マラソンのような人生があるなら、散歩のような人生もあって良い
人生はマラソンのようで、マラソンでない。
みんな同じゴールに向かって走るわけではないし、優劣もつかない。
人の数だけゴールがあり、ゴールの数だけ道もあって、ペース配分は人それぞれだ。
「そもそも走らないといけないのだろうか」
スタートの合図とともに走り出さないといけないのだろうか。
走るペースが人それぞれなら、そもそも「走らない」というペース配分の仕方もあるはずだ。
「人生はマラソンではなく、散歩だ」
マラソンのように走っていたい人もいれば、のんびり散歩していたい人もいる。
地面を踏み締める感覚をはっきりと記憶しながら、ゴールに向かって一歩一歩進んでいく。
いっそ、向かう先にゴールなんてなくても良いのかもしれない。ゴールがあるから向かうのではなく、向かってみたい方へ向かってみる。「向かうこと」は手段ではなく、それ自体が目的なのだ。
人生を「散歩」に見立てるなら、“目的ありきの散歩”なんてものがほとんどないように、人生という道を一歩一歩進んでいくこと自体が目的なのかもしれない。
「誰しもゴールがあって、そこに向かって頑張っているはずだ」というのは常識でも当たり前でもなく、一つの思い込みのようなものだ。誰かにとって人生はマラソンでも、別な誰かにとって人生は決してマラソンではない。
確かに、マラソンの方が早く、より遠くへ行けそうな気がするし、その分困難も多そうだけれど、走り切った時の達成感はきっと大きい。
散歩では遠くへ行けないかもしれない。行けたとしても、ものすごく時間がかかる。達成感なんてものとも無縁かもしれない。
けれど、マラソンでないと見れない景色があるのと同じように、散歩だからこそ見れる景色がある。思いがけない路地裏、こじんまりとした雑貨屋。
些細な発見に一喜一憂できるくらいしか散歩の良さはないかもしれないけれど、些細な何かで喜怒哀楽を感じられて幸せを噛み締められるなら、たとえ成功や達成とは無縁でも、悪くない。
マラソンでも散歩でも、一歩一歩地面を踏む感覚を確かめながら進んでいきたい、そんな人生を生きていたい。
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