。

▼大砲

大砲は城壁を破壊する最強の攻城兵器としてオスマン帝国や欧州で広く用いられました。現代の弾道ミサイルのようなもので、多数の技術者集団を丸抱えにしなければ運用できませんが、小型化して運搬可能にすればどこからでも砲弾を撃ち込めます。特に船舶に積み込めば、海上から都市を攻撃したり相手の船に大打撃を与えたりできます。欧州諸国はこれによって世界中に進出し、海洋帝国を築き上げました。

コンスタンティノープル陥落の時に用いられたウルバン砲は、544kgの石を1.6kmも飛ばすことが出来ましたが、命中精度は低く、2回目の発射までに3時間かかる代物でした。これは例外的に巨大な大砲で、16世紀欧州のカノン砲は有効射程が400mほどでしたが、カルバリン砲は威力を抑えた代わりに飛距離を伸ばし、有効射程距離1.8km、最大射程距離は6kmに及びました。大坂の陣で徳川家康が大阪城の天守に命中させたのはカルバリン砲をもとに造らせた大筒で、大坂城からの大砲を受けない距離から撃ち込みました。

大砲の改良は19世紀の産業革命によって急速に進み、ライフリングされた鋼鉄製の後装式砲身で円錐形の砲弾を射出するようになりました。薩英戦争で英国艦隊が用いた40ポンド・アームストロング砲は3800ヤード(約3.5km)もの射程距離を持ち、薩摩藩の大砲を遠距離から破壊しました。しかし薩摩藩も臼砲で応戦し、英国艦隊に被害を与えました。これに対し、英国側はロケット弾などによる艦砲射撃で鹿児島の街を焼き払いました。

第一次世界大戦では大砲による死者が7割に及びました。兵士がウカツに塹壕から出れば機関銃でネギトロにされてしまうため、先んじて敵陣地を徹底的に砲撃で破壊する戦法が取られたためです(航空機が発達すると空爆になります)。両大戦中、大砲は競うように巨大化し、自走砲や列車砲、さらに戦車(タンク)も現れます。兵士たちは凄まじい砲火の下でジゴクを見続けることになり、「シェルショック(砲弾ショック、今でいうPTSD)」に罹りました。ドイツ皇帝はパリを超遠距離から砲撃するために「パリ砲」を製造させ、75マイル(120km)離れた地点からパリめがけて300発以上の砲弾を降り注がせましたが、戦争の帰趨を決することは出来ませんでした。

戦車砲や艦砲の射程距離はそこまでではありません。ゆうめいなティーゲルのアハトアハトは対地有効射程14.8km、対空で7.6km(最大射程12km)。

戦艦大和の主砲・45口径46cm砲が最大射程42km、副砲の60口径15.5cm砲が最大射程27.4km。威力は戦車砲の比ではなく、発射時に近くにいれば衝撃波で鼓膜が破れるばかりかネギトロになります。どえらいものです。ガルパンや艦これに詳しい人ならこうした兵器にも詳しいでしょう。

しかし、大砲の発展には限界があります。自走砲も戦車も戦艦も、超高高度から爆撃を受ければおしまいですし、飛距離もパリ砲ほどにでかくしてようやく120kmでしかなく、都市や陣地を滅ぼすには何千発も打ち込まなければなりません。そこで別の技術……ロケットに注目が集まりました。

▼ロケット

銃や大砲は火薬の爆発力で筒を満たし、銃弾や砲弾を発射するものですが、逆に筒そのものを飛ばす発想も古くから存在しました。即ちロケットです。火薬を詰めた筒を飛ばせば命中地点で爆発し、火災を起こす事ができます。チャイナやモンゴルで広く使われ、南インドのマイソール王国では18世紀末の対英国戦争で用いられ、大いに英国軍を苦しめました。英国はこれをもとにロケット兵器を開発し、フランスやアメリカとの戦争に投入しました。

19世紀末から20世紀にかけて、ウェルズやジュール・ヴェルヌの空想科学小説などの影響を受けた科学者たちが宇宙旅行を夢想し、ロケットに目をつけます。人類は空想を現実に変え、宇宙へ飛び立とうとし始めたのです。火薬ではなく液体燃料によって高く、遠く、速く飛ぶように研究されました。

試行錯誤の末に液体燃料ロケットの技術は軍事利用され、ナチスドイツの大規模な支援を受けて弾道ミサイル「V2ロケット」が誕生します。射程距離は200km近くありましたが莫大なカネがかかり、命中精度は低く、空中爆発を起こしやすく、恐怖は与えましたが大した戦果をあげませんでした。戦後は多数のドイツのロケット技術者がアメリカへ、あるいはソ連へ迎え入れられました。その後の軍拡競争や宇宙開発競争の激化は知っての通りです。

……こうして、人類は核弾頭を積んだ大量のICBMを保有し、これを投げ合うことで自ら絶滅することが可能になると共に、月や火星、金星や木星、太陽系の彼方にまで探査機を発射することも可能になりました。全てはチンパンジーの親戚が前足でものを掴んで投げたところから始まったのです。

◆Baba yetu,yetu uliye mbinguni yetu,yetu,Amina◆

◆Baba yetu,yetu uliye m jina lako e litukuzwe◆

人類史をたどる壮大な旅が終わりましたが、我々は思い出さなくてはなりません。このコーナーは度量衡について軽く解説するだけのコーナーです。次回からは速度と移動距離、面積などについてしていきます。

【続く】

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