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『お爺さんのこぼれ話』(超訳)

『二宮翁夜話』という本がある。
超訳して『お爺さんのこぼれ話』と呼ぶことにする。

現代ではあまり知られていない本ではあるが、書庫の奥に埃をかぶせておくには惜しい偉大な本である。本稿は、話題に沿った内容を原典から部分的に選び出し、適宜組み合わせ、現代人でも理解しやすい言い方に吹き替えて翻訳したものである。

なお、この本に出てくる「お爺さん」は、江戸時代を生きた実在の人物(天明7年 - 安政3年)であり、自らの哲学の実践によって600以上の貧しい村々を救ったとされている。


『お爺さんのこぼれ話』(超訳)

真実をとらえること

◆お爺さんは言いました――
 「誠」というのはね、学んだり習ったりしなくても自然と分かるような物事をいうんだ。
 書籍も記録も師匠もなく、それぞれの人が自分で自然に身につけて忘れないもの、それこそが「誠」の正体だ。たとえば、喉が渇いたら飲む、お腹が減ったら食べる、疲れたら寝る、目が覚めたら起きる、といった種類のことだけを言うんだよ。逆に、ある特定の記録や書籍を読んで学んだり習ったりしないかぎり出てこないような物事は「誠」ではないということだ。
 私の教えでは、書籍を重視していない。というのも、私は自然そのものを標準としているからだ。
 自然というのは、木魚も鳴らさず、お香もあげず、文字のないお経を常に繰り返している。こうして毎日繰り返される自然の経文を見れば「誠」が何であるかは自明だろう。
 こんなに尊い自然を無視して、まるで書籍の上に真の正解があるかのように言う学者たちの主張を、私は採用しない。よく目を開いて、自然を観察し、それを「誠」であると捉えるのが正しい道ではないだろうか。たとえば、世界で何よりも横にまっすぐなのは水面で、縦にまっすぐなのは糸に垂らした鉛だろう。こういう不変のものがあるからこそ、地球の測量もできるわけで、これを無視して成り立つような測量術が世の中にあるだろうか。影の長さを測るにしても、掛け算九九にしても、すべて自然を絶対基準にしているわけだ。自然を基準にしているからこそ天文も暦も正しく計算できるわけで、もし自然を無視したならば、どんなに頭の良い人でも適切な方法で物事を行うのはおそらく無理だろうね。
 正しい道理というのは、そういう自然そのものを基準にしたものだと私は思う。自然は言葉を発しないけれども、常に運行していて、あらゆるものを生み出す「不書の経文」「不言の教戒」だ。つまり米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦が実るという当たり前のことを示してくれている。このような不変の基準に拠り、誠の道に基づき、「これこそが真実なのだ」と認識できるように心掛けるべきだ。

