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何故テロリストが英雄なのか。それはまともな教育を施されてない事から来る、不幸なヒロイズム。

安倍晋三元首相を銃撃した山上徹也容疑者が凶行に走ったのはなぜか。

ネットでこのような書き出しの記事を読み、久しぶりに憤慨した。
以下、この記事が突っ込まれたく書かれたのか、それともこの筆者が愚かな者かを書く。

山上容疑者と同じ宗教2世の筆者は、凶行の背後に、宗教2世ゆえの底知れぬ「孤独」があったのではないかと分析する。

孤独と楽しめるようになれ、と東洋哲学では教える。
孤独ではない人間などいない。
孤独であるが故に人を殺す、という思考がどう繋がるのか、甚だ理解に苦しむ。

 安倍晋三元首相が銃撃され死亡した後、容疑者である山上徹也の属性が報道されるにつれ、私は彼が赤の他人とは思えなくなった。私より1歳年下だが同じ就職氷河期世代で、奈良県で青春時代を過ごしている。そして、宗教2世という共通点があった。

赤の他人と思えないのは、著者の性格破綻の証明である。
就職氷河期は、この頃も今も一人前に仕事を選ぶ者が言う、いつもの我儘で、努力と辛抱を知らぬ者の主張である。

 私は天理教信者の両親の下で育ったが、最終的に信仰を拒絶して地元を離れた。天理教はカルト宗教とはされていないが、それでも私は、親からの承認と結び付いた信仰を受け入れざるをえない境遇に随分と悩まされた。そこで窒息してしまうことを恐れたのだ。

信仰とは全く関係なく、無神論者は彼の自由であるが、この主張は単に家庭の問題、というだけである。
家庭の事情は皆あるが、宗教に結びつける事を、卑怯、と言う。

 県外の大学への進学やパートナーとの出会い、経済的自立によって少しずつ解消されていった。しかし、これはたまたまそうなったにすぎない。

この世にたまたま、という事は絶対にない。パートナーとの出会いは必然であり、この主張はパートナーを愚弄するものだ。
不幸は自分のせいではない、と主張する者の持つ、お決まりの逃げ道であり自分を悲劇に見せ歓心を誘う手法。
心理学で簡単に見抜ける文章である。

 山上容疑者は、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に入信した母親の多額の献金によって、運命を狂わされた。さまざまな不幸に見舞われ、

さまざまな不幸は、若い時はバネとなる。この世で不幸を経験してない人間は存在しない。運命とは命を動かす事をいう。
彼はその動かし方が、大きく間違えた、その結果である。
狂わされた、ではない。狂い自滅した、が正しい記述と思慮する。

 この事実が彼の人格形成にどれほど大きな影響を与えたかは想像するに余りある。庇護(ひご)者のいない世界で、兄妹をどう守ればいいのか。

庇護というのは、努力した者や人に尽くし、人を愛した者にしか与えられないものだ。兄妹を守るというが、兄も妹もテロリストになってはおらず、彼が守る理由も見いだせない。

自殺ですら金を作る現実的な手段に思えるほど追い詰められた。その後、親族の家で暮らすこともかなわず、彼は孤立を深めていく。

見たような事を言うな。
この世は生きていれば、平等にチャンスも幸せも来る。
親族の家で暮らす事も叶わぬのは、助けてくれる友人すら出来ない彼に原因がある。
チャンスも掴もうとはせず、他人に転嫁する主張は失当である。

 自分の利益を侵害された者が、法の手続きに従った国の機関による救済が期待できない場合に、自力で回復を図ることを「自力救済」という。彼は、統一教会による被害を自力救済の感覚で回復しようと試みたと私は考えている。

自力救済とは、他人に貸したお金を法的手続きを取らず、自力で相手の財産等を引き上げる行為で、窃盗罪に問われる。
これを民法の条文にないため「自力救済の禁止」と呼び禁止する行為で、根本からが違う。如何にこの文に根拠がないかの証左と言える。

 少なくとも彼は、めちゃくちゃにされた人生を繰り返し立て直そうとした。だが、どこかの時点で自力救済しかないという信念に支配されるようになった。この場合の自力救済は、統一教会トップや癒着のある有力政治家の殺害を意味していた。

不幸な親に生まれた事は宿命である。そんな人は嫌というほどいる。何故人に聞き本を読み、自分で命を動かそうとしなかったのか。めちゃくちゃにされたとあるが、自分で動かなかったからだ。
これこそが運命であり、彼は自分が人殺しへと命を運んだだけである。

 過去数十年で進んだ自己責任論の内面化は、地域社会の空洞化や生活空間の市場化によって「自分でどうにかするしかない」という切迫した意識をもたらしている。このような社会のムードも彼の自力救済の感覚を後押ししたことだろう。

自己の責任は成人であれば、全ての原因は自分に帰結する。
仮に社会のムードがそうであれば、この男達と同世代の人達は全員、同じ様な人生を辿るという、到底認められない理屈である。

