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「銀河鉄道の夜」は、やはりBLと解釈すべきだろうか?

今回は名作アニメとして名高い、「銀河鉄道の夜」を取り上げたいと思う。
これは言わずと知れた宮沢賢治の名作であり、そういえば私も小学生の時に読んだ記憶がある。
正直、ワケ分からん内容だったけど・・。
これ、一応カテゴリーとしては児童文学ってことになるんだろうが、これを読んで感動できる小学生がいたなら、そいつ相当キモいぞ?
全体的な空気感が不穏で暗く、本来子供に求めたい明るさや健全さに欠けてるような気がするし・・。
でもなぜか、学校側はいつの時代でも宮沢賢治を推薦図書にしてるんだよね。
個人的には、幼少期に宮沢賢治読んで育った子より、「ワンピース」読んで育った子の方が安心できる。
ジャンプ三原則、友情・努力・勝利だから。
宮沢賢治にも友情と努力はあるが、でも勝利がないんですよ。
よって、カタルシスがない。
「銀河鉄道の夜」も、まさにそんな感じである。

「銀河鉄道の夜」杉井ギサブロー監督(1985年)
毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞

とはいえ、このアニメ映画は見たことない人の方が少ないんじゃないだろうか?
テレビで繰り返し放映されてるし、あの映画評論家・淀川長治氏がこの作品を次のように絶賛していたらしい。

「私は、何でもベタ褒めの批評家と自分では思っていない。
けれども、好きだとか良いと思うと黙ってはいられないタチなので、
このアニメを見るなり、書きたいと自分から名乗り出た。
私は自分から書きたいと雑誌社に頼んだのは、
ヴィスコンティの『家族の肖像』と、これだけである」

「この映画の制作に、一年半かけたうちの十ヶ月はシナリオにかけたというように、生命というもの死というものを文でなく劇でなく、アニメで見せることはさぞ苦しかったに違いない。
それをアニメがこれくらい映画をマスターしたことで、私は酔った。
むしろ呆れるばかりである」

なんか知らんが、大絶賛だね。
淀川さんのことだから他にもアニメ映画は数多く見ただろうに、その中でもこの「銀河鉄道の夜」は別格っぽい。
何がそんなに刺さったんだろう?
やっぱ、あれかな。
ジョバンニとカンパネルラの関係性?
淀川さんはゲイだし、これをBLっぽい視点で見てしまったのかもね。
まぁ確かに、このふたりの関係性はただならぬものがある。
ジョバンニは終盤、しきりにカンパネルラに対して
僕たち、ずっと一緒だね
と連呼するんだが、思えば体調を崩してる母が家で独りジョバンニの帰りを待ってるというのに、それを踏まえて、ふたりで銀河鉄道に乗ってどこまでも行こうという彼の態度はどう考えても尋常じゃない。
明らかに、友情という枠を超越してるかのような・・。

このふたり、やっぱそういうことだよね?
プラトニックではあるが・・

さて、アニオタ的に「銀河鉄道の夜」といえば「銀河鉄道999」を思い浮かべる人と、「輪るピングドラム」を思い浮かべる人とに大きく二分されるだろう。
個人的には、「輪るピングドラム」の方が世界設定は近いと思う。
蒸気機関車と地下鉄の差はあるけどね。
あと、キーアイテムのリンゴ。
だから「ピンドラ」ファンは、
①銀河鉄道の夜
②劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM<前編>君の列車は生存戦略
③劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM <後編>僕は君を愛してる

という3本立てで見るのが、最も完璧な視聴方法じゃないだろうか。
ぜひ、この3本立てをお薦めしたい。

「輪るピングドラム」と「銀河鉄道の夜」、両作に共通してるのは、誰かの為に死ぬという自己犠牲なんだ。
宮沢賢治は「雨二モ負ケズ」という詩が有名であり、その内容はこんな感じである。

雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ、丈夫なからだを持ち、欲は無く、決して瞋からず、何時も静かに笑っている
(中略)
日照りのときは涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き、皆にデクノボーと呼ばれ、誉められもせず苦にもされず、そういう者に私はなりたい

これ、かなり凄い内容だよね。
ここから伺える宮沢賢治の理想形は
・善人
・承認欲求がゼロ
・ドM

である。
文部科学省はやけに宮沢賢治を推薦図書にしがちなんだけど、子供たちには上記のような人間に育ってほしいってこと?
まあ、そうなんだろうよ。
どんな過酷な環境だろうが文句ひとつ言わず、ただ黙々と働く奴というのはお上にとって非常に理想的な人材だから。
そりゃそうでしょ。
「海賊王に、俺はなる!」
という野心と承認欲求のカタマリみたいな奴と
「皆にデクノボーと呼ばれ、誉められもせず苦にもせず、そういう者に私はなりたい」
という純度100%の社畜みたいな奴とを比較するなら、お上としては後者の方を断然好ましいと考えるんじゃない?
今の時代はともかく、少なくとも戦前は絶対そうだよ。