倫理について

◆お爺さんは言いました――
 寒さが去れば暑さが来て、暑さが去れば寒さが来る。夜が去れば昼になって、昼が去れば夜になる。寝ていても起きていても、居ても歩いても、昨日は今日になり今日は明日になる。生れた子どもは刻々と老いてゆき、築いた堤防は刻々と崩れ去り、掘った堀は刻々と埋まってゆき、葺いた屋根は刻々と腐る。これこそが自然の道だ。
 ところが人道というのは、これとは違う。どうしてかといえば、風雨や寒暑が巡りゆくこの世界に、私たちは毛も羽も鱗もなく裸で生れ落ち、家がなければ雨露を凌ぐこともできず、衣服がなければ暑さ寒さを凌ぐこともできないからだ。 だからこそ人道というものを立て、米を「善」とし、雑草を「悪」とし、家を造るのを「善」とし、家を壊すのを「悪」とする。これは全部、人間が人間のためだけに立てた道だ。だから人道というんだよ。
 自然に善悪はない。だから自然は稲と雑草とを区別せず、種ある者は皆成長させ、生気ある者は皆生まれさせるわけだ。人道はその自然法則に従っているとはいっても、米や麦を「善」として稗や雑草を「悪」とするように、何でも人間にとって便利なものを「善」、不便なものを「悪」としている。ここまでくると自然の道ではない。人道は人工的なものだ。人道は料理品や三倍酢なんかと同じで歴代の偉い人が段々と調整して拵えたものだ。ということは、何かの拍子に壊れてしまう可能性があるということなんだよ。だから、政治を行い、宗教を立て、刑法を定め、礼儀を制し、やかましくうるさく世話を焼いてようやく人道は立つ。それなのに、人道を普遍的な道理だと思い込むのは、大きな勘違いだ。
 人間が嫌っている畜道(獣のやり方)というのは、むしろ自然の道に近いやり方だ。人間が尊ぶ人道は、自然に従っているとはいっても、あくまで作為的なものであって自然そのものではない。たとえば、雨には濡れ放題、日には照られ放題、風には吹かれ放題、春は目の前にある青草を食べ、秋は目の前にある木の実を食べ、食べ物があればお腹いっぱいまで食べ尽くし、なければ食べずにいるようなやり方を、自然と呼ばずして何と呼ぼうか。逆に、家を建てて風雨を凌ぎ、蔵を作って米や粟を貯え、衣服を作って寒暑を遮り、一年中いつでも米を食べるようなやり方を、作為と呼ばずして何と呼ぼうか。自然の道ではないことは明らかだ。
 自然法則と人道との違いを意識的に区別できている人は少ないね。そもそも人間として生まれたならば、欲があるのは自然なことで、田畑に草が生え放題になるのと似たようなものだ。堤防は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる。これは自然の理だ。人道は私欲を抑制したり、田畑の草を抜いたり、堤防を築いたり、堀を浚ったり、橋を架けかえたりするのを正義としているよね。自然の道と人道は別物なんだよ。
 自然の道は永久に変わらず、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。だからこそ、人道は努力して維持することを重視し、自然ありのままに従うのを嫌う。人道で努めるべきことは、自分の中にある自然に打ち克つということなんだ。
 人間社会にいながら雨漏りを坐視し、道路の破損を傍観し、橋が朽ちても平気でいるような人は、人道においては罪人だ。
 善悪の論は難しいね。本来を論じるならば、善も悪もない。「善」という区分を設けるからこそ、「悪」という区分が同時に生まれる。善悪は、もとは人間の主観から生まれた概念だから、人道の範疇にあるものだ。つまり、人間がいなければ善悪という概念はなかったはずなんだ。人間があって、その後に善悪があるんだよ。
 人は荒地の開拓を善とし、田畑を荒らすのを悪としているけど、野生の猪や鹿の方にとっては、開拓を悪とし、田を荒らすのを善としているだろうね。法律は泥棒を悪としているけど、泥棒仲間のうちでは、盗みを善とし、盗みを邪魔する人を悪としているだろう。それなら、何が本当の善で何が本当の悪なんだろうか。この話はなかなか理解しにくいだろうね。
 この理屈が一番分かりやすいのは「遠近」の例だ。「遠近」も「善悪」も理屈に注目すれば同じものだからね。たとえば杭を2本作って、1本には「遠」と書き、もう1本には「近」と書いて、この2本を他人に渡して、「この2本の杭を遠い所と近い所にそれぞれ立てなさい」と言いつけた場合のことを想像するとすぐに分かる。客観的に見れば、「遠い所」とか「近い所」という場所は存在せず、ただ各人の立ち位置によるということだ。もし「遠い所」「近い所」という部分を「善」「悪」に置き換えて説明したならば、自分の身に強く関わりがありすぎてカッとなり、この理屈は理解できないだろう。「遠い所」「近い所」といえば自分の身に関わりが少ないので、冷静に理解できるはずだ。
 そもそも「遠近」はね、自分の立ち位置が決まったあとに「遠近」というものが決まるんだ。自分の立ち位置というものがなければ、遠近という概念は絶対に存在しない。「大坂は遠い」と言えば関東の人の発言で、「関東は遠い」と言えばきっと上方の人の発言だろう。禍福、吉凶、是非、得失というのも全部これと同じだ。本来は、禍福も1つ、善悪も1つ、得失も1つのものなんだ。1つのものの半分を「善」とすれば、余りの半分は必ず「悪」ということになるよね。なのに、その半分に「悪」が一切含まれないことを願うのは、成立しようがないことを願っていることになる。人が生れるのを喜ぶならば、人が死ぬと悲しくなるということだよ。死生はもちろん、禍福、吉凶、損益、得失、何でも同じことだ。もとは禍と福は同じものであって1つの円だ。吉と凶も1つの円だ。どんな概念もこれと同じ話なんだよ。

