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昨日の私

 消えた鍵を探している、今まさに。
 最近の犯罪は巧妙だという。スマホで鍵を撮影して合鍵を作った同僚が一人暮らしの女性の部屋に侵入した事件のニュースを見たばかりだ。スマホを無くしただけなのにという映画も頭をよぎる。背中がぞわりとして嫌な想像ばかりしてしまう。

 確かに酔っていた。酔っていたが一次会の会計時にはあった。
 にやにや笑いながらスマホを探した時にバッグの中で指に触れたのだから間違いない。それになにより今自分が部屋にいるのだから、鍵がない理由が全く分からない。スペアキーはある。ないのはいつも持ち歩いている鍵だ。

 記憶を順番に思い出していく。いや、思い出そうとするのだが、なかなかうまくいかない。とにかく気づいたら家にいたのだ。唯一の手がかりが一次会にしかないとは。大体において私は滅多に泥酔などしない。たとえ酔っていたとしても記憶はいつも確かなのだ。酒に強いのだけが取り柄なのに、何という失態。私としたことが。

 二次会は気心の知れたメンバーと気心の知れた店に行くと決めている。三次会はあっても行かない。のだが、昨日はいつもと違っていた。
 一次会で、最近中途入社した営業部のなんとかさんと意気投合してしまい、なんとかさんと一緒に営業部の二次会に合流した。
 常日頃、営業チームの飲み会は別日が多い。昨日はどうした幹事の風の吹き回しか、一次会会場であるチェーンの居酒屋で営業部と鉢合わせることになった。日頃の交流もあって挨拶に回っているうちに、なんとなく営業チームの飲み会に入ってしまったのだが、そのせいで、今、鍵の行方がわからないのである。中途入社のなんとかさんの名前すら思い出せない。
 なんとかさんはなかなかに善い男だった。それでふらふらと三次会にまで行き、彼とふんわりした名前の宿泊施設に向かった。が、さすがに酔いすぎていて帰ることになり、タクシーで家に帰った。
 よし。ここまでは思い出せた。
 問題は、一緒にいた30歳独身転職3回目3人兄弟の3番目のなんとかさんの名前を思い出せないことだ。3がつくディテールは覚えているのに名前だけすぽんと抜け落ちている。ふんわりした名前の宿泊施設にまで行っておいて、だ。
 全く昨日の私は私ではないようだ。LINEすら交換していない。どういことだ。
 バッグを振ってみたり、床にぶちまけた荷物をひとつひとつ取り上げて痕跡を探す。もう何度も同じ動作をしている。初動捜査で店のカードが1枚見つかっているが、一次会のものだった。
 すぅと深呼吸した。冷静になろう。少なくとも私はここにいる。自分の部屋だ。鍵がなくては部屋には入れない。だから鍵は部屋の中にある。
 うん。だが、ない。ないのだ。
 起き上がった拍子にバッグをひっくり返して、鍵がないということに気が付いた。それから三、四十分ほど家中の捜索をし続けている。
 玄関、トイレ、洗面所、部屋、キッチンダイニング。
 ひとり暮らしの広くはない部屋は、あちこちひっかきまわしてまるで泥棒に入られた部屋のようだ。いや、最初からそのような荒れ具合だったので、どこに何があるやら判然としない。

 とにかく昨日の足取りをたどるしかない。もしかしたら、誰かが部屋まで送ってきてくれて、おそらくそれは営業のなんとかさんだとは思うのだが、その人が鍵を持っている可能性が高い。ほぼ知らない人だ。これはまずい。
 酒豪だか身持ちが堅いと評判の自分の価値を無駄に下げたくないのだが、仕方なく同期の三崎さんに電話をかけた。
 あのね昨日、営業チームの二次会ってどこに行ったか知ってる?というと、やだミツキさん昨日珍しく酔ってたから私ついて行ったんだよ覚えてない?と沼池の蓮のように可憐な三崎さんは言った。三崎さんは子供を夫に預けるのが限界で二次会途中で帰ることになり、私の身柄をやはり同期の三島くんに預けて帰ったという。身柄を預けられた時点で私の状態がよろしくなかったらしいと推察された。
 確かにこのところ、ストレスが溜まっていた。
 仕事だけではなく、人生のいろいろなことに行き詰っていた。
 だからといって今回の醜態の言い訳にはならないが。
 仕方なく三島くんに電話をかける。三島くんはすぐには電話に出なかったので、LINEで昨日の私のことを何か知らないかとわけのわからないメッセージを入れた。すると三島くんは電話をかけてきた。外からだ。
「今コンビニ」
 と、彼は言った。今コンビニとはどういうわけだ。皆目わからない。
「あなたが朝飯が何もないというから買いに来たんですが」
 と、言う。営業のなんとかさんはどこに行ったのだろう。
「それより、部屋片づけたほうがいいよ」
 痛いところを指摘されはなはだしく腹が立ったが、それを機になにやらうっすらと、霞の地層に埋もれていた記憶が姿を現し始めた。
 私は昨夜、営業のなんとかさんと盛り上がり「コットンキャンディ」という名の宿泊施設の前までいい気分で歩いて行ったのだが、手前で突如冷静になり、大変申し訳ないが急にその気がなくなったので帰ると正直に申し上げた。営業のなんとかさんは韓流の俳優さんのように綺麗な顔で、まあ夜も遅いし、電車が動くまでここにいましょうと言ったのだった。
 それもいいかなと思わず心が動いた時、後ろからむんずと腕をつかまれて、振り返ったらそれが三島くんだった。
 私はもういちど霞で記憶を埋めようとしたが、無駄だった。霞は無くなってしまったドライアイスのように雲散霧消し、記憶はまざまざとその姿を現していた。
「とにかく今から帰るから、ちょっとでも片付けておいて」
 三島くんの言葉に、我に返る。
「鍵。鍵は」
「ミツキさんが僕に渡したんだよ」
「じゃあ、30歳独身転職3回3人兄弟の3番目は」
 それ僕のこと、ちなみに昨日のあの人既婚ですよ、僕、人事だからとあっさり言うと、じゃあ今から帰るんでと三島くんは言った。
 あ、はい。と返事をして電話を切った。
 三島くん、同期なのに転職3回目なんだ、と変なことに感心した。そして夕べ、説教のついでのように告白されたことも思い出した。

 忘れたふりをしていようか、どうしようか、と思いながら私は、少し呆けたように部屋を見渡した。
 頭の中がようやくクリアになって、昨日のことがまるで夢のようだ。

 鍵が見つかって、昨日の私を見失った。
 でもきっとそれは、見失っていい私だった。


#シロクマ文芸部



 また#シロクマ文芸部さんに参加させていただきます。
 今回はちょっと直球ストレートな感じのお話になりました。







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