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【つの版】ウマと人類史06・焦土作戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 紀元前513年、ペルシア帝国の大王ダレイオスは大軍を率いて遠征し、小アジアからボスポラス海峡を渡ってトラキアへ上陸し、北上してスキタイを攻撃しました。同じアーリヤ系で騎馬遊牧民をルーツとする、2つの大国がぶつかったのです。スキタイはペルシアをどう迎え撃ったのでしょうか。

◆迎◆

◆撃◆

焦土作戦

 トラキアは現在のトルコ、ギリシア、ブルガリア、ルーマニアなどに跨る領域で、住民はトラキア人と総称され、しばしば小アジア側にも渡っています。印欧諸語に属するトラキア語を話し、好戦的で多くの部族に分かれ、金鉱山を有し、黄金の装身具を身に着けていました。キンメリア人やスキタイとの関係は定かでありませんが、ギリシア人からは北方の蛮族として恐れられ、戦の神アレスの子孫だと信じられました。また葡萄酒の神ディオニュソスを祀ったといいます。ダレイオスは大軍をもってこの地を制圧し、スクドラ(Skudra、スキタイの地)という属州を設置しました。

 さらにダレイオスの軍勢は黒海西岸沿いに北上し、兵糧などの輸送船団を随行させて、ドナウ川(ギリシア語名イストロス)に橋を架けてスキティア本土へ攻め込みました。ヘロドトスによれば歩兵・騎兵をあわせ号して70万人、水軍600隻にも及んだといいますが、実数は定かでありません。10倍に誇張したとしても陸軍7万、軍船60隻で、世界帝国の大遠征軍にふさわしい規模です。またヘロドトスは「スキタイがメディアを不当に支配していた報復である」と書いていますが、メディアを併合したペルシアが百年以上前のことを持ち出すのも妙な話で、直接には帝国の北方を脅かす勢力を叩き、あわよくば服属させようという目論見でしょう。またギリシアにとっては穀倉地帯ですから、スキティアが脅かされればギリシア本土も危うくなり、ギリシアの支援を受けたエジプトの反ペルシア勢力を抑える役にも立ちます。

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 さて、当時のスキタイの王はイダンテュルソスです。彼は建国以来の慣習として2人の副王と領土を分割統治しており、北部はスコパシス、西部はタクサキスが治めていました。ペルシアの侵略に仰天した彼らは周辺諸部族と緊急対策会議を開き、タウロイ(クリミア半島)、アガテュルソイ(トランシルバニア地方)、ネウロイアンドロパゴイ(ベラルーシ)、メランクライノイ(ウクライナ北部)、ゲロノイブディノイ(ウクライナ北東部)、サウロマタイ(ドン川の東)らの首脳陣が集まりました。スキタイの代表は大同団結を呼びかけましたが、賛同したのはゲロノイとブディノイ、サウロマタイだけで、その他の部族は「我らの土地に攻め寄せて来れば迎撃する」とのみ表明します。スキタイの王が直轄する土地は王国の一部にとどまり、その他の土地は部族や貴族が所領を持って治めていたのです。

 そこでスキタイは正面きっての抗戦を諦め、焦土作戦によってペルシア軍を疲弊させることにします。まず妻子の全てと食糧・家財・宝物の大部分を馬車に載せ、家畜の大部分とともに遥か北方へ疎開させます。そして騎兵の精鋭をすぐって前衛部隊とし、その後に本隊がついてペルシア軍の陣営へ向かいます。彼らはドナウ川から3日行程(1日行程を200スタディア36kmとすると100km余)を進んだ地点で敵に遭遇すると、戦わずして後退し、1日行程の距離を隔てて野営します。次いで周辺の泉や井戸を全て土砂や石を投げ込んで埋め、火を放って穀物・果樹・牧草を焼き払います。ペルシア軍は彼方に敵軍を発見し追撃しますが、スキタイは1日行程の距離を保ったまま悠々と退却し、行く先々で焦土作戦を行います。ペルシア軍は大軍ゆえに大量の兵糧や水を必要とし、輜重隊や輸送船団からの補給だけでは間に合わず現地調達するつもりでしたが、スキタイはその弱点をついたわけです。

 後世のナポレオンやドイツ軍も、ロシア/ソ連へ侵攻した際この焦土作戦に苦しめられました。広大な土地そのものが巨大な兵器となり、進撃すればするほど深みにハマるのです。のちパルティアもローマをこの作戦で苦しめています。遊牧民が大軍を迎撃する時の常套手段なのです。