自然と人道のバランス

◆お爺さんは言いました――
 人道というのは、水車のようなものだ。半分は水流に従い、残りの半分は水流に逆らって回る。全部水につかってしまえば、回らずに流れてしまう。水を離れれば回らない。仏教徒のように、世を離れ、欲を捨てているのは、水車が水を離れたようなものだ。逆に、教えも聞かず、義務もしらず、私欲一偏に執着する人は、水車を全部水中に沈めたようなものだ。どちらも社会の用をなさない。
 人道は中庸が一番だ。水車の中庸は、半分は水に従い、半分は水に逆らって、運転が滞らないところにある。人の道も、自然に従って種を蒔き、自然に逆らって草を刈るのがちょうどいい。欲に従ってお金を一生懸命稼ぎ、欲を制して義務を果たすのがちょうどいい。

収支の基本

◆お風呂場で、お爺さんは言いました――
 世の中には豊かな人々もいるが、彼らは十分な量が何かということを知らず、とにかく利を貪って「お金が足りない。生活が苦しい」と言っている。それは大人がこの湯船の中に立ち、屈もうともせず、湯を肩に掛けながら「湯船が浅すぎる。膝すら浸からないじゃないか」と絶叫するようなものだよ。これは湯船が浅いのではなく、自分が屈まないことによる過ちだ。この過ちを知って屈めば、湯はすぐに肩に満ちて、自然と十分な状態になるだろう。どうして自分以外の何かに対してそんな要求をするんだろうね。世間で豊かな人々がお金の不足をとなえるのは、これと何が違うのだろうか。分度というものを守らなければ、10,000,000石の収入があろうと不足ということになるだろう。一度、使い過ぎという誤ちに気付いて分度を守れば、余裕が自然と生じて、人に譲ってもまだ余りがあるようになる。
 そもそも湯船は大人は屈んで肩につき、子どもは立って肩につくのがちょうどいい状態だ。100石の収入がある人は、50石の出費に身を屈めて50石の余りを他人や将来のために回し、1000石の収入がある人は、500石の出費に身を屈めて500石の余りを他人や将来のために回す。これをちょうどいい状態というべきだ。もし村の誰か1人でもこの理屈を実践することがあれば、周りの村人も我が身の過ちにハッと気付けるようになるだろう。みんなが分度を守って、その余りを他人や将来のために回せば、その村は繁栄して幸せになることは確かだよ。

ゴールを明確化する

◆お爺さんは言いました――
 なにかを成し遂げたければ、最初にゴールを明確にすべきだ。たとえば、木を伐ろうとするとき、まだ伐らないうちから木の倒れるところを明確に意識しておかないと、倒れはじめてからではどうしようもない。私が印旛沼の改革準備のために下見したとき、目標設定も一度にしようと言って、どんな事態になっても失敗しない方法を工夫した。相馬侯が国の復興を依頼してきたときにも、着手するまえに180年分の収支記録を調べて、分度の基礎を立てた。これも荒地開拓が完了したときのことを考慮してのことだ。

計画と進捗確認

◆お爺さんは言いました――
 何事も決定と注意が重要だ。どうしてかといえば、どんなことでも決定と注意によって成功するからだ。逆に、どんなに小さなことでも、決定や注意がなければ何もかもが全部失敗してしまう。
 1年は12ヶ月だ。そして米は毎月実るわけではない。米が実るのは初冬の1ヶ月だけなのに12ヶ月間ずっと米を食べることができるのは、人々がそのように決定して、そのように注意するからこそだ。この理屈から考えれば、たとえ2年に1度だけ、あるいは3年に1度だけ実るという場合であっても、人々がそのとおりに決定して注意すれば、足りなくなることはない。
 一般的にいって物の不足というのは、覚悟していなかったところに生じる。つまり、覚悟していれば日頃の暮らしについても「大体このくらいなら年末になっても余るだろう」とか「不足するだろう」とか、予測できるものなんだよ。これに気付かずにうかうかと暮らし、大晦日になって初めて驚くのは、愚の至り、不注意の極みだ。ある飯炊き女が言っていたけれど、1日に1度ずつ米櫃の米をかきならして目で確認していれば、米の不足が突然発覚するということは決して起こらないという。これは飯炊き女の注意の賜物だよ。米櫃をならして見るのは、一家の棚卸しと同じことだ。この例を見習って、きちんと決定し、注意すべきだね。 

