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ばななむーん

満月の光が、ビルの表面や谷間、そして控えめに生えている街路樹の根本など、理子が目にする全てに降り注いでいる。駅からだいぶ歩いた。人通りも建物のシルエットも無くなってくる。
 そして、このあたりに、あの人の家があると考えると、急に喉が渇き、気管のあたりがざわつき、空咳がいくつか出た。あの人の家は記憶にしっかりと残っている。ここ一年は記憶があいまいだった。何処か遠いところをさまよっていて、気が付くと、ここにいたという感じだった。記憶の中に、蛍光灯が注がれた広い部屋が出てくる。理子は外からそれを眺めているが、実際は中にいた。ホワイトボードの前にはあの人がいて、何人もの人々が彼の話を聞いていた。彼の言葉一つ一つが彼女を高揚させた。いつまでも高揚の記憶に浸っていたかったが、ひとまず記憶の流れを打ち切り、現実の風景に戻った。
 街を通りを抜けると、広い公園があり、その向こうには家がいくつかある。
 あの人は、何をしている人なのか詳しくは言わなかった。良く分からないが著述家の類だろう。自己啓発系と言われているらしい事も知った。一日でいくら稼げる方法とか、そいう言う事も発信しているようだ。
 だが、理子にとってはそれはどうでも良い事であった。金ではない。彼の言葉と態度により、自分の中にある傷から離れられた気がしたのだ。理子は二十三歳で、様々なものの期待に応えようと、努力した結果、心を病み、その結果としてアルコールに逃避した。最悪のアルコール依存症だったが、その人が変えてくれたのだ。どんな目的で理子に向かって言葉を送ったのかはどうでもよい。とにかく、その男性は、理子を変えてくれたのだ。
 駅からここに来る途中、『ばななむーん』というバーがあった。バナナのような三日月という意味なのだろう。三日月に目と鼻をつけたキャラクターが、青白いカクテルを飲んでいる絵が、玄関の隣に大きく描かれている。月は笑顔であったが、妙に不吉な気配を漂わせている。月が誘う店の内部を、何とか見ないように、視界に入らないようにしたが、難しかった。ついつい、そこに注意が行ってしまった。
 アルコールはもう克服したのだと考えていても、どうしても意識してしまう。看板は青いネオンで、三人ほどの人間が静かに飲んでいて、エドワードホッパーのナイトアウルという絵画のようである。離れて座っていたが、店内の月明かりのように弱い間接光の中で、彼らは奇妙な一体感を放っていた。
 理子を救った男性の家は、公園の向かい側にあった。公園は縦横が四百メートルほどあり、短く刈られた芝生とコンクリートの道で構成されている。さらにその向こう側には、建設途中のマンションがある。豊潤な満月の光を受け、芝生やコンクリート、そしてクレーンが薄いベールを被されたように輝いている。クレーンは天に向かう梯子のように空に向かって伸びている。男性の家は、玄関までに黒い鉄製の階段が五段ほどあり、そのちょうど三段目に一人の女性が座っていた。こんな夜中に、と理子は不思議に思った。脇には銀色の灰皿があり、タバコが何本燃え尽きていた。どっしりと根を下ろしているように女性は強い存在感を放っている。
 理子がぎこちない笑顔を浮かべたものだから、女性は眉をしかめ、横を向き、煙草を灰皿に押し付け、また正面を見た。今度は少しばかり威圧するような表情になる。
「山田さんのお宅ですか?」
 理子は恐る恐る女性に尋ねた。
「はい」
 理子を救った男性の苗字は山田だ。平凡なので、理子はあまりその言葉を頭の中にすら思い浮かべたくなかった。既にこの女性に対する印象はあまり良いものではない。理子は彼女が山田の妻とは思いたくはなかった。女性は煙を吐き出した。印象が悪くなると、いちいち行動が引っ掛かる。彼女はまるで、空に突き出た憂鬱な煙突だと、理子は思った。
 風が吹かないので、玄関の前の観葉植物は全く揺れなかった。月の明かりを受け、いやに緑が目立つ葉っぱがぼんやりと輝いている。
「何なの?」
 理子は何も答えずにいると、その女性は続けて質問してきた。
「もしかして、聖の事?」
「はい……。いらっしゃいますでしょうか?」
 そんな名だったか、と理子は思った。不思議と下の名前は憶えていなかった。本も買ったし、ちゃんと名前も言っていたはずだが、完全に頭から抜け落ちている。まるで理子本人が、その記憶を自分自身で消してしまったようだ。聖の記憶に関する扱いは、自分自身も良く分からなくなっている。
「悪いけど、出かけてる」
「何処にです?」
 女性はちらりと月を見上げた。
「今は、巡礼中よ」
「は?」
 巡礼とは、何の事なのかさっぱりわからなかった。月を見上げたので、空への巡礼という意味なのだろうか。月には雲がかかっていて、少し離れた位置にある雲の縁が月明かりで輝いていた。月の光は、この何とも言えない居心地の悪い気分を和らげてくれるようであった。何をしに来たのか忘れてしまうほど見とれていると、車が一台通った。何となく中をのぞき込むと、険しい表情をした男性が前を向いたまま運転している。もちろん、聖ではない。この人は何処から来て何処へ行くのだろう。こういう緊張した状況では、自由に移動できる人を無条件で羨ましく思ってしまう。