敵軍翻弄

 釣り出されたペルシア軍は無人のスキティア本土(ドニエプル川の東、クリミア北部とその北側)を素通りし、タナイス(ドン)川を渡ってサウロマタイの地に入り、北上してブディノイの地に入ります。そこには木造の城柵(ポルタヴァ付近か)がありましたがもぬけの殻で、追えども追えどもスキタイには追いつけません。業を煮やしたダレイオスは追撃をやめさせ、オアロス川(ドニエプル川支流のヴォルスクラ川か)のほとりに陣営を築き、8つの城砦を建設させ始めます。

 スキタイはその合間に北方を迂回し、スキティア本土へ戻って来ました。ダレイオスは城砦建設を中止し、全速力でこれを追撃しますが、スキタイはそのまま悠々と逃げてメランクライノイ、ネウロイ、アンドロパゴイらの地(ウクライナ北部からベラルーシ)へ入ります。彼らは以前スキタイとの同盟に参加しなかったので、ペルシア軍を誘導したわけです。3つの部族は恐れて北方へ逃げましたが、南西のアガテュルソイ(トランシルバニア)だけは防備を固め、スキタイに「我が国へ来るなら迎撃するぞ」と警告します。そこで進路を南東に変え、スキティア本土へ戻りました。

 この時、ダレイオスはスキタイの王イダンテュルソスに使者を送り、こう告げました。「我が軍勢に対抗できる自信があるなら、踏みとどまって戦うがよい。我が軍勢に力及ばぬと認めるならば、逃げるのをやめて服属し、そなたの主君であるこのわしに土と水(領土の象徴)を献上するがよい」これに対して、イダンテュルソスはこう答えます。「ペルシア王にこう伝えよ。わしはそなたを恐れて逃げまわっておるのではない、ただいつもどおりに遊牧しておるだけだ。我が国(本土)には守るべき町も畑もなく、破壊されるのを恐れるのは祖先の墓ぐらいなものだ。またわしが主君と仰ぐのは、先祖なる天神ゼウス(パパイオス)と、女王なる竈の女神(タビティ)だけだ。そなたには土と水の代わりに、ふさわしきものを贈ろう。そなたがわしの主君であると申したことには、『吠え面かくな(希:klaiein lego、意訳:ファック・ユー!)』と言っておこう」そして小鳥、鼠、蛙、5本の矢を土産に持たせます。ダレイオスは「その国の動物と武器を献上し、降伏しようというのだ」と曲解しますが、側近はこう解釈しました。「鳥のように空へ、鼠のように地中へ、蛙のように水中へ逃げるかせぬ限り、必ずやこの矢に当たり、無事の帰国はかなうまいぞ!」。これがスキタイ流です。

 かようにペルシア軍を挑発した後、スキタイは逃げ回るのをやめ、ゲリラ戦を仕掛けます。まず家畜を率いた無防備な牧人らを敵の陣営へ近づかせ、それを奪おうと陣営を出た兵士らを、スキタイの騎兵部隊が襲撃して打ち破ります。ペルシア側も騎兵部隊に護衛させ、家畜を奪おうとしますが、スキタイには敵わず撃退されます。またスキタイが大部隊で近づき決戦を挑むかと思えば、野ウサギを追って大騒ぎするといった有様で、ペルシア軍は迂闊に外出できず疲弊します。スキタイ側も陣営に立てこもる大軍には手が出せず、足止めしている間に別働隊を背後へ向かわせます。

 副王スコパシスはスキタイとサウロマタイの騎兵を率いて西へ進み、ペルシア軍を迂回してドナウ川の河口近くへやって来ます。そこに橋を守るためイオニア人(小アジアのギリシア人)の水軍が停泊していたので、スコパシスは使者を遣わしてこう告げます。「聞くところでは、ダレイオスはそなたらにこう言ったそうな。『わしが出発して60日が経ったなら、諸君は解散して帰国してよい』とな。もはや定めの期日は過ぎた。早く橋を破壊して、ペルシアのくびきから解放されるがよい」。イオニア人たちはこれを聞いて動揺し、会議の末に橋の北側だけを破壊してスキタイを喜ばせ、「急いで引き返し、ペルシア王を倒してくだされ」と告げました。首尾よくダレイオスが死ねばよし、戻ってくれば橋を直そうという姑息な考えです。