優先順位について

◆お爺さんは言いました――
 松明が残り少なくなって、持ち手の部分に火が近付いてきたときは、すぐに捨てなさい。火事が起こって危ないときは、荷物を捨てて逃げ出しなさい。大風で船がひっくり返ろうとしているときには、上の積荷を低い場所に叩き落としなさい。特にすさまじいときには、帆柱すら切り倒してしまいなさい。この発想がないのは、愚の骨頂だ。
 何事にも特例というものがある。これを知らないわけにはいかない。つまり、一時しのぎの便宜的手段についての話だ。孔子の教えに「難しいことを先にしなさい」というのがある。でもね、田畑を耕したり草刈りをしたりするとき、普通は草の多い場所から着手すべきだけれども、事情があって手入れが遅れてしまった場合に限っては、ちょっと違う。そういうときは、草が少ない畑から順番に着手して、草の多い畑は最後にしたほうがいい。これは一番大事なことだ。草が多くて大変なところを先にしていたら、非常に手間がかかるし、その間に草が少なかった畑も一面雑草だらけになって、どの畑も全部手遅れになるからね。草が多すぎて大変な畑は、五畝や八畝は荒れたままでもどうにでもなれと覚悟して一旦放置し、草が少なくて手軽なところから片付けるべきだ。そうせずに大変な場所に手を掛けて時間を浪費していると、わずかの畝のために、全体の田畑の手入れが遅れて大損になる。国を復興するのもこれと同じ理屈だよ。そういう方法も知っていなきゃいけない。山林を開拓するときも、大きな木の根はそのまま埋まったままにして周辺を切り開いたほうがいい。そうして三、四年も経てば、木の根は自然に朽ちて簡単に取り除けるからね。これを開拓のときに一息に掘り取ろうとするのは、労多くして功少しというものだ。何事もそうだよ。村を復興しようとすれば、必ず邪魔する人が出てくる。これを処置するのも同じで、その1人にこだわらないこと。そのままにしておいて、自分の務めに励んだほうがいい。 

リカバリープランについて

◆お爺さんは言いました――
 世の中には何も起こらなくても、予想外のことは防ぎきれないものだ。これが何よりも一番恐ろしい要素だ。でも、予想外の異変があっても、それをリカバリーする方法を準備しておけば、異変がなかったのと同じことになる。逆に異変をリカバリーできなければ大変なことになる。
 古い格言に「3年分の貯蓄がなければ国とは呼べない」というのがあるね。これは国だけではなく、家もそうだ。どんなことも貯蓄がなければ、必ずお金が足りなくなるタイミングが出てきて、家を維持できなくなる。国ならなおさらだ。私の教えを聞いた人々は「なるほど節約に専念するんですね」と言うのだが、節約自体に専念しているのでは決してない。ただ予想外の事態が発生したときにもリカバリーできるようにしておこうという話に過ぎないんだ。

◆三河国の高須和十郎という人が舞坂駅と荒井駅との間に港を作ろうと企画し、お爺さんに成否を尋ねました。お爺さんは言いました――
 君の言うとおりすれば心配ないようにも見えるけれども、海というのは測り知れないからね。たとえば、往年の地震で象潟の景勝地はすっかり景色が変わったし、大坂の天保山も一夜でできた山だというじゃないか。全部近年の話だ。こういう大事業は、現地に行って確認したとしても、容易には成否を判断することはできない。図面上ならなおさらだ。大事業を企画するときにはね、「万一失敗があった場合には、こうしよう」というようなバックアップ用の控え堤のような工夫を用意しておくか、どう転んだとしても失敗しないような工夫がほしいところだ。私が印旛沼の掘り割りの下見に行ったときには、どう転んでも失敗がないように工夫を考えたものだよ。たとえ天災はなくても、水脈や土脈を堀り切るようなときには必ず想定外の事態が起こってしまうものだからね。古い格言に「事はあらかじめ定まっていれば躓かない」というのがある。私は異変がある前提で話しているけれども、これは異変を恐れず、異変に躓かないようにするやり方なんだ。これが大事業を実施するための秘訣だよ。君もそういう工夫が必要だ。そうでないと、第一自分が安心できないだろう。どんな天変地異も怖くないような工夫を予め考えておいてから、大事業は実施すべきなんだよ。

