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掌編小説 海の乙女たち

「あの人にしよう」
妹が海面に顔をのぞかせて指差す。ひと気のない浜辺の小屋に、若い男の姿が見えた。
「決めたの?」
尋ねると妹は力強くうなずく。ゆれる長い髪を透かして、水中できらめくのは鱗だ。腰から下、海蛇のようにうねった胴にびっしりと生えている。
「お姉ちゃんも、いい?」
わたしも、うなずく。左右に離れつつある目は焦点を結びにくい。首のつけねの鰓がひくひくと動いた。

とまらない海面上昇に伴い、ごく一部の者は魚化するようになった。年頃になるにつれ、わたしは魚人に、妹は人魚に体が変わっていった。妹は不老不死となるが、ヒトを食べずにはいられなくなる。わたしは海藻や小魚などで命をつなぐことができるが、寿命がくる。ただ、ヒトとの生殖で次世代を残すしくみが下半身にはまだ備わっていた。不老不死の流れに、環境の変化を取り入れるためかもしれない。とはいえ、異形の者は敬遠され、成功する可能性は低かった。

わたしたちはある計画を練り、ずっとターゲットを探していた。妹が変わらず永らえるために。そして、わたしが違うかたちで生き続けるために。

まずは妹が美しい顔と歌声で相手をひきつけ、次第に仲を縮める。それから、新月の晩、逢瀬の約束をする。「特別な晩は尾が脚に変わる」など、それらしい話をして。そうして、わたしが闇に紛れ、妹のふりをして相手の家を訪れる。首尾よく交わることができたら、相手が寝入るのを待って、妹に合図を送る。妹は海から上がり、相手を食らう。
「そこまでしないといけないのかなあ」
ぽつんとつぶやいたら、聞き取った妹が眉を吊り上げた。
「だってお姉ちゃん、死んじゃうんだよ。わかるでしょう」

妹はさっそく計画を行動に移し、相手に近づいた。わたしは存在を気取られないよう、遠くからやりとりを聞いていた。妹にあわせて歌うところなど、相手には好感がもてた。仲間になれたらいいのにとも思った。だが、妹に伝えても「そう?」とそっけなかった。

計画は順調に運び、妹は約束をとりつけた。

新月の晩がやってくる。波打ち際で妹に見送られた。ちょうど曇りがちで、星明かりもぼんやりしている。ふだん陸を歩きまわることはそうない。小屋までたいした距離ではないが、やけに体が重い。肌が乾いてひりひりした。何より、こわかった。

小屋をノックして静かに扉を開く。妹が約束していた通り、部屋に明かりはつけられていない。気配がした。
「いらっしゃい」
声にどこかほっとして歩みを進めようとした途端、ふらついて転倒した。痛みに声をあげ、うずくまる。
「だいじょうぶ?」
暗い部屋の隅に小さな明かりが灯った。相手がランプを手に近づいてくる。慌てて体を背けるが、頭部から腰にかけて生えた鰭は隠しようもない。
「きみは……あの子ではないね。どうしてここに?」
問いかけに目から温かな水がこぼれた。この人はこわがらない。
「ぼくの母も、きみとよく似ていたよ。体が乾いてつらいだろう。バスタブに水を張るから、ゆっくり浸かっていったらいい」

案内された場所にひとり、たっぷりの水に頭まで沈むと静寂が訪れた。今回のいきさつを相手にどう話そうかと考える。妹にも思いとどまってもらわないといけない。「仲間だから」と。

考えていたらずいぶん時間が経ってしまった。顔を上げると、潮の香りが濃い。馴染んだものとは違う、強いにおいが混じっている。胸騒ぎがして、水を滴らせたまま部屋に急ぐ。

暗がりで小さなランプに照らされているのは、一心に男のはらわたに食らいつく妹だった。血でできた海に、長い胴を投げ出して。

妹の名を叫ぶと、はっとしたようにこちらを向いた。あどけなさを残したその顔がくしゃくしゃにゆがむ。
「ずっと合図がないから、お姉ちゃんに何かあったんじゃないかって……。来たら、体が勝手に」
思わず駆け寄って抱き締めた。なめらかな背を何度もさする。
「もう帰ろう、帰ろう」

海へ急ぐ。水平線が光りはじめている。ふたりでペースを合わせて、波の奥へと進む。

朝焼けに妹の顔が染まる。赤黒くまだらになったその口元を指でぬぐってやり、髪や体にも水をかける。こびりついた血がゆるんでいく。

太陽が昇ってきたよ。そう言って、妹が手を握ってきた。
「さみしいね」
並んで空を仰いでも、わたしには太陽の像は結べなかった。波の輝きを感じるばかりだ。さみしいね、なのか。さみしくないよ、なのか。言葉も結ぶことができず、ただ妹の手を握り返した。



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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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