 ダレイオスはこれを聞いて仰天し、負傷や疲労で役に立たぬ者たちを陣営に残すと、夜のうちに本隊を率いて撤退しました。残留部隊は見捨てられたと悟ってスキタイに降り、スキタイは急いでペルシア軍を追撃しますが、自分たちが焦土にした土地を通るのをやめて迂回したため、取り逃がします。這々の体でドナウ川まで辿り着いたダレイオスは、橋の北半分が壊されていたので絶望しかけますが、イオニアの都市ミレトスの僭主ヒスティアイオスは「我らが母国で権力を握っておるのはダレイオスのおかげではないか」と他の僭主らを説き伏せ、橋を修復させました。スキタイはこれを聞いて「イオニア人は卑劣千万だが、奴隷としては忠義者よ」と評したといいます。

 本当にそう言ったかどうか知りませんが、60日で往復したということは、ドナウ河畔から出発して到達できる最大距離は30日の行程です。ヘロドトスの計算によれば軽装の旅人や騎兵だけなら1日36kmは進めますが、歩兵や輜重隊を含む大軍ならば遅いでしょう。仮に1日36kmとして30日で1080km。ウクライナ南西端のイズマイールからドン川河口のロストフ・ナ・ドヌーまでは1065kmありますが、全軍がドン川を渡ったとも思えません。ドニエプル川を渡ってポルタヴァまで行き、引き返した程度かと思われます。またペルシア軍が寒さに苦しんだとの描写もありませんから、この遠征は夏場に行われたのでしょう。ともあれ、こうしてスキタイはペルシア軍を撃退し、以後ペルシアがスキティアへ侵攻することは二度と無かったのです。

 ペルシア軍がカフカース側から攻め込まなかったのは、トラキアを確保しギリシアを抑えるためでしょう。またアルメニア高原とカフカースを越えて敵地深くへ侵攻するのは危険で、キュロスの二の舞になりかねません。怒ったスキタイやサウロマタイがカフカースを越えて攻め込む危険もあります。
 前5世紀末に『ペルシア誌』を記したクニドスのクテシアスは、異なる話を伝えています。「ダレイオスはスキティア遠征においてカッパドキア総督アリアラムネスを遣わし、一群のスキタイを捕虜にさせた。その中にはスキタイ王スキュタルベウスの兄弟マルサゲテスがいた。ダレイオスはスキタイの弓がペルシアの弓より強力なのを見て退却したが、急いだ余りヨーロッパ側とアジア側を繋ぐ仮橋を全軍が渡りきる前に壊したため、残された8万人のペルシア軍が全滅した」というのですが、あまり史実らしくありません。

波希戦争

 ダレイオスは本国へ逃げ帰りましたが、ドナウ川の南のトラキアはペルシアから離反せず、黒海沿岸やクリミア諸国も大いに動揺しました。黒海の出入り口たるボスポラス海峡とダーダネルス海峡がペルシアに掌握されたということは、ペルシアがこの海域の制海権を握ったことを意味します。すなわち、スキタイとギリシアとの海での交易路が断ち切られ、互いの産物が往来できなくなったのです。イオニア諸国はペルシア側についていますし、完全に封鎖することは難しいので交易自体は続いたでしょうが、シーレーンを抑えられたスキタイとギリシア本土、および貿易で儲けていたスキティアのギリシア人は大いに困ります。策略に長けたダレイオスは、経済封鎖によって敵国を苦しめる作戦に出たわけです。軍事的にもクリミアあたりがペルシアにもぎ取られる可能性はあり、そうなれば商売あがったりです。

 ヘロドトスによれば、ペルシア軍を撃退したスキタイは報復の念に燃え、ギリシア南部の強国スパルタへ使節を送って同盟を持ちかけました。これはスキタイが黒海の東岸を南下し、ファシス川(ジョージアのリオニ川)に沿って東へ向かいメディア地方(北西イラン)へ攻め込み、スパルタは小アジアのエフェソスからペルシア帝国へ攻め込むという壮大なプランでしたが、スパルタはアテナイなど近隣諸国との抗争で忙しく、計画は頓挫しました。またスパルタ王クレオメネスはスキタイの使者をもてなしましたが、彼らから葡萄酒を水で割らずに飲む「スキタイ流」の飲み方を教わって気に入り、ついにはアルコール中毒で発狂して死んだといいます(俗説ですが)。