まずは小さな単位で実践する

◆お爺さんは言いました――
 大きなことを成功させようとすれば、小さなことを怠らずに勤めるべきだ。それは、小が積もって大となるからだ。何もできない人というのは、大きなことを求めて小さなことを怠り、実践しにくいことだけを気にかけて実践しやすいことには着手しない。だから、最後まで大きなことができないんだ。そもそも、大は小が積み重なってできていることを知らないんだね。百万石の米といっても、粒が大きいわけではない。一万町の田を耕すのも、一鍬ずつの寄せ集めだ。千里の道も一歩ずつ歩いて至る。山を作るのも一袋の土の積み上げからできている。これを明確に意識して一生懸命に小さなことをすれば、大きなことは完成するものだよ。小さなことを軽視するような人には、大きなことは決して成し遂げられないわけだ。
 大量の本を所有していても、文字が読めない人には無意味だ。隣に金貸し屋があったとしても、自分に借りるための信用力がない場合はどうにもならない。向いに米屋があっても、お金がなければ買えない。もし本を読みたければ、まずはアイウエオから1つずつ習い始めるべきだ。もし家を裕福にしたければ、まずは小さなことから積み始めるべきだ。これ以外に方法はない。

どうしようもない状況を乗り越える

◆お爺さんは言いました――
 今日は冬至だね。夜が長いのは仕方ないことだ。夜が長いのを悔しがって短くしようとしても、どうしようもない。こういうのを「天命」というんだよ。そして、この行灯の皿には灯油が一杯しかない。これも仕方がない。一皿の油は、この長い夜を照らすのには足りない。これも仕方がない。どれもこれも「天命」だけれども、「人事」によって行灯の芯の太さを細くした場合、夜中に消えてしまうはずの灯も、明け方までもつだろう。これこそが「人事」を尽さなければならない理由なんだよ。
 たとえば、お伊勢参りをする人がいたとする。江戸から伊勢まで100里だとして、旅費が10円だとする。往復あわせて20日かかるとすれば、1日50銭必要だよね。これは「天命」だ。ところが、もし1日に60銭ずつ使えば、2円の不足が発生する。40銭ずつ使えば、2円の余りが発生する。これは「人事」によって「天命」を伸縮できるという理屈のたとえだ。
 この世界は流動的な世界だから、決して1つの状態には固定されず、「人事」の励み具合に応じて「天命」も伸縮していく。たとえば、今朝焚くべき薪が「存在しない」というのは天命だけれども、次の朝に取って来れば「存在する」という状況に変わる。今、水桶に水がないのも現時点では天命だ。けれども、わざわざ汲んで来れば水があるようになる。何事もそういう話だ。

さらにどうしようもない状況を乗り越える

◆小田原藩はお爺さんの考えた制度を公式に実施していましたが、あるとき事情があって廃止となってしまいました。これを嘆いた小田原の領民がお爺さんのもとにお土産の芋を持参してやって来ました。そこで、お爺さんは言いました――
 たとえ話だけどね、この芋というのも食べれば腹が膨れて、とても良い作物だから、広く植えてたくさん収穫しようと願うのはもっともだけど、天の巡り合わせが冬に向かい、雪や霜が降り、地面が凍るのをどうすることができるだろう。もし冬に無理やり植えたなら、凍結にやられて霜に傷んで、種芋すらも失うはめになるだろうね。是非もないことだ。芋は人の食料となる素晴らしい資質があるからこそ、寒気や雪や霜を凌ぐ力を持たない。逆に、食料にもならないようなゴツゴツしたものは、寒気や雪や霜にも傷まないものだ。これは自然のせいであって、どうしようもない。今の藩の情勢は、冬の時代だ。はやく種芋を土中に埋め、藁で囲い、深く納めて、次の春まで雪や霜の消えるのを待つべきだよ。山や野原が一面雪に覆われ、水は凍り、寒気の激しいときは、もう二度と暖かくならないかのように感じられるけれども、雪が消えて氷が溶けて、草木の芽生えるときも必ずあるはずだ。そのときになれば囲いを外し、種芋を取り出し、畑に植える。すると芋はたちまち畑に広がって繁茂することだろう。このような春の時代が訪れたとしても、そもそも種芋を囲っていなければ植えて増やすことは不可能だ。今、制度が廃止になったのは季節の問題だ。私たちの力ではどうしようもない。このようなときには才能や知識も役に立たない。弁舌も役に立たない。勇気も役に立たない。種芋を土中に埋めておくのが一番だ。そもそも小田原の制度は、前のリーダーの判断によって開始し、今のリーダーの判断によって廃止したものだ。それだけのことだよ。自然の中のあらゆるものは、自然の原理によって生まれたり消えたりする。個々の物が自分自身の原理で生まれたり消えたりするのではない。早く帰って種芋を囲い置き、次の春を待って植え広めなさい。決して心得違いしてはならないよ。

