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ところで、「自分の頭で考える」って結局どういうこと?

2018年ごろ、何をきっかけに買ったのか忘れてしまったが、『宗教なんかこわくない!』という本に頭をガツンとやられてしまった。

物理的に殴られたわけではなく、精神的な衝撃を受けたのだ。
まるで脳神経をでっかい異物がむりやり通過したかのような感覚だ。
いや、ぼくは確かに頭から「ミシミシッ」という音を聞いたので、物理的に殴られたといっても過言じゃないかもしれない。

とにかく、『宗教なんかこわくない!』を読みながら、ぼくはある種天啓ともいえるメッセージを著者である橋本治から受け取っていたのだ。

「自分の頭で考えるってのは、こうやるんだよ」と。

ちょうど「自分の頭で考える」ということに疑問を持ちはじめたころだった。社会人になり2、3年目くらいのルーキーなぼくにとって自己啓発本の「自分の頭で考えろ」というメッセージはまだ新鮮だった。そういうメッセージに触れるたびに「自分の頭で考えんとなぁ」と分かった気になっていたのだったが、同時に頭には蜃気楼のような”もや”がかかった気分になっていた。

その”もや”の正体は「自分の頭で考えるって、具体的にどういうことなの?」という疑問だ。

自分の頭で考えることはかんたんそうでむずかしい。心理学の研究によると、人は周りに流されがちだし、身近な経験や感情だけでものごとを決めつけてしまうし、とんでもない錯覚を現実だと思い込んでしまう。1つの考えを批判的に検討し、疑い、結論づける前に再度検証をおこなうことはとても難しいのだ。

当時のぼくが感じていた”もや”は正しい。
「自分の頭で考える」は一朝一夕には身につかないスキルだからだ。

橋本治は、そんなぼくに「自分の頭で考えるってのは一体どういうことか?」をデモンストレーションしてくれた。本書を読めばよくわかると思うが、この本を読むと、橋本治がたどった思考の道筋を追体験できる。橋本治は読者を置いてけぼりにすることなく、常に読者の半歩先を歩いてくれる。

学校教育で主に教わったのは「正解を見つける(=正しいレールに乗る)」ことで、それは「自分の頭で考える」ことではない。もしかすると、ぼくは橋本治に出会うまで、だれにも自分の頭で考える方法を教わってこなかったと言えるかもしれない。大人は「正解を見つける」ことと「自分の頭で考える」ことをはっきりと区別していない。大人が「自分で考えなさい」と言うとき、それは「わたしが思い描いている正解を当ててみなさい」という意図だったりすることはよくある。その場合、一生懸命考えても「それは違う」と言われてしまい、自分の考えが間違ったものということにされてしまう。

だから真面目な人は「考えろ」といわれても「正解はなんだろう?」という思考になる。そして、「考える」という動詞に「自分の頭で」という謎の条件をつけられてもほとんどピンと来ない。今までも自分の頭で考えて正解を見つけてきたからだ。

『宗教なんかこわくない!』では、「自分の頭で考える」の対極として宗教が取り上げられている。橋下はいう。”宗教”とは、「まだ人間達が自分の頭で十分にものを考えられない時期に作り出された、”生きて行くことを考えるための方法”」なのである、と。

過去、人間にとってこの世はわからないことばかりだった。なぜ雨は降るのか?なぜ風は吹くのか?なぜ人は死ぬのか?
人間ができたのは、思いつく限り納得できる話をただ信じることだった。「それはすべて神様の思し召しなのだ」。

「正解を見つける」も宗教と同じかもしれない。学生のころのぼくの感覚は、大人は世の中で起きている真実(=正解)が分かっていて、ぼくたち子どもはその正解を学べばいい、というものだった。それは大人を信じることに他ならない。とりあえず大人の言っていることを信じれば、生きていくことができるという宗教だ。実際に、大人の言うことを聞いていれば「良い子」として成績表に有利だったりする。

そして、ぼくが子どもだったときよりもその真実はより民主化された。民主された「おかげ」なのか「せい」なのか、日々、ぼくたちの周りでは新しい真実が生まれては死に、生まれては死にが猛スピードで繰り返されている。この高速で繰り返される真実のスクラップ&ビルドの中で、新しい真実により近い場所にいた人が影響力を持つ。そして、その周りに人が群がったと思ったらあっという間に去っていく。

「神は死んだ」といわれて久しいのに、今でも神はそこら中にいる。

じゃあ「自分の頭で考える」とはいったいどういうことだろう?

それは、「自分なりに理屈で考えて自分で結論を下してしまう」ことだ。
橋下は、もともとの仏教(ブッダの教え)は宗教ではなく、自らが自らを獲得して行くための”思想”だったとする。ブッダが苦行の末に悟ったこと、それは、「苦行なんか無意味で、自分はただの人間だ」ということだった。ブッダは特別な存在になったのではない。ただの人間に戻った(=身分制度から精神的に解脱した)のだ。

今の感覚からすると大したこと言ってないじゃんと思うかもしれないが、輪廻転生という考え方が主流で、バラモンという最上級の身分の者だけが出家の末に何か特別な存在になると信じられていた当時、この考え方は革命だった。輪廻転生という既成の世界観で生きるのではなく、自分の頭で考えて何を信じるのかを決定していく世界観を見つけたからだ。

誰が決めたのか分からない「輪廻転生」などという”宇宙の法則”の存在を無条件に肯定している限り、「自分の人生は自分自身のものだ」という事実は訪れない。だから彼は、彼以前に存在するすべての”法則”を、”幻想”だとして斥けた。「すべては、人間の意識が作り出すもので、そこに”絶対”などというものはない」と。

宗教なんかこわくない!

すべては人間の意識が作り出すもの。だから、自分にとっての真実を決めるのは自分しかいない。自分の主観で得た経験や第三者から得た知見や客観的な科学的根拠などをいくら集めてもそこに絶対的な真実はない。だからこそ、最終的な決定はそれぞれの肩にかかっている。いわば、世界の真実かどうかはわからないが、自分にとっては納得がいく結論を一旦の真実だと設定するのだ。

自分の頭で考えることは孤独な作業かもしれない。だれかに間違っていると言われるかもしれない。今のトレンドとは逆行しているかもしれない。でも、孤独だからといってそこから逃げてしまえば、ブッダが悟りを得る前から存在する、「なにかを信じる世界」しかない。

その世界では宗教が横行し、人々は次は何を信じるべきか戦々恐々としてあたりをキョロキョロしている。今でも新旧問わず宗教がありがたがられる理由だ。橋本治は「宗教とは、現代に残った過去である」といっている。とっくの昔に自分の頭で考えることを許されているはずなのに、それを放棄して一心に「信じる」ことを美徳とする慣習が今でも残っている。信じないやつは異教徒で、異教徒だとわかると脊髄反射的に石を投げてくる人もいる。

20代半ばだったぼくにとって、この橋下の哲学は衝撃だったと同時に、読書にハマったきっかけでもあった。『宗教なんかこわくない!』はぼくのルーツだといっても過言ではない。予備としてもう1冊買ったほどだ。(今知ったが、電子書籍にもなっているらしい!)


間違って2個買ったんじゃないよ

この記事を書く上で、過去のマーキングを頼りにパラパラとめくっていたが、30歳になった今読んでもおもしろかった。また発見がありそうだ。

積読本を読み終わったら6年ぶりにまた読んでみようかな。



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