 かつて社会学者のリチャード・セネットは、コミュニティーや友人関係がその場限りのものとなり、長期的に見届けてくれる人がいなくなりつつある現状に重大な懸念を示した。それは他者が自分の物語に関心を持ち、その人間性に価値を与えてくれるという尊厳の問題に関わるからだ。

一度リチャードゼネットを調べるが良い。
彼は両親に恵まれず、アメリカのゲットーで育ち、このテロリストより悲惨な境遇で育っている。
そしてどうすれば幸せになれるかを、自分なりに考え実行している者だ。これをこじつけと言う。
リチャードぜネットなどと文章に入れるのは、単に自分の主張に権威付けしたい、卑怯者の主張である。

 山上容疑者に、もし新たな庇護者がいたらと振り返るのはたやすい。それは彼の母親が統一教会ではないものに救われていたらという後知恵に等しいからだ。

この様な思考の者を、庇護する人が存在しない事は、少し考えれば分かるはずだ。
信ずるものが救われるのではなく、救われるのは人を思う利他的な気持ちである。これさえあれば、当然の様に誰かに救われる。

 彼が開設したツイッターアカウントは事件が起こるまでフォロワーはほとんどおらず、職場以外の人付き合いが希薄だったことを重ね合わせると、彼の孤独感は(略)。

Twitterにフォロワーがいないのは、彼の表現が大凡、世間の大半から賛同を得なかったか、まめに更新してないかのどちらかと思慮する。
私もTwitterのフォロワーは少ない。フォロワーが少ないのも、人付き合いが下手の事も、全ての事象は自分の行いからくるものだ。
因果応報という事はそういう事である。

 手製の銃によって、自分の家族だけでなく「統一教会に関わる者」すべてを救済しようとする壮大かつ極端なヒーローの物語が浮上した。

どこがヒーローなのか、さっぱり理解出来ぬ。
一言で言えば「我儘なヒトゴロシ」であり、いかなる理由があれども人を殺して良い事にはならぬ。
さらにこの行為で「すべて」を救済することは出来ない。
簡単な道徳さえ分かれば、小学生でもわかる論理である。

それによって彼は、誰かの役に立つ自分、つまり社会との接点をかろうじて取り戻すことを夢見た。もちろん彼が現実に計画し、実行したことは公衆の面前での政治家の殺害であり、犯罪者になることでしかなかった。

ここまでくると、悲劇を通り越し喜劇である。
過去、光母子殺人事件という事件があった。
この時、妻子を殺された夫は、容疑者が死刑にならぬ不条理さに憤り、独り裁判所に立ち向かい、それがどこから見ても正論であった。
だから世論が味方についた。そして自分の主張を、堂々と全うさせた。
それをせず殺害する者は、めんどくさがり屋のただの駄々っ子である。

 しかしながら、他者になにがしかのメッセージを伝えるというコミュニケーションの次元から捉えれば、劇場型犯罪も社会的行為のバリエーションなのである。
 このことこそが、彼が欲した庇護者と尊厳に見放された末の皮肉な巡り合わせであり、ほかにありえたはずの物語が残響している証拠ではないだろうか。私にはそう思えてならない。

なにがしらのメッセージは、例えば書籍にするか、マスコミや法に訴えるべきである。劇場型犯罪は社会的行為では決してない。
故に上記で「ほかにありえたはずの物事」といみじくも書いている。

その「ほかにありえたもの」を探し、正当な権利を主張する事が正義であり、美しい物語である。
庇護者と尊厳に導かれるまで、テロリストはひたすらマイナスな思考で、ひたすら僕は悪くない、と思ったはずである。
それもテロリストが己で作った運命で、何の庇護にもならぬ。

結語
どうかこの様な、愚かでヒロイズムな作者の言う事に、みんなはクエスチョンを持ち、子供に「ヒトゴロシがいけないのは理屈じゃねえ、親がダメと言えばダメなんだ」。

そういう教育をして欲しい。
この様な擁護は、教育家として私は絶対に許す事も、容認することも出来ない。

教育の大切さを感じさせる、長い駄文である。

「最後に我が師と仰ぐ、故安岡正篤先生の一言をここに記す。」


白修自立/安岡正篤一日一言1206

理想精神を養い、信ずるところに従って生きようとしても、なかなか人は理解してくれないし、いわゆる下流だの凡庸(ぼんよう)だのという連中は往々にして反感を持ったり、軽蔑したりする。
そういう環境の抵抗に対して、人間が出来ていないと、情けないほど自主性・自立性がなくって、外の力に支配される。
けれども本当に学び、自ら修めれば、そして自らに反って、立つところ、養うところがあると、初めてそれを克服していくことができる。

宜しければサポートお願い致します。正しい教育活動に使います。今後とも宜しくお願い致します。