名声について

◆お爺さんは言いました――
 世の中の人を見てみると、たった1銭の柿を買うにも、2銭の梨を買うにも、形の整った傷のないものを選んで取るだろう。茶碗を1つ買うにも、色や形の良いものを選んでは撫でて、鳴らしては音を聞き、選りに選って取るだろう。柿や梨さえもそうなんだ。人に選ばれて婿になったり嫁になったり、役人になって出世を願ったりしようとする人々についても、その身に問題があれば選ばれにくい。自分に問題がたくさんあるのに、上の人から評価されないことについて「上の人間は見る目がない」などと上の悪口を言ったり、他人を責めたりするのは大間違いだ。反省してみると、必ず自分に傷があるものだ。たとえば、酒が好きだとか、酒癖が悪いとか、放蕩だとか、勝負事が好きだとか、惰弱だとか、無芸だとか、何か1つ2つは傷があるものだ。買い手がないのは当たり前だろう。これを柿や梨にたとえれば、形が曲がって渋そうに見えるのと同じだ。人が買いたがらないのも無理はない。どんなに草深い中であっても山芋があれば、人がすぐに見つけて取りに来る。泥深い水中に潜伏する鰻や鰌も、必ず人が見つけて捕まえる世の中だ。この道理をよく考えて、自分に傷がないように心がけるのが大事だ。
 孔子も「聖人になる」と言った途端に聖人になれたのではない。毎日自然に従い、人道を尽して行っていたところ、他人から聖人と呼ばれるようになったんだ。名君とされる堯や舜も、一心不乱に親に仕え、人を憐み、国の為に尽していただけだ。そうしていたら、他人から徳が称えられて聖人と呼ばれるようになった。俗諺に「聖人聖人というのは誰かと思っていたら、うちの隣の孔丘さんのことか」というのがある。実にそういうことだ。昔、私が鳩ヶ谷駅を通りがかったときに、不士講で有名な三志というお方のことを駅で尋ねたことがあるんだが、三志と言っても誰も知らない。よく尋ねたところ、「それは横町の手習師匠の庄兵衛のことじゃないか」と言われたことがある。それと同じことだ。

向上心について

◆お爺さんは言いました――
 ちょっとした一言でも、その人が頑張り屋かどうかは分かる。「江戸では水にもお金がかかる」と言うのは怠け者で、「水を売ってもお金が儲かる」というのは頑張り屋の発想だ。夜九時に「もう十時だ」と言うのは休みたがりで、「まだ九時前だ」と言うのは頑張る心のある人だ。
 何事も下に目を付けて、下と比較しようとすれば、下向きの怠け者になってしまう。たとえば、碁を打って遊ぶのは酒を飲むよりはまだ良い、酒を飲むのは博打よりはまだ良いというふうに言い訳するのと似ている。
 上に目を付けて上と比較すれば、上向きの人間になれるだろうね。  