 ヒスティアイオスはダレイオスに褒められましたが、力を持ちすぎるのもまずいと思われたのかペルシア本国の首都のひとつスサへ呼び寄せられ、代わって彼の娘婿アリスタゴラスがミレトスの僭主になります。ミレトスはペルシアの威光をバックに勢力を広げ、エーゲ海のナクソス島を占領しようとペルシアに援軍を求めます。しかしペルシアの将軍メガバテスはアリスタゴラスといさかいを起こし、ナクソス遠征は失敗しました。ダレイオスはヒスティアイオスをミレトスに戻そうとし、焦ったアリスタゴラスは前499年、イオニア諸国やアテナイに呼びかけてペルシアへの反乱を起こします。

 この反乱はキプロスやカリアまで巻き込んだ大騒動になり、前495年にはスキタイがこれに乗じて南下、ドナウを渡りトラキアを経てヘレスポントス(ダーダネルス海峡)まで押し寄せます。トラキアのケルソネソス(ガリポリ/ゲリボル付近)の僭主ミルティアデスは戦うことなく逃げ出し、スキタイは街を占領しました。ミルティアデスはダレイオスのスキタイ遠征の時もスキタイに味方しようとしていましたから、何か密約があったのでしょう。しかし反乱軍は次第にペルシア軍に駆逐され、首謀者のアリスタゴラスもトラキアへ亡命して戦死し、スキタイもトラキアから去っていきました。

 前493年、ミレトスを叩き潰して反乱を鎮圧すると、ダレイオスはエーゲ海の彼方のギリシア本土をも制圧すべく未曾有の大軍を繰り出します。世に名高いペルシア戦争(ペルシア・ギリシア戦争)の始まりです。ペルシア軍はトラキアからマケドニアを屈服させて陸路で南下し、海軍はエーゲ海諸国を撃破しながらアテナイへ迫りました。この大戦争において、スキティアはどちらにも味方していませんが、中央アジアから連れて来られたサカ族らがペルシア側で参戦しています。アテナイ・スパルタなど反ペルシア派のギリシア人諸国は団結して立ち向かい、激戦の末ペルシア軍を撃退しました。

 前486年にダレイオスが崩御し、跡を継いだクセルクセス1世もしばしばギリシアへ遠征しますが勝利を得られず、その後は小競り合いや一時的な和平が続きます。トラキアに対するペルシアの支配力もやや衰え、前480年頃にオドリュサイ部族が王国を形成します。また黒海北岸のギリシア系植民都市は連合を結び、ボスポロス王国と呼ばれるようになります。「キンメリアのボスポロス」と呼ばれたケルチ海峡周辺が中核でした。

 この頃、スキタイの王アリアペイテス(イダンテュルソスないしアルゴタスの子)は3人の妻を持っています。スキタイ出身の妻オポイアはオリコスを生み、ギリシア人の都市イストリア(ルーマニア・コンスタンツァ付近)出身の妻はスキュレスを生み、トラキア王テレスの娘との間にはオクタマサデスを儲けました。ペルシアとの関係は定かでありませんが、ギリシアやトラキアの側に肩入れしていたようです。彼は前455年頃アガテュルソイの王に殺され、スキュレスが跡を継ぎました。

 母方がギリシア人であるスキュレスは当然ギリシア文化かぶれで、スキタイからは人気がありませんでした。オクタマサデスはこれに乗じて反スキュレス派を集め、前445年に反旗を翻します。スキュレスは母の実家イストリアへ逃亡しますが、オクタマサデスはイストリアへ進軍し、トラキア王シタルケス(テレスの子)は迎撃すべくドナウ河畔へ進撃します。この時シタルケスはオクタマサデスに使節を派遣し、「妹の子よ、争いはやめよう。そちらにはわしの弟がおり、こちらにはそなたの兄がいる。互いに引き渡そう」と申し出ます。両者はこうして和平を結び、スキュレスは斬首されたといいます。スキタイの母を持つオリコスはどうなったのでしょうか。

 ヘロドトスがオルビアを訪れ、スキタイに関する情報を得たのはこの頃です。当時彼は政争に関わって故郷ハリカルナッソスを追われ、サモス島を経てアテナイに滞在しており、アテナイの支配者ペリクレスの下で活動していましたから、ギリシアの穀倉にして反ペルシアの有力国スキティアの様子を知ることは重要だったのです(ヒストリーの語源ヒストリアイは本来「調査探求」を意味しています)。彼の記述から、スキティアの地理や文化について見ていきましょう。

◆歴◆

◆史◆

【続く】

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