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掌編小説 壁の鼻

壁に鼻が生えていた。転職に伴う引っ越しを間近に控え、洋服や鞄などを段ボール箱に詰めているときに気づいた。ウォークインクローゼットの隅に座り、壁に向かって作業をしていて、目を上げたらあったのだ。鼻は礼儀正しく挨拶するように、まっすぐ静かに生えていた。五年前に入居したときには気づかなかった。あらかじめ傷や異状がないか、くまなく点検していたはずなのに。

鼻はヒトのものの形をしていた。筋が通って、先がつんと尖った格好のいい鼻だ。小鼻の黒ずみなどもない。穴を下から覗き込むと縦長である。わたしの、円くていつも正面から見えっぱなしのものとは違う。「こんな鼻なら人生違ったのに」と憧れていた、古いフランス映画の主演女優のものが重なる。

おそるおそるその鼻先に触れると、質感は壁の素材とはまったく違った。柔らかな人の肌そのもので、弾力に押し返された。初冬の散歩のあとのようにひんやりしており、脂気はなくさらさらしている。

どうなっているんだろう。これ、外れるのだろうか。パソコンのマウスを握る要領で鼻のつけ根に人差し指をかけて、親指と中指の腹で小鼻の脇をつかんだ。左右に揺らしてみると、それにあわせて小刻みに壁とずれる手ごたえがあり、冷蔵庫のマグネットのようにかぽっとまるごと外れた。外れた跡は周りと変わりなく、ただの白い壁紙だった。鼻を裏返し、壁に接していた面を見ると、陶器の置物の底のように白くてすべすべしていた。思わず、ふうっと大きな息がもれた。引きちぎれたり、血が流れたり、そんな可能性もあっただろうから。

やれやれ。前の住人か内装業者が、いたずらで残したおもちゃなのかもしれない。アート作品か、特殊メイク用のパーツかも。顔に近づけてみたが、特別においはしない。

自分の鼻に鼻を重ねたまま、クローゼットの姿見に顔を映してみた。お、意外に悪くないかも。でも、やや「つけっぱな」感があるかな。手にした鼻を顔に押しつけると、温まったせいなのか、平らだったはずの底が粘土のように変形して密着した。下にあるはずの自分の鼻との境目もわからない。鏡を前に、顔をあちらこちらに向けたり、髪の毛をかきあげてみたりして、いつもと違う雰囲気を味わってみる。見慣れないバランスが楽しくもあり、居心地悪くもある。

そばに置いていたスマートフォンが鳴った。不動産会社だった。話をしながら、今日までに入金しなければならないものがあったことを思い出す。通話を終えたあと、このままオンラインで振込み手続きをしてしまおうと、銀行のアプリケーションを開いた。

ところが、顔認証が進まない。何度もエラーメッセージが表示され、ついにロックがかかってしまった。やっぱり、ちょっとでも鼻の印象が変わるとだめなんだな。

鼻を、壁から外したときのように顔からとろうとしたがうまくいかない。鼻先をつまんで引っ張ると、骨がつられて痛んだ。小鼻の脇に爪を差し入れようとしても入らない。

どうしよう。かぶせた鼻が外れなくなってしまった。全身から汗が噴き出し、血が逆流するように感じられた。まずい。パニックになりかけている。ひとまず、すぐに終わる振込みを片付けてしまおう。そちらは外のATMまで行けばなんとかなる。

クローゼットを出ようとして、先ほど鼻の生えていたあたりに目が吸い寄せられる。どうしても見逃せなかった。それは、わたしの鼻だった。

その姿を見て安堵した。まるっこくて上向きで、わたしのなかで一番わたしらしさを感じる部位。人にからかわれながらも、いつも堂々と顔のまんなかに居座っていた相棒。つけた鼻がとれなくなったのは、いつの間にかすり替わっていたせいだったのか。早くつけ替えてしまおう。

壁の前に再び座り込んで、わたしの鼻に手をかける。だが、何度揺さぶっても、力を入れても、外れてくれない。皮膚が傷つき、鼻の穴が破けて血が滲むのを見て、涙が込みあげてきた。わたしの鼻、わたしの鼻。お願いだから戻ってきて。壁紙ごとめくって剥がそうとしたが動かない。工具箱を持ってきて、ドライバーやハンマーを使って壁を砕いて外そうとしても、鼻のあたりは結界が張られたように傷ひとつつかない。

引っ越し当日まで粘ってみたが無駄だった。時間切れだ。管理会社の立会いはこれからなのに、クローゼットの壁は穴だらけで、紙や石膏、断熱材などの破片が散乱していた。わたしの鼻は壁に生えたままである。

わたしは思いがけず願いどおりの鼻を手に入れて、新たな人生を歩むことになった。というより、そうするしかなくなってしまった。新しい鼻で新しい部屋に住み、新しい環境で新しい人間関係を築く。「リセットできていいじゃない」なんて羨ましがる人もいるかもしれない。でも、それはわたしの人生じゃない気がした。本当のわたしは、壁にひっついてずっとここに暮らす鼻のほう。

ともあれ、壊した壁の修繕料が、転居先のわたしのほうに請求されることだけは確実だった。



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