貧困からの脱出

◆お爺さんは言いました――
 空腹のとき、他の人の家に行って「ご飯をくれ。あとで庭を掃くから」と言ってもご馳走してくれる人はいない。しかし、空腹をこらえて先に庭を掃けば、ときにはご飯にありつけることもあるだろう。これは自分を捨てて他人に従うというやり方だ。何も上手くいかない状況に陥った場合にも上手くいくやり方だ。たとえば、私は若いころに初めて家を建てたとき、1つしかない鍬を壊してしまったことがある。そこで、隣の家に行って「鍬を貸してくれ」と言ったのだが、隣のお爺さんは「今ちょうど畑を耕して菜を蒔こうとしているところだ。蒔き終るまでは貸すのは難しい」と言った。私は家に帰っても特に何も仕事がないので、「それなら私が代わりに畑を耕しますよ」と言って耕し、それから「菜の種を出してください。ついでに蒔いておきます」と言って蒔いてあげて、その後に鍬を借りたことがある。隣のお爺さんは「鍬に限らず、何でも足りないものがあれば遠慮なく言いなさい。必ず都合してあげるから」と言ったものだ。このようにすれば、何かが足りなくて困るようなことはなくなる。あなたも国に帰って新たに一家を持つならば、必ずこのことを覚えておきなさい。あなたはまだ若いから一晩寝なくても支障ないくらいだろう。毎晩寝るまでの時間を使って草鞋を1足か2足を作り、次の日に開拓場に持ち出して草鞋が破れてしまった人に渡しなさい。受けとった人が礼を言わなくても、もとは自分が寝る暇に作ったものなんだからその分だ。 礼を言う人がいれば、それだけの徳になる。1銭半銭でも出してくれる人がいれば、それだけの利益になる。よくこの道理を覚えておいて連日怠らなければ、どんな夢でもかなう。どんなことでも成功する。私が子どもの頃にしてきたことはこれだけなんだ。コストを払って物品を手放してしまうのは損だと主張する人はいるけれど、そうではない。それは何も不自由のない生活をしている人の主張だ。新たに一家を持つときは、何もかもが不足する。そのようなときには、自分の人的コストを払ってやりくりしなさい。世に自分の人的コストほど便利なものはない。また安いものもない。決して自分の人的コストを高いもの、損なものと思わないことだ。

推譲(=投資、貯蓄、社会還元などの総称)

◆お爺さんは言いました――
 世の中は何を指して「満」と定義しているのだろうか。100石を「満」と定義しても、現実には500石や800石というさらに大きな量がある。1,000石を「満」と定義しても、5,000石や7,000石がある。10,000石を「満」と定義しても、500,000石1,000,000石がある。それならいくらを「満」と定義すべきだろうか。これは世の人が混乱していることだ。私は「100石の収入がある人は50石で暮らしなさい」「1,000石の収入がある人は500石で暮らしなさい」というふうに、まず現時点での現実の収入を「満」と定義し、その半分だけを使って生計を立てて、残り半分を「推譲」に回しなさいと人に教えている。収入によって真ん中というのはそれぞれ違うからね。私はこれを「推譲の道」と言っている。ただ「推譲」には区分があって、今年の物を来年に回すのも「推譲」だ。つまり貯蓄のことだね。子孫に相続するのも「推譲」だ。これは家の財産が増えるのを言う。そのほか、親戚や友達にも譲らなければならない。村にも譲らなければならない。国にも譲らなければならない。今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るというやり方ができない人は、人間の身でありながら人間とは呼べない。10銭儲けては10銭使い、20銭儲けては20銭使い、宵越しの銭を持たないというのは鳥や獣のやり方であって人間のやり方ではない。鳥や獣には今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るというやり方はない。でも人間は違う。今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲り、さらには子孫に譲り、他人に譲るというやり方がある。人に雇われて給料を貰い、半分を生活に使って半分をほかに譲る。たとえば、田畑を買うとか、家を立てるとか、蔵を立てるのは、子孫への「推譲」だ。これは世間の人が知らず知らず行っていることだね。1石の収入で5斗を「推譲」に回すのも難しいことじゃないだろう。どうしてかといえば、自分自身のための「推譲」だからね。こういう「推譲」は教えられなくてもできやすい。これより上の「推譲」は、教えられないと難しい。これより上の「推譲」というのは、親戚や友達のために譲ったり、村のために譲ったりすることだ。一番難しいのは、国のために譲ることだ。こういう「推譲」も結局は自分の利益のために譲るんだけれども、財産が目の前でよそに出て行ってしまうように見えるから難しいんだ。
 収入というのは支出した分が手元に帰ってくることをいう。リターンというのは投資した分が後にこちらへ入ってくることだ。たとえば、農家が田畑のために肥しを掛け、魚粉を撒き、作物のために力を尽せば、秋になって収穫量が多くなるのは当然だ。にもかかわらず、菜を蒔いたとしても、発芽するやいなや芽を摘み、枝が出るやいなや枝を切り、穂が出るやいなや穂を摘み、実がなるやいなや実を取るということを繰り返していては、決して収獲はない。商売も同じで、自分の利益だけを考えて買う人のことを考えず、何もかも客から貪り取っていては、店はあっという間に衰退するだろう。
 私のやり方は「分度を設定する」の一点に尽きる。そもそも皇国全体の土地は有限であって、これよりも広くすることは不可能だ。そうである以上、10石なら10石、100石なら100石という設定した分度を守るよりほか、やり方はないんだよ。100石を200石に増やし、1,000石を2,000石に増やすことは、1家だけでやるならば計画できるけれども、限られた土地の中で村全体の家が一斉にそうすることは決してできない。これは簡単そうに見えてなかなか難しいことだ。だから私は「分度を守る」というのを第一条に掲げているわけだ。この道理をよく理解して分度を守れば安泰だね。杉の種を蒔き、苗を仕立て、山に植えて、その成長を楽しみに待つだけだ。もし分度を守らなければ、先祖から譲られた大木の林を全部一気に伐採しても間に合わなくなる。分度を超えて財産を使うことの過ちは恐ろしい。財産がある人は「1年の衣食はこれで十分だ」というポイントを定めて、分度が多いか少ないかにかかわらず、使える分以外については推譲(投資、貯蓄、社会還元)に回し、社会のために生きればその利益は計り知れないものとなるだろう。

