何故テロリストが英雄なのか。それはまともな教育を施されてない事から来る、不幸なヒロイズム。
安倍晋三元首相を銃撃した山上徹也容疑者が凶行に走ったのはなぜか。
ネットでこのような書き出しの記事を読み、久しぶりに憤慨した。
以下、この記事が突っ込まれたく書かれたのか、それともこの筆者が愚かな者かを書く。
孤独と楽しめるようになれ、と東洋哲学では教える。
孤独ではない人間などいない。
孤独であるが故に人を殺す、という思考がどう繋がるのか、甚だ理解に苦しむ。
赤の他人と思えないのは、著者の性格破綻の証明である。
就職氷河期は、この頃も今も一人前に仕事を選ぶ者が言う、いつもの我儘で、努力と辛抱を知らぬ者の主張である。
信仰とは全く関係なく、無神論者は彼の自由であるが、この主張は単に家庭の問題、というだけである。
家庭の事情は皆あるが、宗教に結びつける事を、卑怯、と言う。
この世にたまたま、という事は絶対にない。パートナーとの出会いは必然であり、この主張はパートナーを愚弄するものだ。
不幸は自分のせいではない、と主張する者の持つ、お決まりの逃げ道であり自分を悲劇に見せ歓心を誘う手法。
心理学で簡単に見抜ける文章である。
さまざまな不幸は、若い時はバネとなる。この世で不幸を経験してない人間は存在しない。運命とは命を動かす事をいう。
彼はその動かし方が、大きく間違えた、その結果である。
狂わされた、ではない。狂い自滅した、が正しい記述と思慮する。
庇護というのは、努力した者や人に尽くし、人を愛した者にしか与えられないものだ。兄妹を守るというが、兄も妹もテロリストになってはおらず、彼が守る理由も見いだせない。
見たような事を言うな。
この世は生きていれば、平等にチャンスも幸せも来る。
親族の家で暮らす事も叶わぬのは、助けてくれる友人すら出来ない彼に原因がある。
チャンスも掴もうとはせず、他人に転嫁する主張は失当である。
自力救済とは、他人に貸したお金を法的手続きを取らず、自力で相手の財産等を引き上げる行為で、窃盗罪に問われる。
これを民法の条文にないため「自力救済の禁止」と呼び禁止する行為で、根本からが違う。如何にこの文に根拠がないかの証左と言える。
不幸な親に生まれた事は宿命である。そんな人は嫌というほどいる。何故人に聞き本を読み、自分で命を動かそうとしなかったのか。めちゃくちゃにされたとあるが、自分で動かなかったからだ。
これこそが運命であり、彼は自分が人殺しへと命を運んだだけである。
自己の責任は成人であれば、全ての原因は自分に帰結する。
仮に社会のムードがそうであれば、この男達と同世代の人達は全員、同じ様な人生を辿るという、到底認められない理屈である。
一度リチャードゼネットを調べるが良い。
彼は両親に恵まれず、アメリカのゲットーで育ち、このテロリストより悲惨な境遇で育っている。
そしてどうすれば幸せになれるかを、自分なりに考え実行している者だ。これをこじつけと言う。
リチャードぜネットなどと文章に入れるのは、単に自分の主張に権威付けしたい、卑怯者の主張である。
この様な思考の者を、庇護する人が存在しない事は、少し考えれば分かるはずだ。
信ずるものが救われるのではなく、救われるのは人を思う利他的な気持ちである。これさえあれば、当然の様に誰かに救われる。
Twitterにフォロワーがいないのは、彼の表現が大凡、世間の大半から賛同を得なかったか、まめに更新してないかのどちらかと思慮する。
私もTwitterのフォロワーは少ない。フォロワーが少ないのも、人付き合いが下手の事も、全ての事象は自分の行いからくるものだ。
因果応報という事はそういう事である。
どこがヒーローなのか、さっぱり理解出来ぬ。
一言で言えば「我儘なヒトゴロシ」であり、いかなる理由があれども人を殺して良い事にはならぬ。
さらにこの行為で「すべて」を救済することは出来ない。
簡単な道徳さえ分かれば、小学生でもわかる論理である。
ここまでくると、悲劇を通り越し喜劇である。
過去、光母子殺人事件という事件があった。
この時、妻子を殺された夫は、容疑者が死刑にならぬ不条理さに憤り、独り裁判所に立ち向かい、それがどこから見ても正論であった。
だから世論が味方についた。そして自分の主張を、堂々と全うさせた。
それをせず殺害する者は、めんどくさがり屋のただの駄々っ子である。
なにがしらのメッセージは、例えば書籍にするか、マスコミや法に訴えるべきである。劇場型犯罪は社会的行為では決してない。
故に上記で「ほかにありえたはずの物事」といみじくも書いている。
その「ほかにありえたもの」を探し、正当な権利を主張する事が正義であり、美しい物語である。
庇護者と尊厳に導かれるまで、テロリストはひたすらマイナスな思考で、ひたすら僕は悪くない、と思ったはずである。
それもテロリストが己で作った運命で、何の庇護にもならぬ。
結語
どうかこの様な、愚かでヒロイズムな作者の言う事に、みんなはクエスチョンを持ち、子供に「ヒトゴロシがいけないのは理屈じゃねえ、親がダメと言えばダメなんだ」。
そういう教育をして欲しい。
この様な擁護は、教育家として私は絶対に許す事も、容認することも出来ない。
教育の大切さを感じさせる、長い駄文である。
「最後に我が師と仰ぐ、故安岡正篤先生の一言をここに記す。」
白修自立/安岡正篤一日一言1206
理想精神を養い、信ずるところに従って生きようとしても、なかなか人は理解してくれないし、いわゆる下流だの凡庸(ぼんよう)だのという連中は往々にして反感を持ったり、軽蔑したりする。
そういう環境の抵抗に対して、人間が出来ていないと、情けないほど自主性・自立性がなくって、外の力に支配される。
けれども本当に学び、自ら修めれば、そして自らに反って、立つところ、養うところがあると、初めてそれを克服していくことができる。
宜しければサポートお願い致します。正しい教育活動に使います。今後とも宜しくお願い致します。