「で、あいつに何の用なの?」
 理子は全てを話した。アルコール依存症でどん底にいた時、救ってもらった事。そしていかに彼が人生を変えてくれたかという事を。それを聞くと女性は笑った。
「あの人自身がアルコール依存症だったんだけどね」
 息を飲み、理子は後ずさりした。あらゆる中毒は、心の弱さから来るものだと、聖は言っていた。つまり、彼自身も心が弱かったという事だろう。そんな弱さはおくびも見せなかった。だから、理子には彼女の告白は衝撃だった。
「聖の妻の夏美です」
 女性が突然自己紹介した。どうしてそんな事を言い出したのかわからない。精神的な動揺を隠せない理子に同情したのかもしれないと理子は思った。
「さっき行った、巡礼って何の事かわかる」
「いえ……」
「バーに行かせるの」
「『ばななむーん』ですか?」
「よくご存じね」
 屈託のない夏美の笑顔は理子を戦かせるには十分だった。
「そして、ノンアルコールカクテルを一杯だけ飲んでくるの」
 理子は呆れるほかなかった。アルコール依存症だった人間を、アルコールに強制的に近づけさせているのだ。
「どうしてそんな酷い事を」
「酷いって何?」
 夏美は心外そうな顔をしたが、理子としては意見を変えるつもりはなかった。きっと、誰もが酷いと言うはずである。
 この夏美も色々と酷い目にあったのだろう。しかし、だからと言って、バーに行かせ、酒以外のものだけ飲んで帰ってこいとは、あまりにも逸脱している。
「もう飲まないと誓ったからね」
 これで良いのだというように夏美は頷く。理子は少し背筋が寒くなった。目の前に酒があり、酒が飲みたいのに、飲めない状態。それがどれほど狂おしい状態なのかは理子にもわかっている。ここに来るとき見た『ばななむーん』は、なかなか雰囲気の良いバーであった。月明かりのように弱い間接光に照らされたカウンターで、ノンアルコールのカクテルを眺める聖には同情するしかなかった。
「本人も、楽しんでるしね」
 もしかしたら、彼女は人間的な何かが欠落しているのかもしれないと、理子は不安になった。
「呆れてるようね」
 夏美が言った。
「でもね、あいつがどんだけ酷かったか知ってる?」
 夏美が顔を寄せてきたので、理子は顔を引いた。彼女の抑制された笑顔が怖かった。
「はい、知りません」
「子供の腕、折ったんだよ」
「まさか……」
 理子は驚き戸惑った。その行為自体も理子を驚かせるのに十分であったが、それを笑顔で話す夏美にはさらに驚かされた。あまりの事に、怒りが湧いてきた。この人は、きっと嘘をついているのだろうと結論付けようとした。しかし、一方では、この人の言う事を信じなければならないという気がした。笑ってはいるが、目の奥には、揺るぎない信念のようなものが見える。魂から語っている、少なくとも嘘は言っていないと、理子は感じた。
 たしかに、今から思い返せば、聖にはどこか嘘くさく、腹の底から信用できない何かがあった。自分の過去を繕っていたからなのだろう。しかし、今は何とか立ち直ろうとしている。夏見の課した過酷な巡礼の旅に、逃げずにきちんと出かけているのがその証拠だ。
「そろそろ帰ってくるよ」
 夏美が言った。理子は怖かった。もし、聖が酒を飲んでいたらどうしようと思った。その時の夏見の失望、そして理子自身の失望、それが怖かった。夏見の迫真性は見なかった事にして、彼女は嘘つきという事にして、ここから逃げ出す事も出来た。私は聖という立派な人間に救われ、そのお礼を言いに行ったら、嘘つきの女がいて、聖は最低の人間であるという嘘を吹き込まれた。だから、頭に来て聖が帰ってくる前に、そこを離れた。そういう事にすれば、聖は理子の中では揺るがない。立派な人間のままだ。
「どうするの?」
 まるで、理子の心を読んだかのように、夏美がたずねた。理子自身もどうすれば良いのか見当がつかなかった。もし、夏美の言っている事が正しければ、せっかく整合性を回復し始めた自分の精神と、外部世界のバランスが再び崩れてしまうような気がした。
 水たまりに写る月が見えた。理子は、空にある実像ではなく、この水に映る月のように、虚像を見続けていたのかもしれない。こういう状況で行う常識的な行動とはなんだろうか? 理子は自問した。きっと、真実に向き合うのがただしいのだろう。しかし、真実を知ったところで、いったい何が良くなるのだろうか。決定的な真実を保留したまま何とか生きてい行くという方法もあるはずだ。そしてそれは、逃避ではなく、ひとつの、生きるための戦略と言ってもよいのではないか。
「どうするの?」
 夏美がもう一度聞いてきた。
 理子は、まだわからない、と答えることしか出来なかった。月の明かりが二人を包み込んでいた。

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