『二宮翁夜話』各巻より改編・抄訳

あとがき

以上は、「お爺さん」こと二宮金次郎(二宮尊徳)が晩年に語ったとされる哲学思想の一部分である。つまり、この本の「お爺さん」とは小学校の校庭に立っているあの二宮金次郎と同一人物である。

本稿が原典とした『二宮翁夜話』は二宮翁の弟子である福住正兄の手によって書かれたものである。二宮翁は江戸時代に歿したが、福住は二宮翁が生前に語ったこぼれ話のメモを大量に保管しており、これを『二宮翁夜話』としてまとめ、明治年間に出版した。

本稿は、『二宮翁夜話』全巻の中から話題別に選んだ章句を前後自在に切り貼りし、適宜割愛し、独自の見出しを付け、意訳を差しはさみつつ、現代的な話し言葉に置き換えて編集したものである。原典筆者である福住は後世の参考となることを意識して原義を乱すことを怕れていたが、本稿は分かりやすさや話の流れを重視して再構成したものである。
しかし、ここまで読んでいただいた皆さんには、一次資料に遡れるだけ遡ることを尊ぶ二宮翁の教えに従い、現代語訳よりも原典のほうを読んでいただきたいというのが本心でもある。

以下に原文へのリンクを掲載する。

原文へのリンク集

ウェブテキスト版(新字旧仮名)
巻之一:https://sybrma.sakura.ne.jp/31ninomiyaouyawa.html
巻之二:https://sybrma.sakura.ne.jp/75ninomiyaouyawa.maki2.html
巻之三:https://sybrma.sakura.ne.jp/76ninomiyaouyawa.maki3.html
巻之四:https://sybrma.sakura.ne.jp/77ninomiyaouyawa.maki4.html
巻之五:https://sybrma.sakura.ne.jp/78ninomiyaouyawa.maki5.html
続篇: https://sybrma.sakura.ne.jp/299ninomiyaouyawa.zokuhen.html

スキャン画像版(昭和18年、旧字旧仮名、活字版)
『報徳要典』二宮翁夜話の部:https://dl.ndl.go.jp/pid/1110956/1/234

スキャン画像版(明治42年、旧字旧仮名、活字版)
『二宮翁夜話』全:https://dl.ndl.go.jp/pid/758848/1/25

スキャン画像版(明治17-20年、旧字旧仮名、変体仮名あり、木版印刷)
『二宮翁夜話』巻之一:https://dl.ndl.go.jp/pid/758842/1/7
『二宮翁夜話』巻之二:https://dl.ndl.go.jp/pid/758843/1/4
『二宮翁夜話』巻之三:https://dl.ndl.go.jp/pid/758844/1/2
『二宮翁夜話』巻之四:https://dl.ndl.go.jp/pid/758845/1/2
『二宮翁夜話』巻之五:https://dl.ndl.go.jp/pid/758846/1/2


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