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不器用の美 | 自然の美

なぜ不器用さに美を感じるのか

今日、僕の通っている多摩美術大学統合デザイン学科のある授業(今日は深澤直人先生。)で、「民芸には、不器用さに美しさを見出すということがある。」というような話がありました。確かに、旅行先の小さなおみやげ屋さんで売られている陶磁器・漆器などの工芸品には、テクノロジーでハイレベルに規格化された商品からは感じられない不器用さや、人間味、クラフト感があり、それに僕は良さを感じた経験があります。

では、一体なぜ不器用さに人間は美を感じるんでしょうか。僕は日本人の美意識の一つである「ものあはれ」が、そう認知させている理由の1つなのではないかと思いました。

(以下自分のツイート)

説明すると、「ものあはれ」の「情けない状態に美を見出す。」という認知や、ユダヤ教の「弱いものを良いとする。」という考え方と、先ほどの「不器用さに美を見出す。」という認知はほぼ同じだと思うんです。例えば、不器用さを感じる少し歪んだ陶磁器というのは、完全無欠な造形の陶磁器と比べると、弱っぽくて、情けない印象に見えると思うんですよね。要は、不器用=弱い、情けないである。つまり、日本人というのは、そういう負の状況であるものに美を感じてしまうようになっているんだと思うんです。だから、不器用さに美を感じるんだと思います。


自然にデザインされたモノは良い

また、授業では他に、「自我でデザインされたものではなく、自然にデザインされたモノの方がいい。」という話がありました。僕は要するに、「あざとい状態はやめよう」って話だと思いました。「あざとい状態」というのは何かというと、「自分が意識的に計算して、ある行動をしている状態」ですよね。逆に「自然な状態」とは、「無意識でやっている状態」だと思います。

ではなぜ、「意識的にやっている状態」はよくないんでしょうか。メイクやおしゃれな服を着ることなんて殆どの人がしてるけど、別にあざとくないと思うんです。僕の仮説では、何かを意識して、過度に行動した時に、絶対に意識的にやっていると周りの人に思われてしまうから、その人たちに自信を持って、「あざとい」と言われるんだと思います。つまり、意識的にやってもいいけど、過度にやるとあざといということです。だから、過度になるかならないかの塩梅が非常に重要になってきますよね。

また、授業の最後に、深澤先生が、「これから繰り返し、課題をやってこの感覚を身につけていこう。」と話されていました。僕は、なんで今すぐその感覚が教われないのかを疑問に思ってました。でもこう考えると、自然にデザインするための感覚は、知識として伝えられる情報ではなく、何度も繰り返して課題をやることでようやく身につけられるバランス感覚だったということが分かるので、納得しました。

まとめると、「自然にデザインをしよう。意識的にデザインしてもいいけど、過度にデザインしてる感を出すと自然に思われない。だから、課題をやって、PDCAを繰り返し、そのバランス感覚を養おう。」ということです。




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