杉井ギサブロー氏

そして、この作品を作った杉井ギサブロー氏も1940年生まれであって(まだご存命である)、この賢治イズムを理解できる人なんだ。
この杉井さんって、めっちゃ偉大なアニメーターである。
日本初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」の作画監督をはじめ、アニメ黎明期から第一線で活躍してきた巨匠なのよ。
皆のよく知るところでは80年代、「タッチ」「ナイン」「陽あたり良好」等、あだち充作品の監督を手掛けてるし、あと映画では「銀河鉄道の夜」「紫式部 源氏物語」「あらしのよるに」「グスコーブドリの伝記」など数々の名作を作っている。
だけど巨匠の割に、知名度いまいちだと思わない?
ライバルの出崎統やりんたろうの方が名が通ってるというか、監督する作品そのものに一種の派手さがあるでしょ?
でも杉井作品って、基本地味なんだよね。
「皆にデクノボーと呼ばれ、誉められもせず苦にもせず、そういう者に私はなりたい」とは、まさに杉井さんのことなのでは?

「グスコーブドリの伝記」(2012年)
メディア芸術祭優秀作品賞受賞

またしても猫、またしても宮沢賢治・・。
杉井さんの「グスコーブドリの伝記」、見たことある?
ある意味「銀河鉄道の夜」以上に賢治色が強く、この主人公の生涯もまた
「皆にデクノボーと呼ばれ、誉められもせず苦にもせず、そういう者に私はなりたい」というスタンス、そのまんまである。
オープニングはめっちゃ幸福感に満ちた感じで、優しい父と母、可愛い妹に囲まれて主人公はとても楽しそうである。
ところが一転、飢饉がきて、食べ物が尽きてストレスから父は頭がおかしくなり嵐の夜に失踪、それを探しに行った母の消息も途絶え、妹も飢餓で衰弱し始めたところ、「謎の男」が家に押し入ってきて、妹をさらっていってしまった。

「謎の男」に連れ去られた妹

やがて、主人公は妹を取り返す為に捜索の旅に出る。
で、原作では妹と再会するんだけど、なぜか杉井さんの脚本では最後まで妹に会えないまま終わるのよ。
というか、最後に主人公は「謎の男」と対峙するんだけど、このシーンで男の正体は死神であることが暗示されるのね。
つまり、これは妹が「謎の男」に連れ去られた時点で既に死亡していた、ということを意味する。
ならば、主人公はいるはずない妹を探し求めてたのか?
というか、主人公も薄々妹の死に気付いてたんだろうが、敢えて生きてるという設定を自分の中に作っていたんだろう
なんかぞっとすると同時に、めっちゃ切ないわ~。
で、その頃にまた寒波が訪れていて、再び飢饉になりそうな気配。
そこで主人公は、「CO2を増やして温暖化を人為的に作る」という形で寒波を防ぐアイデアを思いつき、人為的に火山を噴火させようとする。
ただし、その策には誰かひとり犠牲者にならなきゃならん(噴火の巻き添えになる)という問題があったんだが、主人公は「謎の男(死神)」に依頼をし、自分を火山の火口にまで連れて行ってもらって噴火を成功させたのね(つまり殉職)。
その甲斐あって気候は温暖になり、世界は飢饉を免れましたとさ、めでたしめでたし。
というあらすじで、なんか主人公の自己犠牲が不憫だし、彼の生涯そのものがあまりにも不幸すぎる。
でもこの作品、「文部科学省特選」なんだよね(笑)。
こういう生き方、相変わらず文部科学省は推奨してやがる。
いやいや、こういうのを子供に見せてどうすんのよ?
自己犠牲を美化してんの?

「あらしのよるに」(2005年)
日本アカデミー賞優秀作品賞受賞

あと、杉井さんは「あらしのよるに」でも自己犠牲の姿を描いており、ヤギの主人公が友人のオオカミ(飢餓状態)に
「僕を食べていいよ」
とか言うんだ。
こうして徹底して自己犠牲を描くということは、賢治イズム=杉井イズムということなのかもしれん。
人生とは、自分が幸福になる為にあるんじゃない。
他者に、世界に貢献する為にあるんだ。

という考え方。
ある意味では正しい。
でもこういうの、いまどきの幸福至上主義者たちには通じないと思うけどなぁ・・。

さて、最後に巨匠杉井ギサブロー先生の最新の仕事をご紹介しよう。
それは、ショートアニメ「臨死!!江古田ちゃん」第2話の監督である。

これ、地味に監督・杉井ギサブロー+脚本・岡田磨里という奇跡の一作なんだよね。
それがよりによって、なぜ「臨死!!江古田ちゃん」(笑)?
まぁ確かに、ここでも江古田ちゃんの不幸と自己犠牲が描かれてるわけで、ある意味でこれも杉井イズムなのかな・・。

これは監督が回ごとに替わり、杉井さん以外にも高橋良輔、森本晃司、小島正幸など超大物多数


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